「キッズハピリエ」代表降旗紗希の今やりたいことを大切に、選択を正解にする生き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第927回目となる今回は、キッズハピリエの代表、降旗紗希(ふりはたさき)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

自分の「今やりたいこと」に全力で取り組み、挫折をしながらも自分の選択を正解にし続ける生き方をお伺いしました。

親にすすめられた道を歩んでいた

ーまず簡単な自己紹介をお願いします。

「キッズハピリエ」の代表をしている、降旗紗希と申します。おもにベビーシッター事業を行なっています。

キッズハピリエのテーマは「ママがご機嫌だと、みんな嬉しい」です。子どもの周りにいる大人を笑顔にするサービスを提供しています。

キッズハピリエの名前の由来はありますか?

ベビーシッターの対象が、0歳から小学生の子どもなので、幅広い意味で「キッズ」。

「ハピリエ」は「happy(ハッピー)」とフランス語の「lien(リアン)」を混ぜて言い換えています。

「lien(リアン)」の意味はご縁・絆です。私はご縁をとても大事にしています。幸せで暖かいご縁が親御さん・子どもによい影響を与えてほしいという願いを込めて「キッズハピリエ」と名付けました。

ー降旗さんは子どもの頃はどのような子でしたか?

子どもの頃は、元気で明るい子でした。現在とあまり変わっていないと思います。

前に出てみんなを引っ張ることが好きでした。児童会や生徒会に入ったり、高校の演劇部で部長をしたり、積極的に立候補していました。

ー演劇部にはもともと興味があって所属されましたか?

高校の頃は、やりたいことや夢がありませんでした。親に「力を入れてる部活を選んだら?」とすすめられたことがきっかけです。

部活動を調べると、演劇部に力を入れていたので、新入生歓迎公演を見て入部を決めました。

ー短期大学を卒業後は保育園で勤務されていたとお伺いしました。

高校・短期大学で部活動や勉強をがんばって、公立の保育園に受かりました。当時、公務員保育士は倍率が高く、合格することは難しいといわれていたため、うれしかったです。

親にすすめられていた公務員だったこともあり、期待に応えられたこともうれしかったですね。自己肯定感が上がりました。

理想と現実のギャップに涙した日々

保育士をはじめて、どん底の気持ちになったと伺いました。何があったのですか?

合格をいただいて3月から準備のために勤務が始まりました。準備期間から残業が多く、とても大変でした。

3歳児19人のクラスを受け持つ事になりましたが、どう動いてよいかわからず、子どもたちも落ち着かず、あっという間にクラスは崩壊。保護者の方に「さき先生大丈夫?」と声をかけられることもありました。

保育園で働き出してからは、一人暮らしをしていたにも関わらず、毎日泣きながら実家に帰っていました。朝も弱音を吐きながら仕事に向かう毎日でした。

ー新卒で3歳児19人の担任は聞いただけで、大変そうですね。

今思うと、私には保育園で働く適性がありませんでした。私が保育士になった理由は、子ども一人ひとりのやりたいことに向き合ったり、気持ちを受け止めて寄り添ったりしたかったからです。

実際に保育園で働くと1人の子どもに集中すると、他の18人はほったらかしになってしまいます。

先輩からは「保育士の仕事は一人ひとりに寄り添うことではない、クラスを運営することだよ」とよく注意されました。正しいことを言っているとは思うのですが「一人ひとりに向き合いたい」という私の理想と現実のギャップがつらかったです。

「今やりたいこと」を見つめて自分の意志で決めるように

ーしんどい時に児童養護施設へ移動されたとお伺いしました。

毎日のように泣いている私を見兼ねたのか、保育園からの異動を伝えられました。異動が決まったときには「保育士に向いてない」と言われた気がして、悲しかったです。

移動先の児童養護施設で働き出すと、決まった時間に始まり、決まった時間に帰れる環境で、人間関係も円滑。こんなによい働き方があるのだと驚きました。

宿直の日もあり不規則な勤務でしたが、3ヶ月ごとの子どもたちの入れ替わりに合わせて、1、2週間の長期休みが取れるようになり「海外に行こう」と思いました。

ーもともと海外旅行が好きだったのですか?

海外旅行に行ったことはありませんでしたが、何かに吸い寄せられるように行きましたね。

海外旅行は、父に「危ない」と反対されましたが、自分の意思で行くことを決めました。不安もありましたが、楽しみな気持ちが強かったです。

ー海外旅行は何が魅力でしたか?

最初に訪れた国はマレーシアです。マレーシアは多様な文化が混ざり合いながらも、お互いを受け入れ合っていて、調和がとれた国でした。マレーシアの方は自由で、とても幸せそうに見えました。

マレーシアの方を見ていると「私は私でいいのだ」と感じられます。

保育園で周りに合わせて生きていたり、人生の選択で親の意見を聞いたりと人に合わせていた人生でしたが、自分のやりたいことをやればよいと思えました。

ーワーキングホリデーの予定があったと伺いました。

児童養護施設で働いた2年の間に、海外に行きたい気持ちが大きくなり、お金を貯めてカナダのワーキングホリデーに行くことを決意しました。ビザを取得して、退職もして出発するぞと思った時に、コロナが流行。

一世一代の勇気を持って、自分で決めたことが断たれてしまい、深い絶望感がおそってきました。

ー留学に行けなくなってからはどのようなことをされたのでしょうか?

どうすることもできなかったので、英語の勉強をしながら、近所のパン屋で働き始めます。あるときパン屋で働いていると子連れのお母さんが目に入りました。

パンを触ろうとする子どもに怒っていたり、泣いている子どもにイライラしていたり。

そんなお母さん方の顔を見ると「力になりたい」という気持ちになりました。パン屋のレジ打ちのままでは力になれないと思い、アルバイトから帰ってすぐに保育の仕事を検索。

探してみるとベビーシッターという働き方が出てきて、登録制のプラットホームがあったので迷わず応募し、合格しました。

ー最初のベビーシッターの仕事はどうでしたか?

初めてのベビーシッターは「楽しい!」「これでお金もらっていいの?」と思いました。

2時間だけの利用でしたが、子どものやりたいことに全力で向きあえた、念願の時間に。お母さんには「子どもたちの楽しい声がいっぱい聞こえてきました」「私もやりたいことができて助かりました」と言われて、天職を見つけたと思いました。

ベビーシッターの業務に全力を注いでいましたが、登録制のプラットホームでは制限があり、できないことが多くて。より広くサポートしたいという思いが芽生えてきたため、独立を決意しました。

ーベビーシッターを始めたあとで、ワーキングホリデーは行かなかったのですか?

ベビーシッターを始めて半年後には、ワーキングホリデーのビザを捨てました。

ビザを捨てた理由はワーキングホリデーよりもベビーシッターを続けたかったから。「ビザがもったいない」や「せっかくのチャンスなのに」と様々な意見がありました。私も悩みましたが、「今やりたいこと」を優先した結果です。後悔はありません。

先のことは考えてもわからないので、今やりたいことを優先しようと思いました。自分で選択した道を正解に変えればよいだけだと決意し、独立まで一生懸命動きました。

そうして無事にキッズハピリエを設立。半年後には業務委託で、何名か保育士さんを雇い、私はマネジメント業務に移りました。2022年11月には東京に来て、事業を拡大しています。