前例のない挑戦をしたい。下川友暉が語る市場価値の高め方

さまざまなキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第716回目となる今回は、人材会社の営業マン兼車椅子ソフトボール協会理事・下川 友暉(しもかわ・ともき)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

人財会社の営業職と日本車椅子ソフトボール協会理事という異色なキャリアを歩む下川さん。営業職での挫折と、人との繋がりから学んだ、「市場価値の高め方」についてお話ししてもらいました。

車椅子ソフトボールに出会った学生時代

ーまずは、自己紹介をお願いします。

下川友暉です。鹿児島県出身で、学生時代はひたすら野球に打ち込んでいました。野球歴は16年以上です!

高校卒業後は北九州市立大学の地域創生学部に進学し、障がい者スポーツを通しての地域活性化について学びました。障害者スポーツのひとつである車椅子ソフトボールに興味を持ち、プレーや普及活動を行っていました。

現在はスポーツ系の人財会社で営業職を経てマネージャーとして働く傍ら、日本車椅子ソフトボール協会の理事としても活動しています。

ーありがとうございます。大学生の頃について、詳しく聞かせてください。

所属学部では、対象スポーツを1つに絞り、地域で全国大会を開催することで地域を活性化させる方針で学習を進めました。

車椅子ソフトボール以外にも、車いすバスケットボールや車いすラグビー、ブラインド卓球などさまざまな障害者スポーツを体験しましたよ。中でも車椅子ソフトボールは、ニッチな分野かつみんなでできるスポーツという点に、魅力を感じました。

ー車椅子ソフトボールのどのような部分がニッチだとお考えですか?

アメリカでは当時40年以上の長い歴史があったのですが、日本ではまだ認知度が低くて。

僕が大学1年生の頃、車椅子ソフトボールのチームは日本に3チームしかなかったのですよ。

大学時代は北九州のチームでプレイしていたのですが、当時僕の周りの人間は誰も車椅子ソフトボールを知らなかったのです。選手を集めようと声をかけても、「車椅子ソフトボールって何?」から始まっていました。

ー「車椅子ソフトボールはみんなでできそうだと思った」という話もありましたよね。

車椅子ソフトボールのコンセプトは「障がい者と健常者が一緒になってできるスポーツ」。車椅子に乗ったら、障害者・健常者関係なく皆が平等になれるのです。

正直僕には野球の経験もあったから、すぐにできるだろうと思っていました。でも、ボールは遠くに飛ばせても、車椅子の操作が追いつかなくて。車椅子の操作面では、普段から車椅子に乗っている障がい者プレイヤーの方が長けていましたね。

ー車椅子ソフトボールの普及活動をやってみていかがでしたか。

座学も大切ですが、社会に出て活動したからこそわかることもあるなと感じました。

チラシを配るときに名刺を持っていく、大会の運営費を賄うために営業の電話をするなどの活動を学生のうちに経験できたことは、自分のためになりました。就職後の営業の仕事にも活きたと思いますよ。

「人に影響を与えたい」就職活動を通して見つけた目標

ー就職活動では、どのような進路を考えていたのですか。

これまでずっとスポーツに打ち込んでいたこともあり、スポーツ系の人材会社への入社を決めました。

ー就職活動で学んだことや感じたことはありますか。

 

キャリアを考える中で、漠然と「人に影響を与えられる人間になりたい」と思うようになりました。

自分が人に影響を与えられるようになるためには、まずたくさんの人から影響を受けないといけないと思ったのです。就職活動が終わってからも、人から影響を受けられる環境に積極的に身を置くようにしていました。

ー人から影響を受けられる環境に足を運ぶ中で、印象的だった方はいますか?

とあるセミナーで出会った、社会人の方です。彼は「働いている」という感覚を持たず、自分のやりたいことを追求しつつ働くことをとにかく楽しんでいました。

社会人といえば、「土日休みのために、平日はみっちり働く」のが当たり前だと思っていたので、驚きましたね。彼のような考え方や価値観があることさえ知らなかったので。

彼には「市場価値をどれだけ上げられるかが大切」だと教わりました。そのためには、社会人として自分ができることや得意分野を鍛えることが重要だそうです。彼の話を聞いて以来、自分の市場価値を意識するようになりました。