地域には、多世代ごちゃまぜの「お役と居場所」がある。クリエイティ部代表、羽賀優太のお役

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第926回目となる今回は、クリエイティ部代表、羽賀 優太(はが・ゆうた)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

「憧れからつながるチャレンジ循環の生態系づくり」を掲げて活動している羽賀さん。地域の旗振り役や多世代ごちゃまぜコーディネーターとして、行政・市場・コミュニティを巻き込み活躍するまでに至った道のりを教えていただきました。

幼少期は興味関心が赴くままに行動

ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

千葉県木更津市で、地域活性化などの活動をしている羽賀優太です。「憧れからつながるチャレンジ循環の生態系づくり」を掲げて、多世代ごちゃまぜの居場所作りやイベント企画を行っています。

それから、日本文化を地域や世界へ広げていく仕組みも作ろうとしているところです。

10年後に目指している世界観に向けて、着々といろいろなステップを踏みながら、地域の旗振り役や「多世代ごちゃまぜコーディネーター」として活動しています。よろしくお願いします。

ーここからは、羽賀さんの過去を振り返ってお伺いします。どのような幼少期を過ごされたのでしょうか?

幼少期は、地域の方に見守られながら、自由奔放に過ごしていました。人とのつながりが強い地域に住んでいたので、街を歩くと5分に1回は知り合いのおばあちゃんに会うようなところでしたね。

祖母が寝たきりになってしまったときも、家に地域の方が来てくれて、一緒に遊んでくれたり、おばあちゃんの介護をしてくれたりしていました。当時から多世代のつながりがあり、僕の活動の原点になっていると思いますね。

それから小学生のころは、穴掘りに夢中でした。社会科の授業で日本の裏はブラジルと聞いて、掘り進めていけばブラジルにいけるんじゃないかなと思っていました。

周りの声も聞かずに、泥だらけになりながら掘っていましたが、水道管を傷つけて怒られるようなやんちゃな子供でしたね。

当時は積極的な不登校で、登校中に気になったものがあったから森に行っちゃうとか、知り合いのおばあちゃんの家に寄っていくとか、興味関心が赴くままに行動していました。

ー周りの方はどういう反応だったんでしょうか?

両親は僕の自由奔放さを半ば諦めて、見守ってくれていましたね。

親の目が離れていても、地域のおばあちゃんたちが見守っていてくれるので、自由に行動できていました。地域に育てられていたんですよね。

家族や地域の方の存在が、ありがたかったなと思います。

ー中学生のころは、どんな子どもでしたか?

中学生のころ、不登校になってしまったんです。入学式の前に同居していた祖母が亡くなったことにより、心にぽっかり穴が開いたようになってしまいました。

僕が生まれたころに祖母が脳梗塞で倒れて、そこから15年間自宅介護でした。半身不随で車椅子生活でしたが、一緒にトランプなどで遊んだり、物知りだったのでいろいろ教えてくれたりしていましたね。

祖母と日常的にコミュニケーションをしていたからこそ、亡くなったあとにすっかり気力や活力がなくなってしまったんです。

それから、中学校の近くに火葬場があったこともつらかったです。火葬の煙がフラッシュバックしてくるんですよね。最初のころは全然通えませんでしたね。

ーそこからどうやって乗り越えられたのでしょうか?

学校の先生や友人、家族や地域の方のおかげで乗り越えられましたね。不登校中は、家にこもってゲームをしたり、ぼーっとしたり、うずくまっていました。

ある日学校に行ってみたときに、不登校の生徒として扱うわけではなく、普通の生徒のように受け入れてくれたんですよね。変な雰囲気にならず、自然体のままで周りが受け入れてくれたこともあり、部活にも参加できるようになりました。

地域のおばあちゃんたちも「おばあちゃん大変やったね」って家に来て、僕も気にかけてくださって。地域の方が、1年で100人以上入れ替わりでやって来て、「おばあちゃんってすごいな」と思いましたね。

憧れの先輩の影響で行動が変化する

ー優太さんに影響を与えた方との出会いがあったそうですね?

中学1年生の夏に、1つ年上の先輩と出会い、すぐに影響を受けました。今でも憧れている人です。

僕がバレーボール部に入っていたときの先輩でした。たまたま話す機会があり、少しずつ会話するようになって仲良くなりました。

目立って後ろ指をさされることもいとわず、自分の思いを正面からやっていく力強さに憧れましたね。「私は、私なんだからやるんだ」という強さがあったんです。自分自身の力や意思で、自分の人生を歩んでいる姿って本当にかっこいいなと思いました。

憧れのあの人ががんばっているから、僕もがんばろうって思いましたね。

ー小学生時代の優太さんに少し似ていませんか?

今振り返ってみると、小学生の僕に似ていると思います。

似ている部分もありますが、僕は周りにとやかく言われていなかったんですよね。自由にやっている部分は一緒ですが、反対する人を跳ね返す強さは僕にはないものでしたね。その力強さが、本当にかっこいいなと思っていました。

ー憧れの人との出会いで、何か変化はありましたか?

変化や影響は、めちゃめちゃありました。今までは何となく過ごしていましたが、勉強や部活、校内の活動もがんばろうと思いました。

今まで挑戦してこなかったこともがんばってみたり、委員長に立候補してみたりと、大きな影響を受けましたね。前に立って話す楽しさを感じることができて、いい経験になったなと思います。

意思を持って取り組むようになり、「私の人生は私のもの」「やらない後悔よりやった後悔」と思い、自分の人生を歩んでいく起点にもなりました。

高校受験で挫折、仮面をつけるように

ーそこからは、どんな進路選択をされたのですか?

実は、志望高校に落ちてしまいました。

勉強をがんばり始めた時期が遅かったこともあるかもしれないですね。悔しかったのですが、偏差値が少し下の高校に進学しました。

志望校には入れませんでしたが、がんばりたい気持ちは強いままでしたね。自分で目標を立てて、大学の指定校推薦を目指して行動することにしました。

今までの自分からすれば、少し無茶をしていたのですが、「指定校に行くための羽賀優太が高校生活をおくる」と設定して、一種の仮面をかぶったんです。自分のことや友だち関係も後回しで、自分の目標のために、その役になりきるようにしました。

指定校推薦を取るための人格を作り上げていきました。学校の成績や評価が良い、課外活動もする、部活や進路に必要な資格を取る、生徒会もする。よくある漫画のキャラクターのような、キラキラした主人公の仮面をかぶって、完全になりきっていましたね。

ー仮面をかぶった高校生活は、どのような感じだったんでしょうか?

目標のための高校生活でしたね。実際にやったことでいえば、部活を3つ、アルバイトも3つしていました。裕福な家庭ではないので、奨学金と自分のアルバイト代で指定校に行こうと思っていました。

生徒会の副会長を務めて、簿記の資格も取りました。憧れの先輩に影響を受けて、苦手なこともがんばろうと思い、英語のスピーチコンテストに出て、県3位をいただきました。そのときは、すごくうれしかったです。

ーその後指定校推薦は無事もらえましたか?

それがですね。応募する1ヶ月前に、行きたかった大学の指定校枠がなくなったんですよ。今年度はありませんって言われて、台風時の海ぐらい心が荒れていました。「なんのためにやったの?」「このためにやってきたんだけどな」という気持ちでしたね。

憧れの先輩などに、気持ちを聞いてもらっていました。先輩には、「なるようにしかならないんじゃないかな」と言葉をもらいましたね。その言葉を受けて、自分で設計して全て決めてやっていくのって、それだけではおもしろくないよねと受け入れましたね。

今から受験勉強するわけにもいかないので、会計士の道に行こうかとも悩んだのですが、僕のレベルにあった大学を選びました。