どん底からでも、何度でも立ち上がれる。齋藤美紀が考える、理想の働き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第962回目となる今回は、齋藤 美紀(サイトウ ミキ)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

5回の転職を経て、現在は事業会社で事業企画を務める齋藤さん。子ども時代に熱中していたものや社会人生活での挫折、今後の目標などについてお話していただきました。

楽しかったバドミントンが、いつしか足かせに

ー簡単に自己紹介をお願いいたします。

1993年生まれの齋藤美紀です。5回の転職を経て現職に就きました。

現在は事業会社で、事業戦略の実行支援をしています。これまでは営業、インサイドセールスなどの他職種を担当していましたが、現職は過去のキャリアがつながった先にある仕事だと感じます。

私はこれまでうつ病、燃え尽き症候群などの精神疾患に悩まされることが多く、あることをきっかけに希望を持てるようになりました。

では、まずは幼少期のエピソードを教えてください。

とにかくバドミントン一色の生活でしたね。小1から始めて、毎日没頭していました。

丸1日クラブチームの練習に打ち込んでいて、友だちと遊んだ記憶といえば、練習の合間にクラブチームのメンバーと鬼ごっこやかくれんぼをしたことくらいです。

バドミントンは、母がクラブに所属しているのを見て、私もやってみたい!と思ったのがきっかけで始めました。チーム内では、真面目でしっかりしていた方なので、幼少期から大学までを通して、副リーダーを務めることが多かったですね。

ただ幼少期は太っていたせいで、先輩たちにいじめられて、練習に行きたくない日もありました。ただ試合に勝つと、楽しさが大きくて、母にも褒められて嬉しかったんです。もっと上手くなりたい!という強い気持ちも持っていました。

練習を重ねるうちに、県大会で優勝することは当たり前になり、小6の頃にはダブルスで全国3位になったこともありました。

所属していたクラブが強豪で、全国大会で優勝した人がたくさんおり、私のレベルも引き上げられたのかなと思っています。あとは、自分以外のチームメイトが優勝しているのを見て、自分もそこに立ちたい!と感じることもありました。周囲の環境は、強くなれる大きな要因でしたね。

その後もバドミントンは続けたのでしょうか?

はい、中学以降も大学卒業まで続けました。中学時代は、クラブの友だちとともに学区外の学校に進学しました。この頃からあまり結果を残せなくなってきて、最高記録は女子ダブルスの全国大会で、ベスト16になったことです。

小学生の頃に「かっこいい!」と言ってくれるファンが多かったことをずっと覚えていて、勝たなければいけないプレッシャーに苦しんだ時期でした。私からバドミントンを取ったら何も残らないと思っていたんですよね。

当時、獣医さんになりたいなと密かに思っていたのですが、バドミントン一筋だった私が学力で高校に行くことも難しいのに、獣医さんになんてなれるわけがないと諦めていました

結局バドミントンでしか高校進学はできないと思い込み、石川県のバドミントンの強豪校からの推薦があったことと、母からの勧めもあり高校の進学先を決めました。この頃、すっかりバドミントンをやることが嫌になっていて、試合で勝ちたいとも思わなかったんですよね。

ケガで思うように勝てなかった時期もあり、小学校時代の自分の栄光を考えて苛まれることも多々ありました。周囲の期待に応えたいのに応えられない情けなさや、遠方の高校に進学したせいで自分だけ頼れる家族が近くにいない孤独さから、だいぶ辛い時期を過ごしました。

楽しい大学時代から一転、どん底の社会人生活

バドミントンはだんだんと苦しいものに変わっていったのですね。

小学生のころの自分に苦しめられていました。だから、大学でバドミントンから解放されたときはすごく楽しかったんです。大学もバドミントン推薦で進学しましたが、親からは「もう頑張らなくていいよ、たくさん遊んで」と言われていて。バドミントンで勝たないと自分自身も認められないという先入観から解放された気持ちになりました。

大学でもバドミントン部に所属していましたが、練習後に飲み会をするなど、朝方まで遊んでいましたね。人生で1番遊んでいたのはこの頃だなと思います(笑)。

大学は、幼少期から高齢者まで、全年代のスポーツについて学べる学科を選びました。大学進学で、スポーツに対する見方、考え方が変わったと思っています。

進学した大学にはバスケ、ラグビー、陸上などの各競技でトップレベルの選手たちが集まっていて、選手たちの姿勢から学ぶことが多かったですね。以前は自分もトップレベルの選手でしたが、今度は第三者的な立場から俯瞰できるようになっていました。

小学生の頃から知っている選手が世界のトップとして活躍しているのを見たとき、尊敬の念しか湧かないんです。何万人ものスポーツ人口の中で、トップになれるのはほんの一握りなんだなと実感しました。ほかの何よりも練習に時間をかけて、競技に打ち込んでいるのを見ると、ただすごいとしか言えないですね。

大学卒業後はどんな進路を選びましたか?

中古のワンルームマンションを扱う投資不動産の企業に新卒入社し、営業として働きました。特にやりたいことはなかったのですが、就職はしないといけないなと思っていて。色々な業界を見るうちに、不動産の資産性について魅力を感じ、不動産一本に絞って就活を進めました。

就活は、バドミントンを武器に進むことができない初めての機会でした。親からもバドミントンからも解放され、何もない状態で進路を決めたのは初めてでしたね。後ろ盾がなく「落ちるかも」と焦ったのも初めてでした(笑)。

ビジネスで結果を出すべく、目標達成するための方法や手順を考えるとき、バドミントンで培ったことが活きましたね。入社後は結果を出さなければと必死になり、目の前のことにがむしゃらに取り組んだ結果、退職までの半年間で、同期20人中1番を取ることができました。

ー半年で退職を決めたのですね。

この頃うつ病になり、転職を決めたんです。友人に囲まれて楽しい大学生活を送っていたため、社会人になって休みが友人と合わないことがストレスになりました。水曜日休みで土日は稼働と、周囲とのスケジュールがなかなか合わなくて、友人とも遊べず仕事にのめり込むしかなかったんです。仕事の結果が出れば出るほど、だんだんと追い込まれていきました。

仕事にのめり込む生活を続けた結果、涙が出たり眠れなかったりと、自分が自分でなくなっていったんです。病院に行ってもよくならなかったですね。

こんな状態で仕事をやめてしまったら社会復帰ができないと思い、転職活動はしていました。このタイミングで、心からこんな大人になりたい!と思える、わたしの人生を変えてくれた人に出会いました。その人はある企業の社長をしていて、夢を語るなど未来に希望を見出せる人で、前向きな姿勢に憧れたんです。当時勤めていた不動産会社では罵声を浴びせる大人しかいなくて、辛かったですね。

転職活動を経て2社目に入社しましたが、借金を友人に持ちかけられて250万円をなくしたりと、人生のどん底に落ちていました。

素敵な人との出会いが何よりの救いだったんですね。

そうですね、社長に近づきたい気持ちが大きくて。2社目で雇ってもらえないかと打診しましたが断られて、やむを得ず別の企業を選びました。なかなか諦められず、仕事の結果を社長へメールでたくさん送り、アピールしました(笑)。

熱意に折れてもらえたのか、2ヶ月後くらいに誘っていただき、3社目で社長の会社へ入社しました。ここから4社目までは、振り落とされないように必死で働く日々でしたね。

現在5社目。入社後はプレイングマネージャーになり、自らの成果とメンバー育成とチームの成果創出に奔走し、常に仕事を気にして休めない日々が続きました。その結果、燃え尽き症候群になったことがきっかけで、働き方をがらりと変えることにしたんです。

思い返せば、これまでの人生でバドミントンに励んでいた幼少期が1番よかったなと思っていて。その頃は、バドミントンも仲間も好きで、やるときはがむしゃらにやる一方、やらないときには家族や友人、パートナーなど大切な人と一緒にいたなと。仕事とプライベートのバランスを取りながら目標に向かって頑張れるようになるためには?と考えるようになったんですよね。

そのためには、仕事で成果をあげるための仕組みを変えることと、自分をより深く知る必要があるなと思い、現在は日々の時間の使い方はもちろん、組織全体を俯瞰して、自分がいなくても成果を出せるよう工夫しています。