挑戦しやすい環境を作る。鹿児島のスタートアップを支援する村上将太郎が描く未来

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第685回目となる今回は、鹿児島のスタートアップを支援する村上 将太郎(むらかみ しょうたろう)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

鹿児島県で生まれ育ち、現在鹿児島のスタートアップ支援を行う村上さん。なぜ鹿児島で活動を続けるのか、何がスタートアップ支援を始めるきっかけになったのか。村上さんの半生を紐解きながら、その答えに迫っていきます。

目指すは「挑戦のロールモデル」

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします!

村上将太郎と申します!現在、仕事をしながら鹿児島大学大学院理工学研究科に在籍しています。生まれも育ちも鹿児島県で、大学入学の前は鹿児島高専に通っていました。

また、その高専在学時に事業を始めています。これは幼少期に機会格差で挑戦できない経験が多く、中学生の頃から地元で「挑戦のロールモデル」になりたいと起業家を志していたからです。

そして2020年、鹿児島スタートアップmeetupの開催をきっかけに鹿児島市と協力しスタートアップのインキュベーション・支援を開始しました。現在は起業家とのメンタリングやピッチコンテストの企画・運営などを務めています。

ー行政とも一緒にお仕事をされている村上さんですが、具体的な内容をお聞きしてもよろしいですか?

仕事というより行政と協力して取り組んでいるというイメージです。それでいうと、ちょうど今年(2022年)の1月から始まった鹿児島でインキュベーション・アクセラレーションプログラムがあります。

そこでは若手・学生起業家たちに対して、ZoomでVCの方々にメンタリングしていただいたり、その前後に僕がメンタリングしたりビジネスプランのアイデアを広げたりしていましたね。

そして去る3月20日にその最終発表として、行政やVCの方々の前でピッチするイベント(markMEIZAN ビジネスプランコンテスト)を開催しました。

劣等感を抱きながらも挑戦し続けた幼少期

ー幼少期から劣等感を感じることが多かったとのことですが……?

そうですね、初めて感じたのは5歳くらいでした。幼い頃からいろいろなことに興味があり、その流れで3〜4歳のときに父が触っているパソコンにも興味を持ったんですよね。

また父が高専出身だったこともあり、5歳で高専ロボコンを知り、自分もロボットを作りたいと思うようになりました。ただ「ロボット 作り方」で調べてみたものの、子どもが理解できないような数式がたくさん出てきて「よくわからないな」と(笑)。

それから父や幼稚園の先生に聞いてみたのですが、たらい回しにされて何の成果も得られませんでした(笑)。見かねた父が「おもちゃをばらしてもう1回組むことくらいはできるよ」と言ってくれたため、それで気を紛らわしていました。

しかし、ネットの世界に目を向けると「8歳の少年がWebサービス開発」「東京の小学生が国際ロボットコンテストで入賞」など、同い年くらいの子たちが活躍しているのを知りました。

それと同時に「年は変わらないのにトライできることが全然違う」「何で僕だけできないんだろう」と初めて劣等感を感じて……。これが劣等感を感じ続ける理由になりました。

ーそうだったんですね……。また、小学生のときに韓国に交換留学に行かれたそうですが、どのような経緯があったのでしょうか?

実は、僕の通っていた小学校と釜山の学校(ペーヨン初等学校)が姉妹校で、その交流の一環で交換留学があったんです。

当時、口下手で多動、かつ習い事に多くの時間を割いていた僕は、固定のコミュニティに入らなかったため周りに馴染めず、ずっと本を読んでいて。

また、やりたいことはたくさんあるけれど機会的にできない、自分がやりたくてやっても学校の評価軸からは外れてしまう、というジレンマがあったため「海外に行ったらこんな僕でも変われるチャンスがあるんじゃないか」と思って渡韓を決めました。

ー韓国で生活してみていかがでしたか?

気持ちの変化が大きかったです。

韓国の子どもたちは、将来兵役に行くことや超学歴社会にのまれることを幼い頃から視野に入れて生活しており、自分との環境の違いに衝撃を受けました。

そして、現地の友人から「日本に兵役はないし、学歴も韓国ほど意識せずに生きていけるんだから、自分の好きなことやればいいんじゃない?」と言ってもらったことで、人の目を気にせずに自分のしたいことを思いっきりするぞ、という方向に転換できたと思います。

ー中学生のときにはインドネシアにも行かれたそうですね!

そうですね!半月ほどインドネシアで青年海外協力隊の活動視察と現地の民家でホームステイしていました。

行こうと思った背景は2つあり、そのひとつが父の影響でした。父は20代の頃に青年海外協力隊でアフリカに行っており、その繋がりで鹿児島からその活動視察に行くプログラムを紹介してもらったため行ってみようかなと。

もうひとつが、僕自身、楽観的で調子乗りな人間なのでハングリー精神を思い出すためでした(笑)。この視察で行くところはインドネシアでもインフラが整っていないところのため、その環境で現地の人と触れ合うことでハングリー精神を思い出せるかなとも思いましたね。

ーなるほど。渡航前後で変化はありましたか?

当初考えていた通り、ハングリー精神を再燃できました。また、特にインフラの面から日本に生まれてよかったと思う一方で、現地の人は環境が整っていなくても明日を見て生きていることが印象に残ったんです。

それがきっかけとなり、自分は環境が整っているのに現状におおむね満足していて何もせず、何も成長できていないと感じ、「もっとやらないといけない」と思いました。