やりたいことを実現する手段はたくさんある。Saphan代表・作田詩織がつなぐ未来

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第945回目となる今回は、株式会社Saphan代表、作田詩織さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

タイに住む山岳民族、カレン族と『Saphancoffee』を作り、社会課題解決を目指している作田さん。これまでの体験がきっかけになった考え方や、目指している未来についてもお話いただきました。

1冊の本と出会い、影響を受ける

ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

株式会社Saphan代表の作田詩織です。タイに住むカレン族の農家さんと一緒に作っているコーヒーを通して、タイに住むミャンマーやカンボジア、ラオス周辺国から移住してきた子どもたちの体験作りをしています。

体験作りを行うことで、子どもたちの機会格差や雇用、コーヒー農家の不安定な収入などの社会課題解決を目指しています。

ーここからは、作田さんの過去を振り返ってお伺いします。どのような幼少期を過ごされたのでしょうか?

小学校の長期休みは、家族で海外旅行に行く機会が多かったです。

両親が海外好きということもあり、海外で様々な体験をさせてもらい、新しいことを知る楽しさや非日常感、当たり前が崩されていく感覚がたまらなく好きでしたね。

例えば、イルカはツルツルした触感だと思っていたのに、ザラザラだったとか、ラクダのコブが硬いと思っていたけれど、思っていたより硬くなかったとか。小さなことですが、一つひとつがすごく刺激的でした。

ご飯を手で食べてもいいんだなとか、電車でさわいでもいいんだなとか、日本ではダメなことも、海外では普通なことが印象的でした。

様々なことに興味関心度が高く、活発な子どもでしたね。

ーその後は中学校に進まれて、ある本との出会いがあったそうですね?

13歳のころに、『飛べない鳥たちへ』という本と出会いました。

高校受験を考えたときに、どうやって進路を決めたらいいのかがわからなくて。将来のことを逆算してみようと思ったときに、海外に携わる仕事がしたいなと思いました。それなら、海外で活躍している日本人の本を読んでみようと思ったんですよね。

近所の図書館や本屋さんに行って、海外で活躍している方の本を読んでいたときに、NPO『JapanHeart』創始者、吉岡秀人さんの本に出会いました。

発展途上国の子どもたちが、病気で脚が悪くても貧しくて医療が受けられず、学校に行くこともなく生涯を終えてしまう子がいると知りました。吉岡さんが無償で治療することで、その子は歩けるようになり、学校にも行けるようになっていました。

その子の将来が大きく変わっていったことに、すごく心を動かされました。私もそんなふうに、出会ってくれた人の未来を少しでも変えていけるような生き方をしていきたいなと思ったんです。人生で初めて尊敬する人ができました。

国際協力隊やボランティアって、偽善と言われることがありますよね。「偽善から始まったとしても、それが歯磨きのように当たり前になったらいい」と様々なところでおっしゃっていて。

それを聞いて、確かに偽善から始まらない人はいないと思うし、続けることで自分の当たり前になっていったら、それはもう偽善じゃなくなる。そういう考え方っていいなと思い、すごく印象に残っている言葉です。

著者の吉岡さんに憧れ、医師を目指して猛勉強を始めました。

不平等や不公平がこの世で1番きらいに

ーそこから医師を目指して、勉強されたのですね。

吉岡さんみたいになりたいから、医師になろうと思いました。医学部に入れるような高校や大学に行くために、苦手な勉強をがんばり始め、塾にも通わせてもらっていました。

ところが私の通っていた中学校は、自由すぎる学校だったんですよね。授業中にお菓子を食べたり、トイレでAKBを踊っていたり、私も同じようなことをしていて、遅刻や授業を休んでユニバに遊びに行っていました。

学校ではそうやって過ごしていましたが、家に帰ると夜遅くまで勉強をする生活を送っていましたね。

当時は素行が悪かったので、学校の先生とうまくいっていませんでした。中学から高校に上がるときに、当日の試験結果50%と内申点50%で合否が決まる試験がありました。

学校のテストで毎回90点以上を取っていたし、10点満点の内申点を9はもらえるようにがんばってキープしていたから、大丈夫だと思っていましたが、先生に嫌われたことで8や7をつけられたんです。

そのとき子供だったのもあって、低評価をつけられたことが、どうしても受け入れられなくて。こんなにがんばっているのに、平等に評価してくれないのはひどいなと思いました。

中学を卒業してからも、公立に行けなくなったのは内申点のせいだなと引きずり続けていました。先生との人間関係さえできていたら良かったのかなと、もやもやとして納得していませんでしたね。

ー高校生活はどう過ごされていたのでしょうか?

公立の滑り止めで受けた、私立の女子校に進みました。公立に行くつもりでいたので、行くくつもりのなかった高校に行かないといけなくなり、最初はいやで仕方ありませんでした。

今でも高校の友だちとは仲がいいし、出会えてよかったなと思う子が多くいます。結果的には、その高校でも良かったなと思いますね。

高校に入ってからは、全く勉強しなくなってしまいました。高校2年生になると、大学のことを考えないといけなくなり、医学部しか行きたいところがないなと思い、また勉強を始めました。それでも現役のときに間に合うはずもなく、一浪して来年がんばることにしました。

自分が思っていた以上に勉強が苦手で、勉強しても思うように伸びなくて大変でしたね。医学部に行きたかったから理系に進みましたが、本当は英語が好きで、数学や理科はやってもやってもできなくて。1年後も不合格でした。

どうしても医師になりたくて、2年浪人しましたが、医学部には手が届きませんでした。ひたすら医師を目指して生きてきたので、人生が終わったと思いましたね。