人との縁で文化を創る。本業複業に全力投球!パーソルキャリア人事 星野賢紘の人生観

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第978回目となる今回は、パーソルキャリア新卒採用部 星野賢紘さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

本業はパーソルキャリアで新卒採用、複業は個人事業主として採用支援と「ともしょく」事業を運営している星野さん。人生のテーマを「人とのつながり」と掲げる星野さんの価値観に迫ります。

パーソルキャリア新卒採用部と複業の2本柱で活躍!

ー最初に、簡単な自己紹介をお願いします!

星野賢紘です。今は仕事で大阪の天満に単身赴任しているのですが、東京の浅草と往復する2拠点生活を送っています!仕事ではパーソルキャリアという人材会社で人事に携わりながら、複業で「食」に関わる事業を運営しています。

パーソルキャリアには新卒で入社しており、はじめは企業様の採用コンサルティング業務に携わっていました。その後今の部署に配属になり、新卒採用を担当しています。

ー複業についても教えてください!

複業は「気持ちいい食事をより身近に」というコンセプトで毎週末に生産者さんと一緒に食べるイベントを開催しています。農家さん、漁師さんから生産物を送っていただき、オンライン上で一緒にシンプルな調理をし、生産者さんとお話をしながら食事をするという内容です。イベントは「共に食事をする」からとって「ともしょく」という名称です。イベント時にはMCも担当しています。

アーティストのGReeeeNに支えられた野球部時代

ー幼少期について教えてください。

内弁慶ないたずらっ子だったようです。家だとよく騒いでいたようですし、ヨーグルトを顔にべちゃべちゃに塗っている写真も残っています(笑)幼稚園に行くと、親の後ろに隠れてモジモジしているような子どもでした。

小学校1年生からは、野球を始めました。暇な時があれば、妄想して一人で野球をするという遊びを楽しんでいましたね。チームの中ではうまい方で、体は小さかったのですが、足が速く活躍できていたことを覚えています。

しかし、中学生になると体格差が如実にでてきて、野球がうまくいかなくなったんです。また兄が同じ野球部に所属していて、入れ替わりで入部したこともあり、顧問の先生から優遇されていると同級生から冷やかされることもありました。

小学生時代とは違い、肩身の狭い野球人生を送っていましたね。

学校の友人関係についても、当時いじられキャラで辛く思うこともありました。いじられてみんなの輪にいましたし、笑わすのは好きだったんですけど、いじりがキツく感じることもあったことを覚えています。

ー当時、心の支えになっていたものはありますか?

アーティストのGReeeeNです。学校に友達はいたものの心を許せる本音を話せる友人はいませんでした。また、反抗期ということもあり親とも仲がよくない時期だったので、悩んだら誰かに相談するというより自分で咀嚼して解決するしかない状況でした。

そのような時期に、家でよく流れていた音楽がGReeeeNだったのですが、その歌詞にものすごく救われていました。

周囲の期待から”やらされ勉強”に。転機になった高校受験

ー中学時代について、もう少し教えてください。

人生で一番腐っていた時期だと思います……。結論から言うと、すごく失敗した時期です。兄が頭がよいことから、周囲からは「あいつの弟ならできる」というレッテルがありました。

親や先生からも「あの高校受験するよね?」と期待されていて、自分の意思ではなく、周囲の期待から勉強をしていました。

そのような気持ちだったので、高校受験期間は勉強をするフリをして、実はテレビを見ていたり、ラジオを聞いていたり……。結果、志望校は不合格で大失敗でした。

「親が決めた志望校で、自分は元々行きたくなかった」と、不合格の結果も親のせいにしていました。ただ高校入学直前に、自分の人生を人に委ねていたり、他責で考えている自分を、すごくダサいなと思いました。

「自分がやりたいからやる」「自分で決めたから、そこに向かって頑張る」という主体性が大切だと感じたのです。この経験は、自分が変わるいい経験になったと思います。

ー高校時代の野球についてはどうでしたか?

副キャプテンを務めていました。当時、『ROOKIES』というドラマの影響を受けて、周りに鬱陶しがられるくらい熱くなり、自分の中では一生懸命野球に取り組んでいました。

甲子園を目指せるレベルの高校ではなかったのですが、その中でも県大会を目指していこう、という熱い気持ちをチームで持ちたいと思っていました。

しかし、チームの気持ちが足りないように感じ、「主体性が大事!」「本気でやるのが大事!」と口うるさい副キャプテンだったと思います。