銭湯アイドル兼漫画家の湯島ちょこが語る、銭湯の魅力とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第321回目となる今回は、銭湯アイドル兼漫画家としてより多くの人にとって銭湯が身近な存在になるように活動されている湯島ちょこさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

小学生のころは陸上部で活動しており運動神経が抜群。加えて数多くの習い事をこなすというタフな生活を送ります。中学生のころには友人と交換漫画を始め、高校に上がってからは弓道にも打ち込む日々。高校卒業後は「漫画やイラストを描く学校に行きたい」と思い専門学校への進学を決意。そんな中、大切な友人を東日本大震災で失い、絶望しているところで偶然にも銭湯と出会います。そして専門学校に進学。在学中から漫画家のアシスタントやPR漫画の仕事をしています。また、「絶望の淵にいた自分を救ってくれた銭湯を守りたい」という想いから、銭湯を知ってもらうために銭湯アイドルの活動を始めたり、実際に銭湯の運営をしたりして現在に至ります。

幼いころから目まぐるしい日々を送っていた湯島さん。そんな湯島さんにとって人生の大きな転機かつ救いの手になったのが「銭湯」との出会いでした。その銭湯をもっと世に広め、守っていきたいとの想いで現在銭湯アイドル兼漫画家として活動する湯島さんが語る「銭湯の魅力」とは一体何なのでしょうか?

 

銭湯アイドル兼漫画家という仕事

ー本日はよろしくお願いします!現在のお仕事やこれまでの活動について教えてください。

漫画家銭湯アイドルとして全国の銭湯を回りつつ、銭湯やサウナ、温泉の紹介、そして銭湯絵師として全国の銭湯に絵がないところに銭湯絵を描くという活動しています。よろしくお願いします。

ー僕らがよく見かける、あの大きな富士山も描いているのですか?

そうですね!あの絵も書いているのですが、あれは基本的に関東の文化なので関東から外れるとあまりなくなるんですよ。だから大阪に行って銭湯に入ると無いこともありますし、その富士山の絵が無い地域の人に「銭湯って富士あるよね」と言っても、やはりアニメやドラマのイメージが強いんです。

ーえ!そうなんですね!そうすると絵がないところはただのタイルが貼ってあるだけですか?

ただのタイルが貼ってあるだけであったり、富士山っぽいもののタイル絵があったりです。大阪のように関西の方は結構タイル絵文化だったりするのでタイル絵で富士山が楽しめはするものの、私はペンキのあの感じが好きですね。

やっぱり今まで自分が好きだなと思ってきた銭湯の壁の絵がなくなるのは嫌だという思いもあって、関東以外の銭湯に入った時でもあの風景が見れるように銭湯絵の活動もしています 。

 

陸上、水泳、習い事。目まぐるしい幼少期

ー幼少期はどんな風に過ごされていたのでしょうか?得意不得意や好き嫌いなど記憶に残っていることはありますか?

小学生の時は、基本的に運動と物を作るのがすごく好きで、それ以外の教科はだいたい駄目でした(笑)。 教室で授業を受けるというのが本当に苦痛で。だからもう休み時間になるとだいたい飼育小屋に行って動物に触れて癒されていました。何にそんな精神をすり減らしていたのか、そこまで苦痛だったのかなと思うのですが、本当に嫌で。その一方で運動はすごく好きで得意でした。

ーその頃の運動はクラブに入ってしていたのですか?

小学生の時から部活があって、陸上部に入って長距離の選手をやっていました。

ー一般的には中学生ぐらいから部活が始まるイメージですけど小学生の頃からあったんですね!中高の部活のような感じだったのでしょうか?

そうですね。珍しかったような気がします。部員もそこそこいて、練習は朝の時間帯にあって夕方にはなかったです。だから朝礼始まる時にはもう汗を流した後でしたね。今思えばよく行っていましたよね。朝起きて走って授業を受けるなんてすごいです(笑)。

ー他に水泳もやられていたとか…?体力が物凄くあるイメージですが、ご家族の中に運動神経良かった人っていらっしゃるのですか?

はい。水泳部も結構な距離を泳いでいて。たぶん800mですかね。全然選手が出てこないような長い距離を泳ぐのが得意でしたね。

タフさしか自分にはないんじゃないかと思うぐらい当時体力がありましたね。小学生の頃はたぶん周りの男の子より足が速かったです。だから化け物って言われるほどで、ドーピングしてんじゃないのかとも言われましたね(笑)。

父方の祖父が運動神経が良かったらしく、その遺伝の可能性はあります。ただ、このタフさにはもう1つ理由があると思っていて。幼稚園生の時に弟が生まれたのですが、これまた幼稚園まで結構距離があったんですね。それに加えて自転車の後ろの席は1人用だったので私は走るしかなく、その長い距離を自転車と同じ速度で毎日走らされていたんですよ(笑)。「弟はさすがに走らせられないからあなたは横を並走してね」って自転車と一緒のスピードで毎朝10分から20分は走っていましたね。その頃から高校生ぐらいまであった異常な体力と足の速さは、この自転車の横を並走させられた毎日があったからだと思います。

ー習い事もかなり多くされていたのとことですが、やはり親御さんの勧めですか?

結構色々やっていました。習字、水泳、新体操など。ピアノも一瞬に習わされて嫌で辞めて。多かった気がするものの記憶がないんですよね。嫌すぎて(笑)。あと公文も行っていました。当時は学校が終わったら大体すぐ習い事に行かないといけなくて急いで帰っていました。それから公文はその日に1日行くんじゃなくて宿題があるんですよ。だから公文の宿題をやる日で他の予定も埋まるという。「なんかすごい忙しくない?」みたいな。ハードな小学校生活でしたね。

親が習い事をさせるのが好きだったのですが、私もやるかやらないかの意思決定は託されたはずなので、やると言ったのは最終的に私だったと思います。でも気づいたら、そんなに習う?という数になっていました。

ー何でも一旦やってみようというような感じでいろんなことに興味関心を持たれるタイプなんですね!

「どうせならやるだけやってみよう」というところがあったんでしょうね。ただピアノだけは合わなかったですね(笑)。音楽の才能がなかったです。だけど曲を作るのはその当時から好きで、ボイスレコーダーに作った曲を入れたり、ピアノを弾ける友達と一緒にこういう曲を作りたいと言って曲を作ったりしました。これも小学生くらいの時ですね。

ー小学生のころからとは!そのころ何かに影響を受けたのですか?

何で作っていたのか全く分かっていなくて、作った結果何が起きるのかも全く考えてなかったです(笑)。でも、音のようなものが浮かんでくるので「ちょっとこの曲をどうにかしないと」というのはありました。ストレスが溜まったら歌うこともありましたね。そういうので曲は小さい時から作っていました。

ー小さい時から湧き出てくるものを何かしらに表現したり外に出すことをされたりしてたんですね。

そうですね。 小さい時から物を作るのがすごく好きでした。

 

「漫画やイラストを描ける学校に行きたい」迷わなかった高校卒業後の進路

ー多くの人にとって中高での受験は大きな出来事だと思うんですが、特に高校はどんな風に選ばれましたか?

高校はすごく覚えていますね。私は小学生中学生とバケモンと呼ばれて生きてきたので、男子からとてもいじめられて、凄い嫌がらせをされたんですよ。物もすごくなくなったり、作品を作って賞を貰ってもそれがすぐなくなったりと結構大変でした。だからせめて男子がいない学校に行きたいと言っていました。あと弓道がしたかったので弓道ができる学校がいいというのを親に言って、親が弓道ができる学校を紹介してくれたのでそこに通おうと決めました。

ー弓道も!それは中学のころからやられていたのですか?どういうタイミングで興味を持ってどういうところに惹かれたのでしょうか?

いえ。本当は中学の時に弓道部に入りたかったんですよ。でも中学校に道場がなかったんですよね。中学校の時は水泳部でした。高校はやっと念願の弓道がある学校に行けたので弓道をやっていました。

もともと弓道というスポーツがあることは知っていて、袴をはいて弓を引いているのがすごくかっこよかったので、このスポーツをやってみたい!と思っていました。やっぱりめちゃくちゃかっこいいんですよ!袴をはいて弓を引く自分を想像したらテンションが上がって「これやりたい!これやりたい!」となっていました(笑)。

それから、弓道自体はすごく楽しかった一方で、弓道部は古いしきたりがある謎の部でした。変な部活の規則がたくさんあってすごく厳しかったですね。ちなみに他にも不思議な伝統がある謎の部はありました。先輩との上下関係も厳しくて、そんな上下関係のように非効率なしきたりとかが苦手ですごく苦しみましたね。

みんなも首をかしげながら何の意味があるんだろうねと思いつつ適応していました。例えば、先輩の前で笑っている顔を見せてはいけないというのがあったのですが、先輩は笑わせてこようとするんですよ(笑)。そういう伝統といろんな矛盾があるような不思議な部でした。

ーそうだったんですね…!そんな高校時代には既に絵を描く友達がいらっしゃったとのことですが?

そうですね!高校の時には携帯を持っていて、その時ぐらいからネットのサイトに登録して友達と一緒に絵の交換のように、絵で交流することを結構やっていました。大体学校に居場所がなかったので、そうやってネットの絵を描ける友達と一緒に絵の話をしたり、こういうのを描いたよと言ってその絵をあげて交流したりするというのが主でした。そこがある意味生き甲斐になっていましたね。

ー人やキャラクター、風景など様々なものがある中で、当時はどんな絵を書いてたのでしょうか?

当時はいろんなキャラクターをめちゃめちゃ作っていましたね。オリジナルのキャラクターを作ってそのキャラクターを描いたり描いてもらったりとかして。その友達の持っている世界の方に遊びに行かせたり、自分の持っている世界に友達のキャラクターを持ってきてコラボしたりして遊んでいましたね。それをネットでやっていました。

ーまた、別の学校の友達と交換日記ならぬ交換漫画をしていたとのことですが、それは当時周りでやっていて「いいな、私もやろう」という感じだったのですか?

いえ、周りでやっていたのではなく自分たちで始めたものでしたね。中学生の時に絵が上手い人がいるというのを教えてもらって「あ、本当に絵が上手い子だ」と思ったのがきっかけで交換漫画を始めました。

その子は同じ学校でクラスが別だったのですが、手紙で世界観やキャラクターの設定を考えて、最終的にノートに3ページずつ毎週お互いページを更新していってというのをやっていました。

高校に上がってからはさすがに毎週3ページずつはできない時もあったのでたまに遅れることはありました。別の学校だけど、交換日記ならぬ交換漫画という形で話を進めていました。楽しかったですね。

ーなるほど…!交換漫画は交換日記をしているような感じでコミュニケーションを取れるんですかね?

自分が作ったキャラクターと相手が作ったキャラクターがコラボしている世界があるので何だか面白いんですよね。交換日記はあったことを書くけど、交換漫画はいろんな事が起きるので、お互いに相談しつつ「次はどうする?」といったことを言いつつ、ある程度自由にさせてもらいつつ。ある種交換漫画があるから、続きが楽しみだから頑張れるという感じの生活をしていましたね。

ーそういうこともあって絵を描くというのがここからだんだん湯島さんの身の回りにキーワードとして強くなってきているんですね。そんな中で高校卒業後の進路はどのように考えたのでしょうか?

親的には「いい大学行った方が安定じゃない?」と心配はしてくれていて。でも自分にとっていい大学行けるかというのもありましたし、いい大学に行った先に幸せになれるかというのがあって。いい大学に行くに越したことはないですが、「その先にやりたいことはなくない?」と思ったんです。

その一方で絵を描くのはずっと好きでしたし、漫画やイラストを描く学校に行きたいという話になり行くことにしました。割と迷わなかったですね。

ーなるほど。実際に通った大学はどんな人が通われていたのでしょう?また、どんなことをされていたのですか?

イラストや漫画を描く学校に進んだのですが、みんながみんな「絶対絵で食べていくんだ」とか「アーティストになりたいんだ」という感じではなかったんですよ。割と「絵をなんとなくふんわり描けたらいい」「学校には進まなきゃいけないから何となく進んでみた」という人が圧倒的に多くてちょっとびっくりしましたね。

ーやっぱりその年で専門の道に歩み出そうと思う人って、その先それで食べて行こうという人がいるんだろうなというイメージをしますよね。

そうですよね。自分も大丈夫な身ではないのに、この子達大丈夫かなみたいな。こんなふんわりしてていいんだと思ってびっくりしましたね。

ーいざ行ってみたら想像と違う世界というか、ギャップを感じられたと思うのですが、そのギャップとはどのように向き合っていったのでしょうか?

専門学校に関しては好きなもので集まっている人達なので、特に争いごともなく。人を攻撃するような人もいなかったですしね。そつなく仲良くできて比較的穏やかでした。

それから、この時ぐらいに漫画のアシスタントの仕事に行ったり、PR漫画の仕事をもらうことがあったりしたので、この頃からPR漫画を描いていました。この時期はPR漫画が流行っていないというか、漫画の仕事として認められていない時期でしたがよくやっていましたね。

 

親しい友人の死。絶望の淵での銭湯との出会い

ーそろそろ銭湯との出会いが近づいてくると思うのですが、どんな時に銭湯と出会ったのですか?

銭湯と出会ったのは、18歳の時、まだ大学の学校見学をしている頃ですね。

当時交換漫画をしている人とは別の人で、ネットで相談をしたり、絵の交換を葉書でしたりする友達がいたんですよ。でもその頃に東日本大震災が起こって、その子と震災の後に連絡が取れなくなったんです。ちょうどその子は宮城県の石巻に住んでいた子で。最初は携帯の調子が悪いのかなと思っていましたが、よくよく考えたらそういえば石巻って津波が酷い地域だったなと。そしてその日から更新がなくなったんですよ。もしかして死んじゃったのかなと思って、すごく寂しかったのはよく覚えています。

ーそれはお辛いですね…

絵を描くのも好きだったし、悩む必要もなかったのかもしれないのですが、本当に今まで生きてきた中で人と馴染めないことが本当に苦痛でした。人の顔色を伺って足を遅くしたりしようとか、ちょっと目立たないようにしようということはできないし、機嫌をとることもできないし、そんな器用さもなかったのでそういうのがちょっと苦しくて。散々バケモンとも言われ続けてきたので異性とも別に仲良くすることもなかったですし。家庭も家庭で結構ぐちゃぐちゃになっていたので、家にも学校にも居場所がなくて本当に息苦しかったです。そんな中ネットで相談をしてた友達もいなくなってしまって。

そうして生きるのが辛くなって死のうかなと思った時に、偶然銭湯の煙突を見つけて、急に死ぬ前にお風呂に入ろうかなという気分になったんですよ。そしてその銭湯で入り方が分からなくて困っていたら、知らないおばあちゃん達が「初めてなの?」という感じでたくさん気にかけてくれたんです。知らない人なのに石鹸をくれたり他にもお世話をしてくれたりとか。とにかくおばあちゃん達がすごく優しかったんです。

ーそんなことがあったんですね。

スーパー銭湯とかには行ったことがあるものの、下町の銭湯に行くことは今までなかったんです。生まれて初めて行ってみたら、こんなに人が喋りかけてくれるんだと思って。本当にその時落ち込みすぎていて人と喋れるような状態ですらなかったのですが、こんなに喋りかけられるの?という新鮮さがありつつ、喋ることによって少し気が晴れたんですよね。

そして私の落ち込んでいる様子を察してか、湯船に入っているとそのおばあちゃん達が天気の話以外にも、自分たちの暗かった話を笑いながら話すんですよ。「旦那さんが亡くなったけど元気にやっているわ」「自分達が生きていればいいよね」というような感じで。でもそれって笑ってする話じゃないよねと思いながら。そんな暗くて人生の一番辛いところを経験しているような人たちがこうやって笑って喋っている湯船っていいなと思いましたし、今は自分の生きている意味が分からなくて苦しいけれど、それでも将来笑い話にできたらいいし、今死ななくてもいっか、という気持ちになれました。

ーなるほど。そこからだんだん今の活動に繋がっているのですね。

はい。それで踏みとどまったのがあり、銭湯っていいかもと思っていた時に、「若い子珍しいね」とお店の人から声かけられたんです。それから、今銭湯がどんどん無くなってきているから来てくれると嬉しいよという話をしていただいて。でもそれを聞いた時にこんなにいい所がなくなっているんだという衝撃とショックを受けました。だって自分はここに来たことによってすごく救われたし、無かったら死んでいたかもしれないぐらいだったのにと思い、こんな素敵な経験をさせてもらった場所がなくなっているんだったら何かしてあげたいなと思いました。

やっぱり無くなってほしくないですし、自分と同じような心境の人がいっぱいいると思ったんです。降りた駅も自殺者が物凄く多い地域だったので普段はここで飛び降りする人がたくさんいる。だけど自分は銭湯に行って救われた。こんな風に今銭湯があることによって救われる人がたくさんいるから、自分は銭湯の紹介や銭湯がなくならない仕事をしたいと思い、銭湯の漫画を描いたり銭湯アイドルとしての活動を始めたりしました。

ーそういう経緯があったんですね。ちなみにそこからは自分で色々銭湯行ってみようかなという風になり始めたのですか?

銭湯に色々行ってみようかなという風になりましたし、 銭湯の近くに住みたいなと思ったんですよ。そしてその後くらいに家を出て銭湯の近くに住み始めて、日常的に銭湯行くという生活を始めましたね。

ーそれは部屋を借りて1人暮らしという感じですか?

そうですね。ちょうど学校に行かないといけないのもあったので、学校に通うという口実で銭湯の近くに住み、近所の銭湯に行きながら生活していました(笑)。

 

「誰かの心の温まる場所」なのが銭湯の魅力

ー現在も含めて、これまでどんな風に銭湯をキーワードに活動をされてきたのですか ?

今までは「まずは銭湯を知ってもらう」ところから始めようという活動していました。銭湯をいっぱいはしごする「オフろう会」というものを使ってファンと一緒に銭湯を巡ったり、メディアに出たりしていましたね。

他にも、親しんでもらえるように何か別のものとコラボしたほうがいいんじゃないかとも考えました。やっぱり銭湯に興味がない人は銭湯の話をしても聞いてくれないですし、そこで押し売りしてもしょうがないんですよね。

だけど「銭湯=いいもの」というのは分かり切っているし、みんながこれを知ることで幸せになってほしいなと思っていたので、みんなが好きなものに合わせて銭湯を紹介できたらなと考えました。その結果、ボードゲームを作ってみたり、アイドルというコンテンツだったら興味を持ってくれる人がいるんじゃないか思い、銭湯アイドルの活動を始めたりしました。

そうやって今までは既にユーザーがいる層に向かって銭湯というものを紹介する活動をしてきたのですが、今は銭湯をみんなでやるという段階に入っていて、若い人たちだけで銭湯を回し、今なくなってしまいそうな銭湯を守ろうという活動をしていますね。 

 ーなるほど。そういう活動をされているんですね!

今はもう銭湯で働き始めていて、釜の仕込みや配管の整備、夜中の掃除などもしていますね(笑)。

ー湯島さんの他にも若くて銭湯がお好きな方が働かれているのですか?

私みたいに銭湯がなかったら死んでいたという子はもう1人います。その子はうつ病で苦しんでいたんですけど、その時銭湯との関わりで助かったんです。たぶんその子は私と似ていますね。あともう2人は銭湯がなんとなく好きというところがあるものの、なんとなく好きではできないハードワークをやっているので、一緒にできて嬉しいなと思っています。

ー好きなものの裏側は楽なことばかりではないと思うのですが、銭湯の裏側も見てきた湯島さんが思う「銭湯ってやっぱり素晴らしいな」と思うポイントにはどんなものがあるのでしょうか?

全部が全部すごく魅力ですね(笑)。だけれど、その中でも「誰かの心の拠り所になれる場所」というのがすごいと思うんです。それが湯船だったり、ある種そこにできたコミュニティーだったりもするんですよ。以前好きな銭湯に行った時、お店のロビーにおばあちゃん達がいたのですが、このおばあちゃんはお風呂から5分10分で出てきて1、2時間ぐらいロビーでずっと喋ってるんです。「私はここに話をしに来てるの」って言って。でもそれは家に誰も話す人がいないからなんですよね。だからもしこの銭湯がなくなってしまったらどうなるんだろうと。

そういうどこにも居場所がない人の拠り所になれる場所でもあるので、そんな施設はとても素敵だなと。お風呂に入るという目的ではなく、「誰かの心の温まる場所」なのが銭湯の魅力だと思います。

ー「温まる」にも色々あるんですね。お話を聞いているとますます守るべきものだなと伝わってきます。この温かさって家にも会社にもない感覚がありますよね。

「お風呂に入るのであれば別に家でよくない?」とは言われますね。いろんなスキンケアとか一式を置いているわけだからそれを持って銭湯まで行くのは確かに面倒くさいですし、やっぱり便利さ的に家のお風呂で済ませたいという気持ちもあります。

だけど、銭湯は便利か否かではなくて、無くしてはいけない場所なんですよね。温泉があるわけでもサウナがあるわけでもないけれど、そこに来ることによって助かる人や、そこを拠り所にしている人たちがいるわけですよ。それを思うと、銭湯が無くなることがどれだけ絶望的なことなのかと。

ーこれまで銭湯の数がどんどん減ってきましたが、最近は若い人も銭湯やサウナに興味を持ち始めているので流れは確実にきているような気がします。

そうですね。今までは散々「お年寄りの趣味だ」「温泉ないのに何で行く意味あるの?」「サウナとか何で行くの?」といった感じでずっと言われ続けてきましたけど最近流行ってきましたね(笑)。

だけど今「時代はサウナだよね」「銭湯いいよね」と言って若い人たちが行くの見ると「なんだこの変な感じは?自分が銭湯を好きになった10年前と比べると全然違う」と。今まで散々虐げられてきたのに急に受け入れられてとても嬉しい気持ちと、もっと早くそうなってくれていれば無くならずに済んだ銭湯もたくさんあったのになという複雑な気持ちがあります。

それでも、やっぱり若い人たちが好きだと言ってくれると、その人たちが今後新たな銭湯を引き継いだり、銭湯の支えになったりしてくれる人になるのかなとも思えてすごく希望があるんですよね。

ーこれまで決して追い風とは言えない状況の中で、何が活動を続ける支えになったのでしょうか?

「銭湯は絶対に良いものだ」と信じ切っていたところがあると思います。「これは絶対良いもので、みんなが入ることで絶対幸せになれるものだから、みんなに知ってもらいたい」「お風呂に入るという意味を抜いても、この場所は無くしたら多分生きていけない人がいるくらいの場所だ」という風に信じて止まなかったんですね。

だから活動を続けてこられました。そしてこれから先、過去の私のように絶望の窮地にいて生きていく気力もないような人たちがきっとここに来ると思うんです。そんな時、やっぱり銭湯は何か救われたり変われたりする力のある場所だから無くしちゃ駄目だとずっと思っていました。

ーものすごく今銭湯に行きたいです(笑)。ちなみに今後の活動のイメージや展望などはありますか?

今はもう銭湯をやる!となっているので、自分たちの銭湯の集客数をどうにかして増やしたいですね。近くに大きくてスーパー銭湯並みのハイスペック銭湯があるのですが、私が本来好きだった銭湯はそういうものではありません。誰かの心の拠り所になれて誰かの人生を幸せにできるような、そこがあったから自分は今すごい幸せに生きているよ、という風になれる銭湯をみんなで作っていけたらなと思っています。

ー銭湯が好きでよく利用するだけでなく、働き手として裏側も見てきている湯島さんが作られる新たな場所を楽しみにしています。最後にU29の世代にメッセージをお願いします!

私がやっている銭湯だけではなくて全然いいので、苦しいことや悲しいことがあった時に1人で悩んで絶望しないでほしいです。U29の方々はすごく展望があったり頑張っている方々がたくさんいらっしゃると思うので、息詰まることも大きい壁にぶつかることもあると思います。だけどその時に誰かと繋がれたり、絶望の淵から救ってくれたりする温かい場所があるので、よかったら近所の銭湯に行って、大きいお風呂に入ってリラックスしてみて、また新しい時代を作る担い手になってください!

ーみなさんこれを機に銭湯に行きましょう!(笑)。 湯島さん、本日は素晴らしいお話をありがとうございました!今後の更なるご活躍を楽しみにしています!

取材者:山崎貴大(Twitter
執筆者:庄司友里(Twitter
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter