様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第918回目となる今回は、UNO KIDO代表兼スポーツトレーナー・藤田裕次郎(ふじたゆうじろう)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。
UNO KIDOという運動スクールでスポーツトレーナーとして子どもたちの「好き」の発見を支援している藤田さん。藤田さんの経験からくる考え方「心地善く生きるススメ」について語っていただきました。
野球は父親に褒められるひとつのツール。父親が野球人生の原動力に
ーまずはかんたんに自己紹介をお願いします。
サッカー選手の長友佑都さんのアカデミーや横浜キャノンイーグルスのアカデミーでスポーツトレーナーをしている藤田裕次郎と申します。他にも小学生を対象とした「UNO KIDO」という運動教室の運営や攻玉社中高野球部の指導にも携わっております。
ーアカデミーやUNO KIDOでの指導内容を具体的に教えてください。
多岐にわたる運動ジャンルのなかでも、僕が扱っているのはコーディネーショントレーニングと呼ばれるものになります。コーディネーショントレーニングでは「運動をよくする=脳の使い方をよくする」という考えのもと脳にフォーカスしたトレーニングをしています。
運動は脳からの電気信号によって引き起こされるものです。例えば垂直跳びを身につけようとしたとき、一般的にはひたすら垂直跳びを繰り返す練習を想像されるかと思います。しかし、コーディネーショントレーニングでは脚を抱え込んだり、脚をクロスした状態で跳んだりします。様々な跳び方の共通項である垂直跳びを脳に覚えさせていくのです。
ーここからは藤田さんの幼少期を振り返ってお伺いしていきます。幼少期はどんな子でしたか?
父親が学校の教員で野球部の顧問をしており、3人兄弟全員が野球をするいわゆる野球一家の次男に生まれました。小学生のときは野球の大会で優勝したら「あのプレーはよかったな」「あのときはどんなことを考えてプレーしていたんだ?」と選手として大人扱いされることが嬉しかったです。野球は親に褒められるツールのひとつでした。
小学6年生のときには東京都の大会で優勝。チームの4番キャッチャーでキャプテンだったため、完全に天狗となり「俺に敵うやつはいねぇ」と思っていました。
ーこの後中学校に入るわけですが、普通ではない中学校の選び方をされたと伺いました。
僕が出場した全日本大会や関東大会に父親が仕事の都合で来れなかったことがきっかけで、父親のいる私立中学校に行くことにしました。父親が大好きだった僕にとって、どんな小さな大会にも来てくれていた人が、学校の仕事の都合で来れなかったことが非常に悔しくて。
どうすればこんなことが起きないかを考えた結果「そうだ、同じ学校にいれば練習からいるじゃん」とひらめきます。シニアチームからオファーもありましたが、どうしても父親のいる中学校に行きたくて中高一貫の私立中学校に進学しました。
ー無事に中学校で父親と野球をすることができたのですね。
中学3年間は父親と野球をすることができました。中学3年生のときにはキャプテンを務め、野球部創部以来2度目の都大会出場を経験した。ここが僕の野球人生のピークだったと思います。
原動力の消失。メンタルが崩れてしまい、自分を否定するように
ー高校生になって自分を否定するようになってしまったとお伺いしました。どんなことがあったのでしょうか?
高校生になると顧問が父親から別の方に変わります。野球をがんばる理由になっていた父親の存在。それが消えてしまったことで野球へのモチベーションも消えていきました。
周りと比べると勉強もできない上に、野球もできない自分の存在を否定するようになってしまって。うまく学校に通えない時期もありながらも、スクールカウンセラーや心療内科の先生方のご助力あって、なんとか高校を卒業しました。
ー父親の存在は選手として活躍するための原動力となっていたのですね。
僕からすると選手として認められなければ意味がないと思っていました。しかし父親は違っていて。
メンタルが壊れてしまってリビングで1人泣いていたときに、父親が後ろから僕にハグをして「愛しているよ」と言ってくれました。それまでは、選手として自分を認めてほしいと思っていましたが、この出来事によって「あぁ、この人は選手としてではなく1人の人間として僕そのものを認めてくれているんだ」と気づきました。
ー高校卒業後は体育大学に進学されますが、体育大学に進学した理由を教えてください。
高校の夏の大会の敗因が僕にあると思ったからです。高校当時は練習プログラムを自分たちで考えて実行するというスタイルだったため、部の中で野球の経験が最も長い僕が主導でプログラムを考えることも多かったです
中高一貫の学校では中学から野球を始めたという子が過半数で、夏の大会ではエラーが連発して敗北。大会の敗因はこれらエラーによるものですが、それを誘発したのは僕の考案した練習プログラムなのではないかと考えました。失敗の原因を学ぶために体育大学に進学しました。
ー高校時代は自分を否定してしまっていましたが、大学時代はいかがでしたか。
1年生のころまではストイックな自分が残っており、心療内科に通いながらも、勉強やアルバイト、野球をがんばっていました。ただ、依然として過呼吸になって倒れることもあったため、野球を辞めることに。
野球をやめた後の3、4年生ではいろいろなことにチャレンジしました。東日本大震災の被災地ボランティアに行ったり、47都道府県をヒッチハイクでまわったり。アメリカに旅に出たこともあります。
被災地のボランティアに行った際には命の有限さや不可逆性を痛感しました。
これらの体験は電子書籍としてまとめて、現在も販売しており、売り上げは東日本大震災と広島土砂災害の復興支援費として寄付しております(「一万円で日本を一周 ドライバー、130人から教わったこと」)