経験と今のフィールドを武器に世界を変える!前田和真の歩む人生

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第711回目となる今回は、NPO法人テラコヤ代表理事 前田和真さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

教員として働く中で人生初の挫折を経験し、様々な人の影響を受けて起業した前田和真さん。ご自身の経験を生かして事業を展開する前田さんにお話を伺ってきました。

教育の道へ進むルーツとなった学生時代

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

NPO法人テラコヤ代表理事をしている、前田和真と申します。様々な事情を抱えている高校生に対して、無料で大学受験のサポートをする学習支援を行っております。また、NPO法人テラコヤとは別にもう一社経営しており、普段から教育活動も行っております。本日はよろしくお願いします!

ーよろしくお願いします!早速ですが、前田さんの過去を振り返ってお伺いしていきたいと思います。どのような学生時代でしたか?

軽音楽部ではボーカル、高校から始めた野球部ではキャプテンを務め、非常に楽しい高校生活を送らせていただきました。ただ、学校生活が楽しくて勉強が疎かになり、第一志望校との学力の開きはかなり大きかったです。

そんな中で高校3年生の12月に最後の三者面談がありました。私の第一志望は早稲田大学で慶応義塾大学も受験するつもりでいたのですが、先生から「お前に慶応は無理だから早稲田に絞れ。慶応に受かるのは3000万分の1の確率だから」と言われました。

しかし、頑固な性格だったため、素直に従わずに受けてみたら受かってしまって。第一志望の早稲田は5学部受けてすべて落ち、慶応のみ合格しました。当時の成績を客観的に見ると「受けるな」と言うのは当然だと思います(笑)。

ーすごいですね。3000万分の1という数字はどこからきているのでしょうか?

私もいまだに分からないのですが、どれだけ厳しいのかを伝えるために言ってくれたのだと思います(笑)。

自分としても力が足りないのは感じていたので、勉強をがんばって、努力で結果を勝ち取る達成感や素晴らしさを実感しました。この経験は、後の教員生活にも影響を与える出来事でした。

不安しかなかった社会人スタート前日

ー大学時代もお伺いしてよろしいですか?

はい。大学時代はスタジオジブリの経営に携わっている方に講演会をしていただいたり、音楽プロデューサーの方とお会いさせていただいたりといろいろな大人のお話を聞いていました。

かと言って大学では特に目立った活動をしていたわけではなくて、普通になんとなく過ごしていました。

ー慶応なので、なんとなくと言っても普通の大学とは違うイメージがあります(笑)。

そんなことはないです(笑)。

ただ、大学でなんとなく過ごしてしまっていたために、その後の私の人生は波乱万丈になったのだと思っています。

ー大学卒業後、教員生活のスタートはどのような心情でしたか?

私立の学校から内定をいただいた嬉しさやありがたさは感じていましたが、昨日まで大学生だったのに今日から社会人になる不安をとても感じていました。

また、高校時代が楽しかったという理由から、なんとなく高校に勤めればいいと考えてキャリアを決めたので、思い入れは強くなかったです。

社会人1日目は「今日から社会人か。あと40年以上も働かなきゃいけないのか」とマイナスな思いを抱いていました。

ー社会人1日目を今でも覚えていらっしゃるのですね。

そうですね。前日は特に覚えています。「今日で終わるんだ、俺の人生」と思っていました(笑)。

私の家族構成も影響していると思うのですが、身内にサラリーマンをしている人がいなかったので、働く大人の姿が想像できなくて恐怖と不安でいっぱいでした。「大人って何なんだろう?働くって何?辛いのかな、大変なのかな?楽しいのかな?」とあまりよく分からない状態だったと思います。

ー教員生活が始まってからの道のりはいかがだったでしょうか。

1年目は社会人の生活に慣れるので精一杯でした。歳もあまり変わらない高校生の集団を相手に、雰囲気をコントロールしながら、40〜50分間、話をしなければいけないのがかなりきつかったです。

2年目は高校1年生の担任をさせていただきました。当時の学校は高校1年生から担任がそのまま持ち上がっていくシステムだったので、徐々に「この子達をいい大学に導かなければ。いい結果をもたらさなければ」と責任感と愛着が強くなりました。

がんばればがんばるほどその思いは募り、幸福度と情熱は右肩上がりでした。

ー高校3年生の担任時は年休3日で朝7時から夜11時まで生徒と一緒に勉強されていたそうですね。

はい(笑)。休んだのは元旦と大晦日とお盆くらいで、常に学校にいました。

生徒と年齢が近かったので舐められてはいけないという思いが強く「俺も朝から来るんだからお前らも来い」と厳しく振舞っていましたね(笑)。

生徒達には朝8時から夜8時まで勉強させて、私はその前後の時間で生徒の教材を準備していました。学校に頼まれたわけでもなく、勝手に講習をしていました。

私が持っていたクラスは私立文系型のクラスで、自分の受験科目と変わりませんでした。そのため、担当の国語以外に英語の講習をしたり、世界史・日本史のテストを解かせたりしていました。

ー生徒が帰ってからかなり時間があると思うのですが、何をされていたのですか?

教材の準備とその日の記録をしていました。

学校教育は教員個人に委ねられている部分が多く、組織的に情報を共有する文化が一般企業と比べると薄いです。そのため、自分のがんばりを学校のナレッジとして蓄積したくて、その日取り組んだ課題やテキストを記録し、学習内容に対してどれだけ効果があったのかを記録していました。

データを蓄積すれば来年度・再来年度の生徒にも適用できると考えたのです。それまでの再現性のない教育を、再現性のあるものに変えたいと思い、こだわって記録していました。

ーいいデータは取れましたか?

模試のデータやどの生徒がどれだけ取り組んだのかも記録しましたが、自分のクラスだけだと相関性を算出するのはなかなか難しかったです。

しかし、そのときに感じた「教育現場は属人的で再現性が低い」という問題意識は持ち続けているので、今の事業や活動に生かされていると思います。

ーそれだけ本気で打ち込んでいたらいろいろ得るものはありますよね。当時は毎日ランニングもされていたとか。

はい。ランニングはとても嫌いでしたが、担任をしていたクラスの子達が得意ではない勉強をがんばっていて。それなら私もランニングをしようと思いました。

当時は負荷をかけることに快楽を覚えていました(笑)。