適応障害、家出…壮絶な経験の先に「自分の物差し」を見つけられた理由|hal代表・山田瑠人

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。

第674回目となる今回は、山田 瑠人(やまだ りゅうじん)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

20歳のときに母親からもらった手紙で知った、幼少期のころからの違和感。とがりに尖った高校生時代を経験し、現在、対話の会社「hal株式会社」を経営する山田さんの過去に迫りました。

20歳のときに知った、1歳までに起きた衝撃の事実

ー自己紹介をお願いします。

山田瑠人と申します。現在、対話の会社「hal(ハル)株式会社」を経営しています。サービス内容は、大きく分けて2つです。1つ目は対話とウェルビーイングを学ぶためのオンラインスクール「生き方テラコヤ」を個人向けに。2つ目は法人向けには「対話」の延長線上でリーダーシップ/組織開発をして、研修をしたり、中期のプロジェクトのサポートをしたりしています。

hal株式会社のビジョンは「真の安心から生きられる世界を」としています。安心の中でも「真」のこと。これは自身の関心ごとでもあるので、実現していくために対話の会社をつくりました。

コーチング、カウンセリング、心理療法、ファシリテーションが民主化されて、誰もが日常コミュニケーションレベルで使えたり、自身に対してケアできたりする世界になればいいなと思っています。本日はよろしくお願いします!

ーここからは、山田さんの過去にさかのぼってお話ができればと思います。今まで670名ほどインタビューをしていますが、最年少のライフログを書いていただいていますね!1歳のとき、どんな転機があったのでしょうか?

もちろん当時のことは覚えていないです(笑)いざ振り返ってライフログを書くと、この経験をなくして、僕の物語がまとまることはないだろうなと思いました。

20歳のとき、机の上に母が書いた手紙が置いてありました。そこに書いてあったのが、僕が生まれたときに起こったすべてのお話でした。お腹の中にいるときから、染色体異常があるかもと言われ、1ヶ月も早く産まれました。0才のとき、何度も手術台に上がりました。その後も喘息があり、ずっと身体が弱くて。母は産まれる前からずっと僕のことを心配してくれていたそうです。

漠然とどこかで感じていた不安感は、当時の体験がすべてを物語っているなと感じました。

ーそうだったんですね…。驚きや自分の不安とつながるようなことがあったのでしょうか?

いわゆる「アハ体験(「あ!」とひらめき、今まで理解できなかったことが突然できるようになる瞬間のこと。)」です。いろんな伏線が繋がった気がしました。幼いときによく見ていた「大きい病院にいる夢」は本当は夢じゃなくて現実だったこと。タンスの上から見えている大きなボストンバックは、僕がいつでも入院ができるように準備されていたものだったこと。母が口うるさかった理由など…すべてがつながった感覚でした。

その手紙を読んだとき、涙が止まりませんでした。

ー涙が止まらなかったのは、どんな気持ちだったからなのでしょうか?

悲しい、辛いという感情よりも深い安心、安堵の方が強かったです。20歳のときは、親との関係はそこまで良くありませんでしたが、深い愛情があったことと、今も僕のことを気にかけてくれてることが伝わってきました。

「お利口な自分からの脱却」と父を悲しませたくない葛藤

ー高校1年生のときに体験した「お利口な自分との脱却」とはどんなものでしょうか?

身体が弱かったこともあり、小学生のころから比較的お利口さんでした。喘息で身体が弱かったので運動制限があったり、薬を飲まなくてはいけなかったりもしました。

僕が高校生になるとき、ちょうどGReeeeNのキセキが流行っていて「高校生ってきっと青春で自由なんだろうな」と浅はかな希望を抱いて入学しました。現実は、地元の進学校で中学生のころより校則が厳しかったです。

事件が起こったのは高校1年生。僕は高校で「大人アレルギー」を発症しました。理由は校則に対しての先生の意見です。

ほかの生徒がまじめに授業を受けているなか、僕は髪を染めて登校しました。学校の先生に怒られたので「なぜ髪を染めてはいけないのでしょうか?」と聞いたら、学年主任が口籠って「こ、校則やからや!」と言われたのです。

このエピソードで、僕は「大人はバカなんや」と軽蔑してしまうようになりました。

ー山田さんは当時、ご自身が自然に抗うことに対しては、葛藤があったのでしょうか?

むしろ当時はとても振り切っていました。なりふり構わず全部に噛み付いていました。高校で道徳的なビデオを見せられたときには、批判する小論文を書き、他校の人とのケンカは炎上させられるほどです。

とにかく自分より小さなものを敵と見立てて、全部噛み付くのが当時の僕でした。

ーかなり振り切っていたようにも見受けられますが、19歳のとき進学されていますよね。大学にいくことを選んだ理由はなんだったのでしょうか?

小さなことには噛み付いていましたが、大きなことに対しては噛み付けませんでした。僕が通っていた高校は進学率が100%。大学受験をすることを疑えなかったのです。進学以外の道は全く想像できませんでした。

父の存在も大きかったです。関西学院大学を卒業し、その後、金融の会社で働いています。硬めの価値観を持っていたので、そこから逃げることはできませんでした。

2年生の秋の3者面談で、担任の先生から「このままやと産近甲龍(関西の準難関私立大学)にも行かれへんぞ」と言われました。先生を見返すために受験勉強をがんばろうという気持ちもありましたが、それ以上に父を裏切れない気持ちが大きかったです。

結果、国立の神戸大学に入学することができました。