生きづらさは努力不足ではない。村松麻衣が取り組むギフテッド・2E教育とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第798回目となる今回は、ギフテッド・2Eの専門家、村松 麻衣(むらまつ・まい)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

生きづらさを感じている当事者や親御さんの相談を受けている村松麻衣さん。村松さんご自身もギフテッドであり、苦労された経験から立ち上げようと考えられた支援事業への思いを語っていただきました。

同級生との不和がきっかけで不登校に

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

村松麻衣と申します。私は、ギフテッドと2E(ギフテッドと発達障害を併せ持つ方)のお子さんや、大人を支援する事業を設立しています。

それに加えて、カリフォルニア大学サンディエゴ校のギフテッド教育者コースで学生としても学んでいます。

ーそんな村松さんはどんな学生時代を過ごされましたか?

一言で言うと、好奇心の塊でしたね。私はいろいろな分野に幅広く興味を持つタイプでした。

例えば習い事も、ピアノや合唱、テニス。担任の先生の誕生日会を企画してみたり、文化祭の実行委員をしてみたり、いろいろなことに手を出す子どもでした。

ですが小学校のころから、自分は周りと何かが違う、関心事が同級生とは異なるなと感じていました。表面上ではうまく適応していたんですが、内心では悩んでいて。いよいよ限界に達してしまったのが14歳のときでした。

不登校になったのは、同級生との不和がきっかけです。小さな不満や馴染めなさが積み重なって、限界がきていました。

ー不登校になったときに、周りの反応はどうだったのでしょうか?

「皆と仲良くできていて、成績も良い麻衣ちゃんが、何で学校に来れないんだろう」という反応が多かったですね。

当時は、私が馴染めないのが100%悪いと思っていました。休むことで、内申点や周りからの見え方が気になってしまい、休んでいる間も辛かったです。

その後は数ヶ月の不登校を経て、隣の学区の中学校に転校して学校生活に戻ります。幼少期から感じていた心のモヤモヤは抱えながらも、高校受験も控えているので、自分のためにリスタートしました。

環境の変化でやりたいことを表に出せるようになっていく

ー高校ではユニークなチャレンジをされていたそうですね。

高校は進学校に進みました。公立の中学校から比べると、少し個性的な子が増えたこともあり、自分がやりたいことを臆さずに表に出すことができるようになってきました。

合唱コンクールで、一丸となって成果を出すにはどうしたらいいんだろうと考えました。私が中心となり、各パートにパートリーダーとは別の責任者を置き、幹部会を開いたんです。いわゆる経営やマネジメントの真似事のようなことをやっていましたね。

通っていた学習塾の母体が、人材マネジメント系だったこともあり、モチベーションやマネジメントのような言葉に自然と触れるような環境でした。

当時『もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーのマネジメントを読んだら』が流行っていたので、原書も読んでマネジメントに興味を持ちました。

高校でも変わらず浮いていたので、「また村松が何かやってるよ」みたいな反応でしたね。良い意味で放っておいてくれる友達が多かったので、やりたいことに楽しく没頭できる環境でした。

ー実際にマネジメントをする立場としてやってみて、いかがでしたか?

すごく楽しかったです。

今までは成績がいいことが一番で、実行委員や代表になるのはあくまでおまけでしかない。そういった価値観で生きてきたんです。

けれども実際に幹部会をやってみて、実は経営学って分野があるんだとか、企業でマネジメントをしていく道もあるんだってポジティブに捉えられたんです。もしかしたら適性があるのかもしれない、向いているかもしれないと思い、自己肯定感が少し上がりました。