様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第124回目のゲストは株式会社ベーシック経営企画部・広報グループで社内報「b-ridge」の編集長を務める「ちょるる」こと鈴木諒さんです。
中学時代にボウリングが契機となり大好きな同級生と付き合い始め、その同級生との破局を経験し、やけくそになりボウリングに力を入れた結果、世界大会への切符を掴みます。大学時代にはインドで、経済格差を目の当たりにし、ご自身の幸福観が変化。ベーシック入社後は目覚ましい活躍を見せましたが、2年目に医師からADHDと診断されたことをきっかけに悩みに深く向き合うことになります。現在、「社内報コミュニティ」を通じて社外の人へも手を差し伸べるちょるるさん。現在の精力的な活動に至るまでの半生を伺いました。
社内報コミュ立ち上げの背景
ー本日はよろしくお願いします!まずは自己紹介をお願いします。
株式会社ベーシックの鈴木諒です。周囲からはちょるるという愛称で呼ばれています。社内でも、「あれ、”鈴木さん”に電話来てるんですけど、誰ですかね」みたいな感じになるぐらいちょるるが浸透しているんです。ちょるるは、山口県のゆるキャラが由来で付いたあだ名です。高校3年生のときに国体で山口へ行って、ちょるると対面して、そのとき友人が僕と見比べて「え、どっちがちょるる?」とからかったことがはじまり。ただ、横幅以外は全然似ていないんですけど(笑)それからずっと、ちょるるで親しまれています。
ー会社ではどのような業務を担っていらっしゃるのでしょうか?
経営企画部に所属し、企業広報として会社の情報を外に発信したり、社内広報として社内報の運営をしています。ベーシックには2016年4月に入社をし、最初は人事を担当していたのですが、2018年ぐらいから人事と兼任して社内報の業務をしていたんです。人事として、社内のコミュニケーション、エンゲージメント、社員満足度に強い関心がありました。「みんながやりがいをもって働けるか。」を重視していたんです。そんなこともあって、社内報には元々魅力と可能性を感じていましたね。社内報を執筆して、社員の反応を見ていると、それを元に交流が始まったり、いろいろな人にスポットライトを当てることができるので、社員のやりがいを大きく左右するものだと思いました。そして今年の6月に広報担当になり、社内報の編集長となって本格的に社内報を盛り上げたいと乗り出したんです。より良くしてやろうって張り切っていました。しかし、社内報の社内向けに報じるという特性からかWebで調べても情報や知見があまり見つからなかったんですよね。
ーご自身がぶつかった壁から、社外のコミュニティ活動につながっていたんですね。
ノウハウを知りたいけど見つからない…。そんな状況だったので、「だったらノウハウをシェアできるコミュニティを作ればいい」と思い至りました。自分の悩みは誰かがどこかで解決しているし、誰かの悩みを自分が解決することができるという価値観を昔から持っていました。また、社内に、経営企画に関するコミュニティを立ち上げてノウハウを手に入れたり、悩みを相談することでベーシックの業務改善につなげている先輩がいたんです。その行動を見聞きして、コミュニティを作ることで、いろんなノウハウが蓄積され、自分も助かるし、他の人たちの困りごともサポートできるんじゃないか。そう思って、「社内報コミュ」を立ち上げました。
ー社内報コミュ作りで他の人の困りごとまで視野に入れていた背景は何でしょうか。
それは僕が幼少期からモヤモヤを抱えている人や困っている人に手を差し伸べることで自分の居場所を作っていたことが関係しているかもしれません。幼少期に家族で食事をしている時、基本的には楽しく会話をしているし、テレビを見ながら笑ってご飯を食べていました。そんな中、ときに沈黙が起きてしまうことがあり、それがあまり好きじゃなかったんです。本人たちは気にしていないかもしれませんが、僕がなんとなく重たい空気を感じたり、みんな楽しくないのかなと思ったり、ネガティブな感情になっていました。なので家族の食事で沈黙が続くと、盛り上げるために学校での出来事や昨晩の話の続きを僕が話しました。すると、親が喜んだり、会話が弾んだりしたんです。そのみんなで笑ったり盛り上がっている空気感がとても好きでした。自分が話題を振ることによって、気まずさがなくなったり、誰かのモヤモヤが解決されることで、自分や相手の居場所を作ることができ、そして安心できるというのは僕のこれまでの活動全てに言えると思います。ついつい手を差し伸べたくなるんですよね。
社内報コミュの立ち上げも、社内報の運営で困っている人の問題が解決されたり、少しでもポジティブになれる、つまり居場所を作りたかったというのが根本にあるかと思います。
大好きな同級生との淡い青春の思い出
ーコミュニティを通して、人をつなぐ役割を担う鈴木さんの成長の過程を知りたいです。中学時代の印象深いエピソードはありますか?
中学3年生のときのひとめぼれが、その後の選択に大きな影響を与えています。その人に出会うまでは、勉強はあまりしない、見た目は一切気にしない、部活にも入っていなかったですし、学校が終わるとすぐに家に帰って夜中1時ぐらいまでゲームをするような生活でした。そして朝は5時に起きて、ゲームをしてから学校に行くような、ある意味ストイックな生活でしたね(笑)
それがひとめぼれした日からゲームを止め、服を買ったり、ワックスをつけてお洒落をしてみたり、流行りの曲を聞いてみたりと一気に生活が変化しました。クラス全員が「あいつ好きな人できたな」と気づいていましたね。
その女性には電話したり、恋愛相談に乗ったりして、アプローチしました。段々と仲が深まり、晴れて僕と付き合うことに。中学生ながら、「本気で愛している」って思えるくらい大切な存在になりました。彼女と付き合う契機がボウリングだったということもあり、高校進学後はボウリング部に所属します。放課後は部活に行った後、彼女の家に立ち寄って、それから帰宅する。そんな毎日が高校3年生の夏まで続きました。
ーとても仲が良かったんですね。しかし、高校3年生の夏まで、というのは?
高校最後の年の夏、2人で花火大会に行く約束をしていました。待ち合わせに現れた彼女は、ショートカットだったんです。驚きましたし、僕は「ロングヘアが好き」と伝えていたので、その時点でなにかがおかしい気がしていて…。花火の間、隣にいる彼女が楽しんでいないことが伝わってきました。花火が終わると、彼女から「好きじゃないかも」と打ち明けられ…。失恋してしまったんです。
高校の時に会えなくなることを懸念して1年間のカナダ留学を取りやめたり、大学進学で会える時間が短くなることを懸念して、地元である滋賀県の大学を目指すぐらいに彼女を第一に考えていました。そんな彼女に振られ、勉強へのやる気も失ってしまいます。それまで勉強や彼女のために割いていた時間や思考を、全てボウリングに注力するようになりました。
ー辛い出来事をきっかけにして、ボウリングへの姿勢が変化したんですね。
やけくそになってボウリングに熱中。寝る前に鏡の前でフォームを確認して、また朝起きて鏡の前でフォームを確認して…家でもボウリングのことで頭がいっぱい。部活で最大のパフォーマンスを出すために、通学中にその日の寝る授業を決めていました。家に帰る時にも歩きながら素振りをしながら帰っていました。くる日もくる日も毎日ボウリングに身を捧げていたら、最終的に、国体や世界大会に出場できたんです。
ゲーム、恋人、ボウリング、全てに共通するのですが、熱中してしまうと、その熱中したものを基準に判断をするようになってしまいます。ハマったもの次第で行動も発言も変わるので、人格が変わったなんて言われたことも多々ありましたね(笑)
新しい幸せのものさしを手に入れたインド渡航
ー世界大会に出場するほどボウリングを極められたんですね!大学在学中の思い出深い出来事はありますか?
同じゼミの友人が、「インドに行かないか?」と声をかけてくれ、「カレー美味しそう」「カレー食べたい」と盛り上がり、渡航を決断しました。半ば冗談で言っていたのですが、行ってみたら本当に朝昼晩カレーで、宿泊したホテルの朝食メニュー12種類が全部カレーだったんです(笑)
インドでは、貧富の格差を目の当たりにしました。空港を出ると、足を震わせたガリガリの犬やパンツ一枚の老人が歩いています。赤ちゃんを抱えたお母さんが物乞いしているし、バスの停留場には降りてくる人に物乞いしようとする人や物を売ろうとする人が待っています。豊かな生活を手に入れるために、四肢をわざと切り落とす人もいるんです。手足があって満足に動ける状態で仕事を探すよりも、同情で観光客や通行人にお金をもらう方がお金を稼げるからのようです。
身分格差が奥に潜む、弱者に対するふるまいにも目に余るものがありました。比較的富裕層であるインドの大学生は、店員や物乞いに厳しい態度で接するんです。日本では、店員と客が比較的対等な目線でコミュニケーションをとろうとしますが、インドでは高圧的な態度の人を頻繁に見かけました。近づく物乞いに大学生が「来るんじゃねえ」と怒鳴る場面も。
大人が、同情を買うために子どもを使って観光客に物乞いをさせているという場面にも直面しました。子供たちが寄ってくるのですが、お金を渡してくれないとわかるとその子たちは物陰に隠れている大人のところに戻って行きました。
ー経済や身分の格差を感じた経験は、ちょるるさんの価値観にどんな変化を与えたんですか。
生きてるだけで幸せだと思い、幸せを感じる基準が一気に下がりました。インドでは衝撃的な光景も多く目にしましたが、それと同じくらい、理不尽な社会でも楽しそうに暮らす人を見たんです。サッカーをしに行く子どもや、路上で生活を送る人が楽しそうに生きていました。日本での自分の暮らしは、親が生きていて、ご飯を食べることができ、スーパーやコンビニは家の近くにあり、水や電気をすぐに使うことができます。自分が見ていたあたりまえの世界は、インドで暮らす人があたりまえに手にできるものではないんだと知りました。元々ポジティブな性格ではありますが、インドの経験を経て、生きているだけで自分の豊かさ、小さな幸せを感じられるようになったんです。
ーインドでの価値観の変化を経て、就職活動にはどのような基準で臨まれましたか。
在学中に自分の事業の立ち上げにチャレンジしていたので、起業も視野に入れて就活しました。就活初期に参加していたサマーインターンや会社説明会では「どんなビジネスをしているか」をより重要視していましたね。候補は、コンサルや外資系企業。そこから就活をしていくうちに考えが変わり、「誰とやるか」「仕事の充実感」を大切にしたいと思うようになったんです。大好きな人と大嫌いなスポーツをやるか、大嫌いな人と大好きなスポーツをやるの、どちらが良いととある人に聞かれたことがあり、僕は迷いなく大好きな人と大嫌いなスポーツをやる方がいいと思いました。
「誰とやるか」を大事にしているのは、まさにこれまでお話ししてきた過去の経験が大きいです。居場所作りの話に近いですが、誰かの人生に関わり、相手のために自分ができることをして、その人のプラスになれることが、自己肯定感の維持や向上につながっていると感じます。
ーそのような基準を持って挑んだ就活で、最終的にベーシックを選ばれたのはどうしてですか。
就活中、多くの企業と面談させていただいたのですが「うちだったらこういうことができる」「うちはこういう会社」「うちではこう」と、会話の主語が自社になっているケースがほとんどだったんですよね。それがベーシックの場合は逆でした。「あなたはどうしたいの」「あなたはどう考えてるの」「それだったらあなたはこの方向もあると思うけど、どう思う」みたいな感じで、会話の主語が僕だったんです。僕の想いにまずは耳を傾けてくれる。それを体感したことで、自分の大切にしたい価値観である、「相手以上に相手のことを考える」ということが仕事で実現できると思いました。
社会人生活の光と影
ーベーシックに入社し、1年目から表彰されたそうですね。評価されたポイントはどこですか。
まずは行動量だと思っています。仕事に突っ走っていて、そんな僕を周囲の先輩や上司が支援してくれたんです。部署の垣根を超えていろいろな人を巻き込む取り組みもできていました。そういった巻き込み力も評価していただいた部分だと思います。人事は他部署との連携が必要不可欠なので、部署関係なく仕事を依頼してましたね。社長も例外ではありません。もう一つは「あたりまえのことをあたりまえにやる」意識です。とても小さいことかもしれませんが、1年間の日報提出の課題を、毎日時間通りに欠かすことなく提出したのは、僕だけだったんです。
ー順調な社会人生活のスタートとなったんですね。
そうですね。しかし、一方2年目は苦労しました。2年目から新卒採用を1人で担当していたのですが、タスク漏れ、スケジュール管理ミス、優先順位の判断を誤ることなど初歩的なミスも起こしていました。1年目までは先輩がフォローしてくれていた穴を、自分で気づいて塞ぐ必要がありました。しかし、どれだけ直そうとしても、頑張ろうとしてもうまくいかない、なぜできないのかが自分でもわからないという状況で精神的にしんどくなり、ついには病院の精神科を受診します。
診断結果はADHDでした。元々大学の時から知人にはADHDっぽいと言われていたのですが、診断されるとインパクトが大きかったですね。それを僕は受け入れられなかったんです。これまで割とうまく人生やってこれていたのに、今さら自分が障害なんてという葛藤もありましたし、なんとかして治して、なかったことにしようなんて考えてもいましたね。しかし治療はあまりうまくいかず、薬を処方してもらいましたが、副作用が強く断念。どうすればいいのかわからないまま日が過ぎて行きました。
走り行く車を見ながら、「轢かれたら会社をうまく休めるかな」と考えながら外を歩く日々でした。「これ以上周りに迷惑をかけたくないな」ということを強く思ったんです。自分でも原因がわからないミスをしたり、メモをとったのにメモをとった事実すら忘れていたりする。それによって周りに迷惑をかけたくないとずっと思っていました。
ーそのような苦悩を抱えながら、どうやって向き合うようになっていったのでしょうか。
ADHDの悩みを親友に相談したんです。そうしたら、「ADHDを自分で克服して、将来ADHDなどで困っている人たちに”自分はこうしたよ”と対処法を教えられる方がかっこいいんじゃないかな」と言われました。確かに、と納得しましたね。そこからちょっとずつ向き合えるようになったんです。
そして、ADHDと共に生きる決断をしました。自分がADHDであると認め、周囲に話し、関連情報を集め、対策をとりました。寝ないと症状がでやすくなるので睡眠時間をしっかりと確保する。ミスを防ぐために周囲にリマインドや予定組みをお願いする。一緒に仕事をする相手には事前に起こりうるミスを伝えておく。このような対策や周囲からの協力を得て、今ではADHDとうまく付き合えていると思っています。今となってはADHDはあくまで特性だと思っていますし、意外といいところもあるんですよ。どんどん新しいことが思い浮かぶし、嫌なこともすぐ忘れる。たまに異常なほどの集中力で自分でも驚くアウトプットが出ることもあります。何よりも、自分がそういう経験をしたからこそ、何か自分の特徴で悩んでいる人のことを認め、受け入れ、一緒に前に進む方法を考えてあげられる、懐の広い人間になれた気がしているので、今となってはとてもいい経験だなと思っています。
あと、インドの経験も相まって、より生きていることの幸せを感じられるようになりました。インドの時は、水や食料といった物理的な部分での幸せが大きかったですが、今回は親友に救われたということ、周りの理解があって生きていられるということがあるので、人への繋がりに対する幸せをより感じるようになりましたね。
ー最後にこれからチャレンジしていきたいことはありますか。
やりたいことが思い付き過ぎて困っているのですが、一言で言うなら悩んだときに帰ってこれる場所、つまり居場所を作り続けたいと思います。あまり何かを人生の中で達成したいということはなく、自分が正しいと思っていることをやり続けていたいという思いが強いです。なので、どんどん居場所を作り続けて行きたいなと思っています。
社内報コミュをはじめとする広報活動はその一環です。何かにスポットライトを当てるということはつまりそれに関連する人たちの居場所を作ることにつながると考えています。先ほどもお伝えした通り、社内報はノウハウが手に入りにくい状況になっています。それによって、問題にぶつかっているが、解決できないという人もいれば、社内報を中止せざるを得ない状況になっている人もいます。そういった人たちが社内報をより良くしていく術を見つけ、それによって社内報、もっというと会社が盛り上がれば、その人にとってその会社が大きな居場所になると思っています。
僕個人で就活生と話す機会を広報となった今でも設けているのですが、キャリア相談のサードプレイスのようなものも作りたいですね。コミュニケーションが1対1の関係性で完結するのではなく、コミュニティや場において複数人の関係性へと広がっていくような場を作りたいと思っています。
とにかく僕はそこにいる人たちが笑顔で楽しくいれる場所、そこに行けば何かが問題が解決されたり、ポジティブになれる場所が好きなので、そういった居場所をこれからも積極的に作っていきたいと思います。
ーご自身を受け入れ、前へと進んでいくちょるるさんの躍進が今後も楽しみです。ありがとうございました!
取材者:西村創一朗(Twitter)
執筆者:津島菜摘(note/Twitter)
編集者:野里のどか(ブログ/Twitter)
デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)