やりたいことは、“今”やろう。逢澤 奈菜が難病と子育てを経験して辿り着いた原動力

ユニークなキャリアを歩むU-29世代をお呼びし、これまでの人生の転機についてお話を伺うユニークキャリアラウンジ。

今回は、株式会社iibaを創業し、CEOを務める逢澤 奈菜さんにお話を伺いました。

 

自身の経験をもとに起業。子育て支援アプリを提供

–経営する会社について教えてください。

株式会社iibaを創業し、CEOを務めています。CTO、エンジニア、デザイナー、PM、インターン生など10名程度で事業に取り組んでいます。

株式会社iibaでは、「子連れにいい場所見つかる、知らせる」をコンセプトとして、街中の子連れに優しい場所が瞬時にわかり、おでかけするたびにポイントが貯まる子育て支援アプリを提供しています。おでかけママインフルエンサーが厳選した2000箇所以上のスポットを掲載しています。

週刊東洋経済「すごいベンチャー100」2023年最新版や日経クロストレンド「未来の市場をつくる100社【2024年版】」などにも選出いただきました。

情報を提供くださるママさんには本当に感謝しています。ご自身の経験から他のママさんを想う優しさから集まるスポット情報はすごく利他的。ママさんからの情報提供に対して、今後はお礼としてのポイントを配布し、そのポイントをチケットやギフトと代えられる仕組みを作ることも今後に向けて検討しています。

–なぜ、この事業を行っているのですか。

私自身、子どもを出産してから見える世界が変わりました。こんなに外に出るのが大変なんだ、と思ったんです。

ただ外出するだけでも色々なことを考える必要があり、検討に時間がかかります。過去に実施したアンケートでも検討に2-3時間かけているという声や「結局決まらずおでかけを諦める」方も多数いることがわかりました。コロナで家の中に閉じ込められたことも要因と考えられますが、産後うつを患う母親が3人に1人の時代でもあります。

家族との時間は人生の最後の思い出に残るくらい大事なものであるはずなのに、その幸せな瞬間を楽しめず、ストレスに苦しんで過ごし続けるのは悲しい。子育てに余裕を生み出し、幸せな時間を味わえるようにしてあげたい。

そんな想いで、この事業を考え、創業しました。

 

転勤族家庭に生まれ、何度も転校を経験した子ども時代

–ご出身はどちらですか。

京都出身です。父親の仕事の関係で転勤族だったので、山梨や栃木での暮らしも経験しました。

小学生の頃は転校があって3つの小学校に通ったのですが、それぞれに覚えていることがあります。山梨県に住んでいた頃通っていた小学校ではTOP3に入るくらい勉強の成績が良くて、足も速い小学生でした。その後、京都府にある小学校に転校すると成績の順位は中盤くらいになり、「周りのレベルが全然違う…」と痛感しました。のちに東大生を輩出するくらいに勉強ができる子が集まっていたクラスだったので、冷静に自分の現在地を把握できたという意味で良い経験だったと思っています。

また引っ越して栃木県の小学校に転校すると、勉強の成績はダントツのTOPで通信簿も「B」が一個、それ以外は「A」評価。それでも、京都の小学校で成績の良いクラスメートの中で揉まれた経験があったので天狗になることはなく、自分の成績や実力を冷ややかに疑うような気持ちでもありました。

–中学生〜高校生の頃はどんな生徒でしたか。

中学校からはまた京都へ引っ越し、まっさらな環境からのリスタートでした。

中学生の頃は陸上部の活動に打ち込み、個人競技を通して人と比べるよりも自分と戦う姿勢が身につきました。先生や親には「陸上の大会でスタートラインに立つと闘牛に見えるよね。普段は全然そんなことないけど」と言われたこともありました(笑)自分ではわかりませんが、当時自分との戦いに集中している様子がそのように見えたそうです。

高校生の頃は何かに対して高いモチベーションを持って取り組んだことはなく、厳しい校則の中で生活していたのはよく覚えています。先生が厳しくて、課題も多く、「部活も妥協せず取り組むように」という雰囲気で…。怖い先生に当てられないように必死でした…。

私が通った文系の進学クラスは女子の割合が多いクラスで、友人にはとても恵まれました。学校生活が大変な中でも友人と過ごす時間が当時の支えで、大人になった今でも仲良くしています。

–受験期はどのように過ごしていましたか。

親からは「資格が取れる職種を優先したらどうか」と助言を受け、教師、弁護士、看護師等の仕事に就ける進路を勧められました。私にとってそれらは違和感のある選択肢で、納得のいく結論が出ず、なかなか進路を定められませんでした。国公立に落ちた後、後期試験で私立を受け、最終的には情報メディア学科のある女子大へ進学します。

 

20歳で難病発症。復帰後、自身の原体験から創業へ

–大学時代に印象に残っている出来事はありますか。

入学後はいわゆる普通の大学生でした。生活の中心は、ゼミとバイト。ユニクロのバイトではグローバル枠で内定を頂くくらいに打ち込み、ゼミも幹事を務めていました。

2014年12月、バイトとゼミが最も忙しいピークの時期のことでした。喉に痛みを感じ、「風邪をひいたかな」と思っていたらちょっとふらふらし始めて…。5日後には呼吸が止まり、意識を失ってしまったんです。

病院に運ばれ、意識が薄れていく最中、目の前に見えていた心拍数の数字がどんどん下がっていくのがわかりました。数値が90を下回ると危険度が増して水の中で溺れているような感覚に陥ると言われているのですが、数値が60に下がるまでは意識がありました。呼吸ができず、苦しくて「このままでは死んじゃう…」と思ったと同時に「ここで力を抜いたら本当に死んでしまう」と思い、最後にグッと身体に力を込めたのを覚えています。それまでは死にたいとも生きたいとも考えたことのなかった人生だったのに、急な出来事でした。

目が覚めたのは2週間後。全く身体が動かせず、それから2ヶ月は集中治療室の天井を毎日ぼんやりと眺めながら考えごとをして過ごしました。当時は「なんであれをしなかったのか」「あの人に会いたいな」「治ったらあの人にこれを伝えにいきたいな」など、これまでにやってこれなかったことがいろいろと思い出され、頭の中を巡っていました。

–病床ではどんな心情でしたか。

診察によると、私が患ったのは「ギランバレー症候群」と呼ばれる病でした。一命を取り留めたものの、当初意識はあり、耳も聴こえているんですが、全身麻痺状態なので笑うことはできず、呼吸すらも(機械に頼らなければ)自分ではできない状況でした。看護婦さんや先生、親が絶えず声をかけてくれたおかげで平常心を保つことができました。自分1人でいたら気持ちを保っていられなかったと思いますし、「人は1人では生きていけないんだ」と強く感じた瞬間でした。それ以来、(私自身は)身近なところに欲があまりないというか…幸せの閾値が低くて、「息できればOK。今日も自分の足で歩いていられたらラッキー」くらいに感じています。

–退院後はどうされましたか。

退院して大学に復帰してからは、授業を詰め込み、なんとか4年間で卒業できました。病気を患う前は「無難に働こうか」と思っていたのですが、改めて就活に向き合ってみると真剣に考えすぎてなかなか答えを出せなくなってしまいました…。最終的には海外ウエディングの会社に就職し、プランナーとして働き始めたのがファーストキャリアです。

実は大学卒業と同時に結婚もしていて、その1年後には1人目の子どもも生まれているので、結婚、就職、引っ越し等がバタバタと重なり大変でした。子育てと仕事の両立がとても大変で、1社目の会社は退職。その後フリーランスとして働き始めました。2人目の出産も終えた頃、ビジネスや社会人としての基礎を学び直そうと考え、リクルートに転職しました。転職前には「いずれは起業して、自分が考えたサービスを提供したい」と考えていました。

そうした(起業しようという)考えになったのは、20歳で経験した病気の影響が大きかったですね。それまでは生きるか死ぬかも考えたことはなかったけれど、「生き残った自分の命をどう使おうか」と考えるようになり、社会のためになることに打ち込むことこそ自分にとって一番幸せなことなんだと思ったんです。じゃあ、広い社会の中で何のために向き合おうかと考えた際、身近にあったのが子育ての課題でした。

入院中、看護婦さんから将来の夢を聞かれて「子供産みたい」と話した時は、心からそうしたいと思いました。一方で、出産後の子育て生活は想像したものとまるで別世界。すごく大変…。幼い子どもと過ごす時間は、その瞬間しかないしあわせな時間なはずなのに楽しむ余裕はなく、あっという間に日々が過ぎ去っていくような感覚でした。実体験をもとに、子育て中の母親の助けになるようなサービスを作りたいと考え始めました。

–どのような経緯で起業を決断したのですか。

リクルートで働きつつ、本業以外の時間で自身の課題意識をもとに動いていました。お会いできる方がいれば直接ヒアリングを行いつつ、プロトタイプを用いながら仮説検証も進めていました。やがて私たちが構想するものを求めてくださる方々と出会い、その方々に突き動かされるような気持ちで起業を決意しました。当時出場したビジネスコンテストでファイナリストとなり、登記すると100万円の賞金をもらえる権利を得たことも後押しとなりました。

–当時、決断にあたって迷いはありませんでしたか。

リクルートはいい会社で、社内でもっとできることはあったと思います。ただ、明日も生きていられる保証はなく、「やりたいことは、今やろう」と考えて決断しました。

 

最後に

–この記事を読んでくださる方の中に、ライフステージの変化で岐路に立っている方、挑戦を続けている方がいたら、伝えたいメッセージはありますか。

「今が一番若い」と常に考えるようにしています。

5年前、起業してサービスをリリースしたいとは思っていましたが、まだ何の知見もありませんでした。5年が経った今、思い描いていたことを実現し、スタートラインに立つことができました。これから先も5年、10年、何十年と人生が続きます。これまで生きてきた人生の2倍、3倍の時間が今後待っています。そう思えば、いつからでも、何でも始められると思いませんか。

何かを始めてみたら、あとは自分との戦い。今日はこのまま寝てしまいたい。そんな日も、「これだけやってから寝よう。一つだけ終わらせてから休もう」と決意し、自分に勝てた日をどれだけ積み重ねられるか。

過程には大変なことや諦めたくなる瞬間もありますが、私自身は一年以上継続してみて、思いがけないタイミングで評価を受けたり意外なところで見てくれている人がいたりすることがありました。

私自身もまだまだこれから…なので日々頑張っていこうと思いますが、読んでくださる方の中でこうした考えに共感いただける方がいれば一緒に頑張りましょう。

取材・執筆=山崎 貴大