自分がやりたいことに素直でありたい!日本語教師、渡邉 萌捺のキャリア論

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第412回目となる今回は、JICAの青年海外協力隊となった渡邉 萌捺(わたなべ もえな)さんをお招きし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

日本語教師の道を選んだのは、国境すらも越えてどこでも生きていけるような仕事がしたかったからだと話す渡邉さん。グローバルに自分らしく生きようとする彼女ならではの思考に迫りました。

日本語教師を目指す原体験は「逆カルチャーショック」

ーまず初めに自己紹介をお願いします。

日本語教師の渡邉 萌捺です。現在は、横浜国際語学院で留学生に日本語を教える一方、日本メディア教育株式会社で、日本語を学ぼうとする外国人向けのe-ラーニング教材の制作に携わっています。

ー日本語教師になる以前は、JICAの青年海外協力隊にも参加していたと伺っています。海外や異文化への関心が強いんですね。

原体験としてあるのは、小学2年生の時にオーストラリアへ渡ったことでしょう。母がボランティアのために現地へ行くこととなったので、私も付いていったんです。

それ以前に英語を勉強していた訳ではないのですが、特に不安はありませんでしたね。海外に住む意味をあまり理解していなかったのだと思います。

ー現地の小学校に転入したんですよね?コミュニケーションに苦労することは無かったのですか?

皆積極的に話しかけてくれましたから、そんなことは無かったですね。オーストラリアの田舎だったので日本人が珍しかったのでしょう。子どもたちの気質にも日本との違いを感じました。

10か月ほど住んだのですが、その間特に困ることはなく、むしろ帰国後に逆カルチャーショックを味わったほどです。

ー逆カルチャーショックとは?

オーストラリアで通っていた学校はとても自由で楽しかったんです。生徒も少なかったので、学年を隔てず皆が同じ教室で授業をしていました。

生徒の興味を伸ばしてあげようという姿勢もありました。やりたいことがあり、その理由をしっかりと説明出来れば授業中に別のことをやっていても許されたんです。今日は読書に集中したいから授業は受けない、なんて子も居ましたね。

一方で日本の学校では、「みんなで同じ事をする」ことが多く、窮屈と感じることが出てきました。それ以前に日本に住んでいた時は気にならなかったのですが。

ー幼少期や学生の頃の話をもう少し伺っても良いでしょうか?特に好きだったことはありますか?

体を動かすのが好きで、バレエを習ったり、ダンススクールに通ったりしました。音楽も好きで和太鼓教室にも通っていましたね。

中学校にはダンス部がなかったので、音楽という文脈で吹奏楽部へ。高校では、やりたかったダンスに近い、チアダンスを選びました。

想えば、子どものころから目立つことが好きだったのかもしれません。高校では、友人の誘いに応じて生徒会にも参加しました。

言葉を扱う仕事で場所を選ばない働き方を

ー明確に日本語教師という職を選んだのはいつ頃のことなのでしょう?大学を選ぶ時から考えていたのでしょうか?

高校生の頃は将来何がやりたいか思いつかなかったんです。ただ、大学生になったら憧れていた横浜国立大学の「R3UDE」というダンスサークルに入りたいと思っていました。インカレのサークルでしたので、どこの大学へ行こうがあまり関係無かったんです。

最終的に大学を選べたのは、担任の先生のアドバイスに寄るものですね。将来漠然と英語を使った仕事がしたいとは話していたので、「今のうちから分野を絞って専門性を身に着けるか、他の言語も学んで強みを増やすと良いのでは?」と諭されたんです。分野を絞ることは出来なかったので、もう一つ言語を学ぼうと考え、外国語学部へ行きスペイン語を学ぶことにしました。

ただ、ほとんど勉強もせずにサークル活動に明け暮れていたので、留年して5年間大学へ通いました(笑)。

確かに、在学中に母の友人家族が住むフランスへホームステイしに行くなどして、異文化ならではの価値観や考え方の違い、生活スタイルに憧れを強めていましたが、就職を迫られる時期になっても特段日本語教師を志望していたわけではないんです。

ー就職についてはどのように考えていたのですか?

ハフポストという国内外の政治やビジネス、社会情勢を取り扱うメディアが好きだったので、そこの記者になりたいと考えたんです。それまでは、外に出ていくことで自分の価値観を豊かにしてきましたが、記事を読むだけで知らない世界に触れられて、価値観を豊かにできる感覚があったんです。それに「グローバルな視野を持ち多様性を尊重する価値観」と「個人の声や思いを拾い上げる」というスタンスにも共感していました。しかし、採用情報もなければ伝手もありませんでした。いろいろと探す中で、日本政策学校という政治塾にハフポストでの記事執筆という業務があると知り、何かきっかけをつかめればと思って、そこのインターンに参加しました。

実は、当初政治には全く興味が無かったんです。しかしインターンに参加してみると、興味が無いのではなく、知らないだけだったことに気付けました。ものごとを知らないことがいかにもったいないことであるか気付かされましたね。

今でも、何にでも誘いがあればチャレンジするようにしています。やってみた先に興味を惹かれるものに出会えるかもしれない。そう考えるともったいないですもんね。だから誰にでも声をかけてもらえるような、すぐに顔が浮かぶような、フットワークの軽い人でありたいと、いつも思っているんです。

また、インターンをしたことでハフポストにも記事を寄稿することが出来、一つ夢が叶った感覚がありましたね。また、その経験から記者やライターという言葉そのものを扱う職業に強みを感じました。どこでだって働ける可能性がありますからね。

その結果、日本語教師の道を選んだんです。英語やスペイン語も学んでいましたが、やはり最も強みを持てるのは自分がネイティブである日本語だと考え、大学卒業後に養成学校へ通い始めました。

ボリビアからスタートした日本語教師のキャリア

ー養成学校の卒業後、すぐ就職するのではなくJICAの青年海外協力隊に参加されたのはどういった想いからだったのでしょうか?

母には、就職してしまうと思うところへ行きにくくなるから、今のうちに行きたいところへ言っておきなさいとアドバイスをもらっていました。

あまり日本人が訪れないような国に行ってみたい、日本語教師としての経験を積みたいと考えてJICAに応募したんです。

本当はドミニカ共和国を希望していたのですが、実際に来たオファーはボリビアでした。1週間以内に返事をしなくてはなりませんでしたが、スペイン語圏であり、子どもたちと関われるという私の中の必須要件を満たしていたので、即決断しましたね。

ボリビアで過ごした10か月間は楽しさしかありませんでした。

ボリビアの人は自分の時間を大切にしているんです。南米最貧国とも言われますが、それはお金に価値を置いていないだけ。彼らの生活や心は日本に住んでいた私よりも豊かに感じました。

当時の私の任務は、現地の日本語の先生方の授業を巡回し、教授方法をアドバイスするというものでした。研究授業の一環として子供たちに直接教えることもありました。それでも、日本人として現地の子どもたちと触れ合い異文化の存在を伝えるだけで彼らに良い影響を与えられているのだという実感がありましたね。

また、現地の先生たちは、指導法だけでなく、授業に集中しづらい子たちをどうフォローするか、日本語を学ぶ意味をどう伝えるかにも悩んでいました。私もそうした問題に対処するプロではありませんが、余った時間を使って勉強し、学んだことを先生たちに共有することで、自分が提供出来る価値範囲を広げていました。

何かにチャレンジする時、「準備が出来ていないから」と二の足を踏む人も多いと思います。私の経験からそんな人たちに伝えられるのは、走り始めてからでも自分をパワーアップさせることが出来るということです。今自分が持っているものだけでも、求められる場所はあります。まずはそこに飛び込んでみることが大事ではないでしょうか。

ーボリビアでの経験は、日本語教師としてのキャリアに生かされていると感じますか?

ボリビアに行ったからこそ、日本語教師として自らに足りないものが何かを自覚することが出来ました。行かないままだったら、日々の授業に追われて、スキルアップを考えることも難しかったかもしれません。

また、派遣先の学校では日本語教師の先輩にも出会えたくさんのことを教わりました。特に高い技術を持ちながらも、勉強しつづける姿勢に驚かされ、自分も学び続けようという気持ちを維持できています。

それに、日本文化を伝えることの重要性を学ぶことも出来ました。教えてくれたのはボリビアの日本人移住地に住む人々です。彼らは日本の道徳観がボリビアでも価値があるものだと肌身で実感していて、日本にいる人以上に日本人としてのアイデンティティを大切にしているんです。ボリビアで学んだ日本の歴史や特徴も少なくありません。せっかく日系社会との関わりを得られたので、国内外で日系の方々の支援にも携われたらと思っています。

ー今後の展望を教えてもらえますか?

日本語教師としてのキャリアを確実に積んで、自分でものごとの優先順位を決められるようになりたいですね。

例えば、弟の成長を見守りたいんです。19も年の差があり可愛くて仕方ありません。授業参観も見に行ってあげたいし、運動会だって応援しに行きたい。でも仕事が優先されるような働き方をしていては難しいですよね。

他にも、日本では欧米ほど長期の休みが取れないことが当たり前になっています。そういう常識に縛られたくはないんです。自分が大切だと思えることを優先出来るための環境を自ら整えていくことが大事だと思っています。

喫緊では、日本語教師としてメキシコに行くことを検討しています。コロナによって渡航が難しくなってしまいましたが、日本語教師のメリットを最大限生かして、外国で学ぶチャンスも積極的に掴んでいきたいですね。

ーありがとうございました。渡邉さんの今後の活動を応援しています!

取材者:山崎貴大(Twitter
執筆者:海崎 泰宏
デザイナー:安田遥(Twitter