萩市地域おこし協力隊 和泉宏に聞く、自分らしさを楽しむ生き方について

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第720回目となる今回は、萩市地域おこし協力隊・和泉 宏(いずみ・ひろし)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

2021年4月に東京からUターンし、萩市地域おこし協力隊として活動を開始した和泉さん。現在に至るまでの経緯と、現在の山口県での活動の展望について話していただきました。

東京からUターンして地域おこしに挑戦

ーまずは自己紹介をお願いいたします。

和泉宏と申します。元々山口県光市出身で、昨年の4月に東京からUターンして、今は山口県の萩市で地域おこし協力隊をしています。

昨年の3月末までは東京で企業の人材育成や、組織開発のコンサルティングの会社で働いていました。萩市教育委員会に所属しながら、萩市の3つの高校に地域連携サポーターとして入り、高校の探究学習や地域学校連携のサポートに取り組む日々です。

本業に加え、NPOカタリバの全国高校生マイプロジェクト山口県パートナーとしても活動しており、県内の高校生の探究学習を支える『やまぐち若者MY PROJECT』を、県の財団や行政の方々と一緒に実施しています。

自分自身の興味関心や問題意識を起点にテーマ設定し、プロジェクト実践を通した探究学習の推進です。

ーどのようなきっかけで萩市に行かれたのでしょうか。

県と一緒に取り組んでいる『やまぐち若者MY PROJECT』が今年3年目で、1年目のときは実は東京にいました。山口県出身だったのと、元々カタリバとは関わりがありご縁あって遠隔で関わったのが2年前です。

『やまぐち若者MY PROJECT』を1年間やる中で「自分がこれからどうしていきたいんだろう」と改めて考え直しているときに、一緒にやっている人から萩市の地域おこし協力隊募集の話を聞きました。

東京の仕事も楽しかったので悩みましたが、やりたい領域のど真ん中だったので、心がうごいた今、帰ってみようと踏み出しました。

野球での挫折、2カ国への留学

ー高校生までは野球に熱中していたと伺いました。

放課後に帰ってから壁当てに熱中する子どもでした。父親がグローブやカラーバット、ボールを買ってきたのがきっかけで野球を始め、小学5年生で野球チームに入ったのです。

高校3年生のときには、春の大会で県のベスト4まで行きました。しかし、大会が終わったタイミングで病院に行ったときに、ヘルニアと腰椎分離症を併発していると言われてしまいます。

医者からは「大学でも野球を続けたいか?それとも高校野球をやり切りたいか?」と聞かれ、高校野球をやり切る選択をしました。注射を打ち込んだり、座薬や痛み止めを飲んだりしながら夏の大会に挑みましたが、1回戦で敗退してしまいます。

大学野球の道を断ってまで打ち込んだのに数時間で終わってしまい、呆然としました。大学受験の勉強でも試合を思い出してしまい、数ヶ月は身が入りませんでした。

一方で、大学野球は続けられない前提だったので、野球部の顧問になって指導者側としてやっていこうと思うようになりました。

ー野球での経験を経て、大学ではどのような経験をしたのでしょうか。

大学では、教育学部で英語教育を専攻しました。英語の教員になろうとしているのに海外に行ったことがなかったので、1年生の夏休みに1ヶ月だけ、フィリピンに語学留学に行きました。

フィリピンには、これからやりたいことをいきいきと語る同世代や、大人たちばかりです。同時に、「自分が心からやりたいことってなんだろう」と考え始め、自分はこのままでいいのかと漠然と思うようになりました。

フィリピンでの出会いから「自分は本当に教員になりたいのか」わからなくなりました。

そんな中、転機となったのは大学3年生の夏です。塾講師のアルバイトをしているときに、夏季講習で高校2年生の男の子と面談をしました。

面談の中で、彼は「将来やりたいこともないし、行きたい大学も学部もない」と言いました。やりたいことが見えていない僕からすると、「大学3年生でもやりたいことがわからないのに、高校卒業までに分かったらだいぶラッキーだな」と思ったのです。

やりたいことがわからない自分を無意識のうちに責めていましたが、すこし楽になり、自分を許せた瞬間でした。一方で、「高校卒業までの人生で自分自身の興味が見つかりやすい環境づくりを、教育でやると面白いかも」と思ったタイミングでした。

ーオーストラリアにも留学されていますが、どのような生活を送っていたのですか。

オーストラリアには大学3年生が終わったあとに、1年間交換留学に行きました。元々長期留学は考えていて、自分がどうしていきたいのかを考えるためにも行ってみたいと思ったのです。

オーストラリアに行った最初の半年は、大学の勉強で精一杯でした。残りの半年間は大学の勉強に加え、現地の学校で日本語授業のアシスタントティーチャーをしました。

現地の子どもたちと一緒に過ごす中で、仲良くなった子がいたのですが、ある日やってみたいことやチャレンジしたいことを聞くと「特にない」と言ったのです。あったとしても、失敗したら嫌だからみんなの前で言いたくないと言われてしまいます。

自分は、フィリピンでの出会いにより「何かやりたいことを見つけたい」と強く思っていましたが、この子たちはそもそも「何か見つけたい」と思っていないのかもと思いました。自分の感覚を一般化していることに気づき、反省しました。