薬剤師をもっと身近に。薬学生・水谷朋加が実践した、目の前のチャンスを掴み続ける大切さ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第906回目となる今回は、薬学生の水谷 朋加(みずたに ともか)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

現役薬学生として勉学に励みながら、薬学生で運営するクラフトコーラ専門店「調剤室 一」の総責任者を担う水谷さん。患者と薬剤師を越えて人と人としての対話を生むことで、薬剤師がもっと身近な存在になる世界を目指して活動しています。元々は薬剤師にあまりいいイメージを持っていなかった水谷さんが、薬剤師の幅を広げたいと思うようになるまでを紐解きます。

母の期待と自分の気持ちに折り合いをつけて薬学の世界に

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

薬学部5年生の水谷朋加と申します。薬学生として研究や勉強をしながら、薬学生がデザインやマーケティング、ディレクションを担うクラフトコーラ専門店「調剤室 一」の総責任者を務めております。

ー「調剤室 一」の具体的な仕事内容を教えてください。

私が運営している「調剤室 一」は自店舗を持っておらず、いろんなお店が並ぶマルシェに出店する形で営業しています。そのため、当日にお店を仕切ったり、まちの人に声かけをするのがメンバーの主な業務です。それまではSNS運用や商品デザイン、レシピ開発など、お店をつくる上で必要なことは全て学生が行っています。

私は総責任者として、保健所のやりとりやお店の運営を管理しています。「調剤室 一」は運営メンバー全員が学生なので、それぞれの状況を把握しながら、みんなのやりたいことや得意なことをお店に活かせないかといった全体のブランディングも考えています。

ー全体を俯瞰して組織をマネジメントされているのですね。ここからは水谷さんの人生を深掘りしながら、転機をお伺いできればと思います。幼少期はどのような子だったのですか?

母は専業主婦で手に職がなかったのですが、小学校低学年から女手一つで育てられました。母の兄弟が医者や薬剤師だった影響から、医療系の専門職の資格を取って生きてほしいと言われ続けてきた子ども時代でした。

一方で、私が興味を持ったものはなんでも応援してくれる母でした。そのおかげで、様々な習い事を経験することができました。経験を重んじてくれた母に感謝しています。

ーやはり高校時代の進路選びでも、母親の思いによる影響はありましたか?

そうですね。でも当時の私は、東京の都会生活や華やかな世界に憧れがありました。東京のオフィスで働きたい私の気持ちと、手に職をつけて医療系に従事してほしい母の思いに食い違いがあって。お互いに譲れず強い気持ちでぶつかったのは、このときが初めてでした。

ーどのようにして折り合いをつけられたのでしょうか?

資格が取れる学部に進学したからといって、その職業に必ず就かないといけないわけではないと母から言われたんです。私もその一言に納得し、結果的に薬学部への進学を決めました。医療系のなかでも薬学部を選んだ理由は、化粧品業界に当時興味があったからです。

薬学部に馴染めず、逃げるように憧れていた演劇に没頭

ー薬学部のある大学に進学してからの心情の変化はどうでしたか? 

薬剤師になりたいという気持ちは湧かないままでしたね。入学後まず最初に、「将来どんな薬剤師になりたいのか」をグループディスカッションする授業がありました。ただ私自身、薬剤師としての未来を考えることに違和感があったのと、クラスメイトみんなが「患者に寄り添える薬剤師になりたい」と口を揃えて言うことに対して驚いてしまって。

元々薬剤師を目指して入学したわけではなかったので、孤立感を感じていました。

ーそうでしたよね……。孤立感はどのようにして打破しようと思ったのでしょうか?

大学生になったら新しいことを始めようと思っていたので、中学生の頃から憧れていた演劇をするために、インカレの演劇サークルに没頭するようになりました。薬学部という世界から演劇の世界へ、一歩踏み出す勇気を持つことができてよかったです。

ー憧れていた演劇に対して、水谷さんはどのように取り組んだのですか?

私が所属したのは名古屋で規模の大きい演劇サークルで、すでに演劇をやってきた経験者ばかりの環境でした。大道具や脚本などの部署もあるのですが、俳優になるためには必ずオーディションを受けなければなりません。

最初の頃は、図書館で演劇や演技についての本をたくさん読むなど、座学に力を入れていました。けれども、やはり座学だけでは通用しない部分があって。それをどう埋めればいいのか考えたときに、サークルの外に出てみることにしました。他の劇団の芝居を観に行き、オーディションのチラシを集めてはすべて受ける。受かったらどんな役でも芝居に出ることを続け、気づけば東海圏の若手で最多の年間出演数俳優になっていました。

ーアグレッシブな姿勢が素晴らしいですね。どうやってモチベーションを維持していたのでしょうか?

プライドが高かったんだと思います。所属していた演劇サークルの卒業公演でメインの役になることを目標に、それまではサークル内のオーディションに出ず、外部で挑戦して経験を積もうと決めました。

ー演劇に専念する一方で、やはり学業も疎かにできないかと思うのですが、どのようにバランスをとりましたか?

私自身は学校や薬学の勉強から逃げていたように思います。2年生から実験の授業が始まり、何時に終わるかわからない環境のなか、毎日芝居の稽古に出ていた生活でした。どんなに実験が忙しくても演劇は続けたかったので、寝る間も惜しんでバイタリティーだけで生きましたね。

外部で経験を積めば積むほど声をかけてもらえるようになり、芝居に出れる機会が増えていきました。