最後には自分が勝つ。ネタもと営業部長・久壽米木一輝が考える働く意味

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第787回目となる今回は、株式会社ネタもとビジネスプロデュース部部長・久壽米木 一輝(くすめぎ・いっき)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

25歳という若さで部長職に就いた久壽米木さん。営業をしてもまったく売り上げがあがらず、どん底だった新卒1年目から部長にまで昇り詰めた経緯と、会社や将来に対する熱い思いを語っていただきました。

不良に憧れた学生時代

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

株式会社ネタもとというPRの会社で新規営業部の部長をしている久壽米木一輝(くすめぎ いっき)と申します。

ーPRの業界で営業をするのは意外ですね。

PRの業界で営業をするイメージはあまりないと思いますが、自社の商品はパッケージで販売しているため、営業なくして販売はできません。入社当初はインバウンドで勝手に案件が入ってくる仕組みもなかったため、かなり営業をがんばりました。

ー営業しなければお客さんに見ていただけないのは難しい部分ですよね。

プッシュ型の営業はお客様のニーズがない状態で販売していくため、最初は煙たがられます。商品力には自信があるので実際に使っていただくと価値を理解していただけるのですが、まずは受け入れてもらうまでが大変でした。

ー早速ですが、ここからは久壽米木さんの過去を振り返ってお伺いします。どんな幼少期を過ごされましたか?

小さい頃はとてもおとなしく、兄弟の真ん中で和を保つ平和主義でした。小学校でも友だちに対して自分の意見を言うタイプではなく、当たり障りのないキャラクターでしたね。
中学校に入ったあたりで、当時流行っていた不良漫画や映画の影響で筋の通った不良に憧れ始めました(笑)。

ー高校や大学に進学してからはどのように過ごされましたか?

20歳前後までひたすらやんちゃしていましたね。中学の頃からあまり学校へ行かずに遊び呆けて、高校生になっても学校に到着するのは毎日お昼過ぎでした。

学校で友だちと弁当を食べたらすぐに帰ってまた遊ぶ。何のために学校に通っているのかわからないような生活を繰り返していました。

中学の成績はオール1か2で、県で1番偏差値の低い高校になんとか入学しました。高校でも毎日遊んで留年することになり、最終的には退学になってしまって。

高校を退学になってからは自分の将来を見つめなおして、改めて高校卒業資格を取得するために通信制高校へ行きました。

その後、大学に入学して興味のあった経営の勉強をしました。学校の先生にやらされる勉強はおもしろくなかったですが、興味のある分野はここまで没頭できるんだと熱い思いが芽生えて

大学4年間は学生生活を楽しみながらも経営組織論やマーケティング論の勉強もきちんとしていました。

ー経営者を目指されていたのでしょうか?

一度きりの人生なのだから、安定的に生きるよりも何かチャンスを掴んでお金持ちになりたいと思い、そのために経営者になろうと思っていました。当時は経営者でなければ儲からないと思い込んでいて(笑)。

経営者と出会うために様々な場に顔を出してお話を聞く中で、会社の経営はお金儲けのためだけではなく、自分のビジネスモデルに対する熱い思いやステークホルダ目的ー、社会に対しての存在意義を主張できることを知り、とても意味深く素晴らしいと思いました。

そんな思いが強かったからこそ、経営の道を選んだのだと今では思います。

ー経営者になるまでの道のりは困難が多いと思います。

誰かにできて自分にできないことはないと思っているため、自分より優秀な経営者でも誰にも負けないという強い気持ちを持って取り組んでいます。能力値の差ではなく、やるかやらないかと取り組むまでの行動スピードでその後の差が開いていく

会社の社員や部下たちには、私みたいな、あまり勉強をせず学校に行っていなくても、ひとつのことに真っ直ぐになればできるんだという気持ちや考え方をとにかく伝えたいです。

経営者になるために株式会社ネタもとに入社

ー久壽米木さんが就職するときはどのような部分を大切にしていましたか?

自分自身が「この会社でがんばりたい」と心底思わなければミスマッチが起きると考えていたため、必ず自分で会社をしっかり見ようという姿勢や気持ちは忘れずに持っていました。就活では3社しか受けませんでしたが、どの会社にも自分の思いを包み隠さず話し、3社とも内定をもらえました。

最後の面接が現在の会社で、ネタもと代表の本村に「将来どうなりたいのか」を聞かれ、経営者になってお金持ちになりたいこと、経営者になって実現したいことをすべて話しました。彼の「うちならできるよ」という一言を今でも覚えています。

実は私が受けたほかの2社の社長と本村は知り合いで、「経営者になるために必要なのは人脈だ」と言われました。

自分の中でもたくさんの経営者とつながること、様々なビジネスモデルを知ること、圧倒的な営業力や販売力をつけることの3つが揃えば経営者になれると考えており、すべてぴったりだったのが現在の会社だったのです。

PRの業界はどの業界にも営業をかけられる上に、私たちの営業では経営者の方としか商談しません。たくさんの人と知り合えて、いろいろな業界業種の人と出会うことができ、人脈を広げることができるのです。

さらに、この会社で圧倒的な営業力さえつければ私の経営者になる人生ビジョンに到達できると思いました。その場で入社させてくださいとお願いし、そのまま内定をいただきました。

ー新卒で入社してからの若手時代のことを教えてください。

新卒時代はまったく売り上げがあがりませんでした。話すことに自信を持っていましたが、まったく売れなくて。

営業は売り上げがなければその分稼働して、人が仕事をしていないときに働いて学んでいくしかありません。そんな状況が1年半も続き、かなり辛かったです。

ー売り上げがない状態をどのように乗り越えたのでしょうか?

「最後には俺が勝つ」と常に思っていたため、心が折れることはなく、うちに秘めた自信と闘志で最終的に部長になることができました。

2、3ヵ月の短期的な結果を見て、向いていないと退職を希望する同期も何人かいました。でも、もしかしたら80歳でも働いているかもしれない長い人生の中でのファーストキャリアを、たった3ヵ月で判断するのはかなり見切りが早いと思います。

成果が出ないと「私にこの仕事は向いていない」と思いがちですが、その会社での輝き方を知らないだけだと。

ー具体的にどのようなことに取り組んだのか教えてください。

当時は目標数字に追われて、「何としてでも売り込まなきゃ」という考えが強かったため、まずは売り込むのをやめました。「いらないなら言ってください」と最初に言うようにし、すべての決断をお客様に委ねるようにしたのです。

自分の利益を優先するのではなく、お客様の本質的な課題を見つけ出し、解決策を一緒に考え、ユーザーファーストの心を常に意識しました。お客様が悩んでいたら「使い方や気になることはアドバイスしますから一緒にやってみませんか」と、最後に手を差し出すスタイルの営業に切り替えてから売れるようになりました。

最初は上司に言われたことを作業的にやるだけでしたが、売り上げがあがらないまま後輩が入ってきて切羽詰まってしまったことがあって。

そんなときにみずから保険営業マンの営業を受けて内容を録音し、どのタイミングで自分は保険に入りたいと感じたのか、どのタイミングで営業マンは私にイエスと言わせに来ているのかをすべて分析しました。

分析した結果、営業は売り込みではなく、あくまでもユーザーファーストでするものだと気づいたのです。それからは営業に対する考え方が変わり、目標130~140%達成を毎月繰り返すようになりました。

ーネタもとさんの「ファンづくり」というメッセージに込められた思いを教えてください。

私たちが企業向けに行っているファンづくりは主に4つです。

①商品・サービス
②会社・企業
③社員
④投資家・株主

この4つのファンづくりをすることで自ずと経営課題が解決されて企業としても成長を遂げられるものをモデルにしています。

商品・サービスのファンができれば売り上げがあがりますし、会社のファンになってもらえれば人材の採用力も上がりますよね。自社の社員もファンでなければ強い組織は生まれません。また、会社の考え方や方向性を発信し、やはりこの会社は最高だと思ってもらえれば定着率は向上します。さらに、上場している企業では投資家に対するファンづくりも非常に重要です。これらを中心的にやっているのが私たちの「ファンづくり」です。

そして、何よりも個人のファンづくりが重要だと考えています。新規営業を行っている私たちはお客様とファーストコンタクトをとるからこそ、個人のファンになってもらえなければ私たちの商材を買うこともありません。お客様に対して一生懸命向き合う姿勢を現在も大切にして取り組んでいます。

ー社内で大切にしていることはありますか?

自社ではコミットメントという考え方を大切にしています。私たちの仕事の向き合い方や見せ方・姿勢を新卒1年目の子たちは素直にそのまま受け取るんですよね。新卒1年目に身についた仕事との向き合い方は、生涯なかなか変わらないと思います。

だからこそ、私たちが社会人1年目を含む若手の働き方にコミットメントして向き合っていくことで、その子の人生がよい方向に進む可能性が広がると思っています。