自分の思いにまっすぐに、正直に。選んだ道を正解に導く、久保駿貴の生き方とは

野球と勉強に明け暮れる日々

ー久保さんがなぜ事業を立ち上げるようになったのか。そのヒントは幼少期にあるのかもしれませんね。幼少期、どんな環境で育ったのかを教えてください。

わたしは現在は岡山なのですが、出身は兵庫なので、兵庫で幼少期を送りました。

小学校のかけっこから野球の試合まで、何をとっても負けず嫌いな性格でした。

また、生徒会に入ったり、音楽会で大太鼓をしたりと人前に立つことに抵抗はありませんでした。しかし、その一方で、やりたくないことはやらないという幼少期だったと思います。

中学校に進むと、生徒会に入ったり、野球をずっと続けたり、勉強を一生懸命したりという普通の生活を送っていました。ただ、野球をやりながらサッカーも好きだったこともあり、尊敬する本田 圭佑選手がサッカーをしながら途上国の教育に関わっている姿にすごいなという印象がありました。

今思えば、本田選手の姿やコメントが、その後の自分につながっていたと思います。

ー高校はどのように選択し、高校での生活はどうでしたか?

野球と勉強しかしていませんでした(笑)。

気象や宇宙の領域が好きで、その分野を今後も勉強したいと思い、理系のコースに在籍していました。価値観が変わった出来事として、アメリカへの研修旅行でした。そこでは、普段は入ることができない国立がん研究所やNASAに入らせていただき、現地で活躍する日本人の方にも話を聞くことができました。その方から「英語をやらないといけない」と言われたことを覚えていますし、世界は広いなと感じた出来事でもありました。

ずっと続けていた野球も3年間やったものの、ボールを投げれない時期もあり、苦しい時期の方が長かったです。しかし、この3年は無駄ではなく、人としての礼儀作法は野球から学びましたし、採用業務の中で体育会出身の人が重宝されるのは、野球を通して多くの人が礼儀作法を学び、身につけているからなのかもしれないと思うようになりました。

ー大学受験に関してはどのように考えていましたか?

クラスの半分以上が医学部や旧帝大などへ当たり前に進むという環境だったこともあり、少し背伸びをして高校に入学してしまったなと思っていました。自分自身も文武両道はしていたものの、成績は伸び悩んでいました。

ただ、他の学生がレベルの高い大学へ進む環境にいたからこそ、自分が目指したいところを目指せましたし、浪人はしましたが、行きたいところにトライできたので、いい経験だったと捉えています。

結局、目指していた神戸大学は受からず、関西大学の環境都市工学部に通うことになりましたが、今振り返ると、国公立の大学に行くか、自由度の高い私立の大学に行くのかで将来進む道は変わるんだなと思いますね。

本当に学びたいものは何なのか

ー大学時代はどのように過ごしましたか?

ESS(英語研究部)に属し、英語についてみっちり学び、そこで出会った人たちが、わたしの価値観を変えてくれました。

中国に留学した人、アフリカへ旅行に行こうと考えている人など価値観が異なる人が多く、ESSは真面目な人が多いと思っていた自分にとって、衝撃でした。しかし、アクティブで挑戦的な人が多かったことで、わたしも海外が好きになり、いろんな国を旅行するようになりました。

ーもし、国公立の理系に進んでいたら、違った展開になったかもしれませんね。

私立の大学は、総合キャンパスになっていたので、文系の友達もできましたし、能動的な友人に出会うこともできました。その中には、ポーカーで稼ぐ人や民泊で稼ぐ人などもいて、こういった生き方、大学生もいるんだと思うようになりました。

ーその後、別の大学に編入されたとお聞きしましたが。

環境都市工学部に入ったものの、化学についての勉強が多く、しんどいなと思っていました。また、負けず嫌いな性格もあり、本当に勉強したかった気象や宇宙を学べるところに行きたいと思いはじめ、別の大学へ編入することを決意しました。

岡山大学に編入したのですが、気象について学びたいという思いは変わらずにありました。自分のやりたい領域について学べたり、卒論も気象について執筆することができたので、編入後の生活には満足していました。

ー先ほどのお話で、一つ目のプロダクトは大学のときに生み出していたということだったのですが、事業の立ち上げと大学の編入の時期はかぶっていたのでしょうか。

被ってました。当時所属していた、関西大学で知り合った先輩と今のサービスを立ち上げ、岡山大学へ編入した後も一緒に事業を運営していました。

その方は、民泊の経営をしている方で、一つ目の事業(ガイドサービス)について意気投合し、一緒に立ち上げようとなりました。サービスをローンチするまで多くの時間を要しましたが、今のABABAを作るには必要な時間でした。

ー学生起業についても伺います。気象について勉強したいという欲求と会社を起業したいという欲求は別の方向性に見える気がするのですが、なぜ編入と起業のタイミングが重なったのでしょうか。

勉強と事業を分けて考えていたので、あまり気にしていませんでしたが、周りからは、勉強するために編入したんじゃないの……?とみられることもありました。

実は、起業をしたいという思いを起業するまでは持っていませんでした。ですが、面白いことには一直線という性格だったので、面白かった勉強と起業ともにのめりこんだのだと思います。

事業をはじめたことで、研究における気づきは多くありました。

研究をビジネスにできないかという視点は自分の中でずっと持ち続けていて。研究室ベンチャーってありますよね。だから、自分の研究室でビジネスが生み出せないか考えていました。

そして、教授にもこの研究をビジネスにして良いかと相談をし、教授からビジネスにして良いという許可も得られました。今はABABAの仕事が忙しいので、ビジネスにするのは難しいですが、落ち着いたタイミングで形にしたいなと思います。

ーその後、大学院にも進学されたのですね。

気象の研究を継続してやりたいと思い、神戸大学の大学院へと進みました。

気象について学べる研究室に所属をしたものの、大学院進学前は、ABABAの仕事がこんなにも忙しくなると想像できず、大学院生活のスタート時は、事業の挑戦期間が3年くらいはあるだろうという気持ちでした。

また、大学生という身分は武器になると気づきまして。

賞をいただいたり、普段会えない人に会うことができたりするようになって、大学の身分はあったほうがいいのでは?と事業の観点から感じるようになったのも大学院進学の理由の一つでした。

ーその後の大学院生活は、いかがでしたか。

ABABAの方にフルコミットしなければいけないので、気象の研究は続けられなくなり、神戸大学の大学院を辞めることになりました。その後、岡山大学の方から経営のことを学んだら良いのでは?ということで、一昨年の秋に岡山大学の大学院に入ることになりました。