ヒッチハイクで日本縦断を果たした田部井雄太の「自分で考えて行動する」生き方とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第618回目となる今回は、「Manpage(マンページ)」代表の田部井雄太さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

幼いころから料理人を志し、100軒ものお店で働くも、ホームページ制作の仕事への転身をされた田部井さん。そこには、常に「自分で考えて行動する」という強い意志がありました。

不意に訪れた自立のとき

ー自己紹介をお願いします。

田部井雄太と申します!ホームページを作ったり、個人のお客様をブランディングしてプロデュースしたりする仕事をしています。

24歳までは料理人やサービスマンを目指し、その後ホームページの作り方を学びました。ホームページ制作は場所を選ばないので、現在は全国を点々としながら仕事をしています。

そして2020年12月から翌年8月の終わりにかけ、ヒッチハイクで日本縦断を達成しました!

今年の5月から海外に行く予定で、そこから世界を回りたいと思っています!!

ー12歳の頃にターニングポイントがあったそうですが、お話ししていただけますか?

僕の実家はレストランで、貧乏でも裕福でも無かったのですが、幼少期から両親の仲が悪く、割と家庭はギクシャクしていました。
さらに、12歳のとき母が急に病気を患いました。そのため、そこからは親に頼らず自分で考えて生きなければいけなくなりました。

料理人を目指して、高校卒業後に上京

ー18歳のころに料理人を目指して上京したそうですね。

実家がレストランだったので、小学生のころから料理には触れていて、早くから料理人を志していました。

高校卒業後、18歳で上京して料理の専門学校に入学し、ミシュランのガイドブックに載るようなレベルのお店でもアルバイトをさせていただきました。

ー中学卒業後は商業高校に行かれたのですね。

今後のためにパソコンやビジネスの基礎を学びたいと思い、地元の商業高校に行きました。
高校では今の仕事をするうえでの基礎知識を学べたと思います。

また、高校ではレスリング部に入りました!チームはインターハイと国体に出場し、僕自身も部活動を通して肉体だけでなく精神的な自信を得ました。

ー自分の人生を自分で決めているという感覚だったのでしょうか?

完全に自分の決断でしたね。

実は、僕は寝坊癖が酷くて、中学校では3年で300回くらい遅刻をしていました笑
「そんなやつは合格しない」と周りにいわれましたが、それでも勉強して合格できました。

専門学校中退、絶望と焦りのなかで

ー「遅刻」がこの後にも響いてくると思うのですが、専門学校を中退されたのですね。

2年制の専門学校で、あと半年で卒業でした。インターン生として1ヶ月間お店で働いていましたが、遅刻を繰り返してしまいました…。学校と家庭に連絡があって、親が激怒して強制的に退学させられ、実家で働くことになりました。

先生には「遅刻さえしなければ完璧」といわれるほど頑張っていて、絶対に卒業したかったです。そのときが一番人生に絶望していましたね。

結局、自分の責任です。

ーそのときが一番絶望したそうですが、どんな心境でしたか?

スマホを取り上げられ、実家では料理をさせてもらえず、レストランのウエイターをするだけでした。悔しくて仕方なかったです。

結局、実家のレストランは3年で辞めました。

ー実家のレストランを3年で辞めたときにソムリエの資格を取られたそうですが、そのときには東京の状況などの情報は掴んでいたのでしょうか?

そうですね。実家では同じ日々の繰り返しで、専門学校時代のやつらに差をつけられるという焦りがありました。

料理もできなかったので、「ここからはサービスに振り切るしかない」と思いました。そのためには形あるものを取りたいと思い、ソムリエの勉強をしました。

勉強の過程で、テイスティングできる環境を求め高崎市のワインアカデミーや都内の即売会にも行きました。

地元にいても常にアンテナは張っていました。とにかく焦っていました。

自分の力で、自分で考えて行動したい

ー日常を変えようと行動を続けていたのですね。その後はどうされましたか?

22歳で再度上京し、都内のイタリアンで働きました。
シェフは厳しかったですが、おかげでとても成長できました。

でも、当時から人に使われることに違和感があって、自分の力で考えて行動したいと思っていました。だから、素晴らしい店でしたがそのイタリアンは辞めました。

ー周りの状況に染まらなかったのはなぜですか?

夢や目標があったからだと思います!料理人を目指していたころは、世界と肩を並べる料理人になりたかったし、サービスマンのときは、世界に誇れるようなレストランを作りたいと思っていました。

理想と現実が乖離しているからこそ、現実には合わせず、理想を追い求めていました。

ーその後はホームページ制作を始められますが、きっかけはありましたか?

すぐにホームページ制作はしていなくて、進路に迷っていた時期もありました。

高額な情報商材を買って勉強し、1ヶ月で130万円くらい稼いだこともありました。

でも、すぐにうまくいかなくなり、何か別のものを売りたいと思いました。そのときたまたま自分のホームページを作っていたのですが、「これを売ればいいじゃん!」と思いついたのがきっかけでした。

素人が作るものですが、1万円なら買ってくれるだろうと思い、交流会などで宣伝していました。

ーホームページを作るようになって、料理人を辞めようときっぱり思われたのですか?

当時は料理を辞めるつもりはなくて、別の方法で料理業界に貢献したいと思っていました。その方法の1つとしてのホームページ制作です。

でも、結局2020年3月までは料理を辞められなくて、キッチンカーやタイ料理店など、派遣で働いていたものも含め通算100軒近いお店でお世話になりました。

特にキッチンカーのアルバイトでは、1人で準備、営業や売上の計算もする経験をしたのでとても勉強になりました。