「悩みを解決して、幸せを増やしたい」ゴリゴリの営業マンだった梅本匠が、サービス開発に向き合うワケ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第94回目のゲストは結婚指輪のオーダーメイドサービス「memoring」CEOであり、株式会社LIVESTAR経営戦略室室長の梅本匠さんです。

現在、事業主と業務委託という働き方のミックスで、プロダクト開発・事業グロースの両側面にチャレンジしている梅本さん。経歴を見ると、「ゴリゴリのビジネスマン」に見えますが、彼が働く意味の先には、「世の中に幸せを増やしたい」というシンプルな優しさがありました。

 

結婚の悩みが、サービス「memoring」の誕生に

ー本日はよろしくお願いします。まずは、現在の梅本さんのお仕事を教えてください。

梅本匠です。海外インターン、株式会社メタップス、ライブ配信プラットフォームを提供する株式会社17 Media Japan、そしてスタートアップと4社を経験した後、フリーランスになりました。

現在は、ライバー事務所を展開する株式会社LIVESTARの経営戦略室室長を務めています。LIVESTARはエンターテインメント事業のエイベックス株式会社の子会社で、プロダクション事業を有する会社です。簡単に言うと、ライブ配信プラットフォームに、配信者を輩出しています。私の仕事は経営企画です。実際のところは「何でも屋」で、事業の足りない部分を網羅的に担っています。

また、事業主として「memoring」というサービスも提供しています。memoringは、オンラインでヒアリングを行い、オーダーメイドの結婚指輪デザインを制作できるサービスです。結婚指輪を作りたい人と、ジュエリーデザイナーのマッチングが可能、とイメージしてもらえれば分かりやすいのではないでしょうか。

 

ーライブ配信ビジネスと、ジュエリー事業。全く別の二軸が梅本さんの現在の柱となっているのですね。どのようなバランスで働かれているのでしょうか?

LIVESTARが6割、memoringが4割、という配分で働いています。memoringは事業フェーズとして、100%コミットして動くようなフェーズにないことも起因しています。

 

ー梅本さんは26歳のときにご結婚されたそうですが、そのときの体験などがサービスの誕生につながっていますか?

 

そうですね。結婚指輪を作ろう、となったときに、全く身につけたいと思える指輪と出会えなかったんです。そこで、ジュエリーデザイナーに依頼したところ、自分好みの指輪を手に入れることが叶いました。しかも、既製品を購入するよりもずっとリーズナブルでした。自分が抱えた悩み、そしてそれが解決した体験からサービスの構想が始まりまったんです。

memoringの創業に至るまで、プロダクト開発に携わったことはありませんでした。そのため、日々勉強しながらサービスと向き合っています。結婚指輪は大きな買い物ですから、知らないブランドから購入するということがお客様には高いハードルに感じられるようです。なかなか難しいですね。それでも、「memoringはいいサービスですね」という声もいただいています。

 

「困っている人を助けたい」被災地で感じたこと

ーご自身の悩みが、新しいサービスの誕生を促したんですね。他のお仕事もそのようなきっかけで関わっていらっしゃるのでしょうか?

自分の悩みにとどまらず、私の仕事に対する姿勢の根本には「困っている人を助けたい」という気持ちがあります。大学時代のボランティア経験が、その土台にあるんです。

 

地元にある神戸大学へ進学したのですが、志望していた経営学部への入学が叶わず、あまり興味が湧かない国際文化学部の学生になりました。やりたいことと全く違う環境に、かなり迷走していましたね。

大学には同じようにくすぶっている人もいて、友人になりました。その人が、「東日本大震災のボランティアに参加しないか?」と誘ってくれたんです。私が入学した年は2011年。東日本大震災発生直後でした。東北でのボランティア活動が活発化しており、また、もともと神戸は阪神淡路大震災を経験していることからボランティア精神が熱い土地なんです。

 

ー被災地へ足を運んでみて、どのように感じられましたか?

テレビ越しでの感じ方とは、全く異なりましたね。「被災者」と一言で紹介されてしまいますが、そのひとりひとりと言葉を交わし、改めて、被災地が直面している課題の大きさを実感しました。それが分かっても、なにかができるわけでもありません。ただただ、被災された方々のお話を聞くだけでも、価値になればと活動していました。

 

その中で、ボランティアを行う学生団体の組織の弱さの方が気になるようになりました。ボランティアをしたい生徒を募って被災地へ送り込んでいたのですが、そのオペレーションがそのうち崩壊しそうだと危機感を抱いていたんです。

学生団体といっても、神戸大学自体も運営に関わっていて、国から助成金をいただいてのボランティア活動が可能でした。大学単体でやるよりも、学生と提携しているプロジェクトだと見せることが、大学にとっても助成金を申請しやすいというメリットがあったんです。そういうこともあって、担当の先生が「梅本、お前の名前を代表にしておいたぞ」と。

 

ーえっ、勝手に代表にされていたんですか?

はい(笑)そういったことに推されて、2年生のときからボランティア団体の代表として活動することになりました。最初は大変でしたね。私はゴリゴリやるタイプなので、ウマが合わないと判断されたのか、一気にメンバーも辞めてしまって(笑)

そうでなくても、大学内の団体は必ず4年周期で人が入れ替わりますよね。そういった部分で、大学も運営に関わっていたのはプラスに作用しました。先生などが継続的に関わっていることで、文化の継承がスムーズになったと思います。

のべ、1,500人以上を岩手県の陸前高田市に派遣することができました。

 

ー1,500人!素晴らしい功績ですね。代表就任時には離れたメンバーもいらっしゃったのに、結果として成果を収めた要因はなんでしょうか?

ゆるく関わるメンバーも歓迎したところでしょうか。年に1回、会議に出席するだけでもメンバーだと認識していました。関係者を増やす、ということは意識していましたね。

また、一度被災地へ足を運ぶと、その人の胸の内に熱量が芽生えて、「また行きたい」と思ってくれるんです。その気持ちは「ボランティアがしたい」というよりも、「あのプレハブに住む人とまた会いたい」とか「あのおじいちゃんと、またお茶が飲みたい」という、「会いたい誰かの存在」が被災地にできるという体験が大きな影響でした。

そういった印象的な体験や、被災地で目にした強烈な風景は、大学へ帰ってきても絶対に誰かにシェアしたくなる。そして「今度は一緒に行こうよ」と自然に巻き込んでくれました。この巻き込み力の強さが、ボランティア団体の強みであり、多くの人が参加するプロジェクトとなった要因です。

 

過酷な海外インターン

ー大学生活を捧げてボランティア団体の活動に情熱を注がれたようですが、4年次には休学をしているそうですね?

休学をして、フィリピンへ行きました。事の発端は、就活中のメンターに、「金を生み出せる匂いが全くしない」と言われたことです。それがショックで、でも、反論できる証拠をひとつも持っていませんでした。ちょうどその頃、本を読んで「海外インターンをし、その経験で就活をハックしろ!」という考え方に出会いました。「これだ!」と思って、休学をして海外インターンをすることにしたんです。

 

ーどのような会社で海外インターンをご経験されたのでしょうか?

日系人材紹介企業のフィリピンマニラ支社に入ることができました。職種は営業です。企業の開拓をしていたのですが…とにかくしんどかったです。そもそも、フィリピンに進出している日系企業は1,000社程しかなく、母数が小さい。その上、すでに先輩社員が使い回したリストが渡されるので…。テレアポの件数が足りなければ、飛び込みでの営業もしていましたね。

そこで、半年ほどインターン経験を積みます。当時はお金もなかったので、スラム街のようなところで暮らしていました。現地の子ども達が、家の周りを鉄パイプもって走り回っているのが日常風景でしたね(笑)過酷でしたが、振り返っていい経験だったなと思います。

いきなりITや仕組化を考える職種ではなく、個人でどうにかして戦わないといけない、しかも逃げられないという環境下にいたことで、相当鍛えられました。

 

「最後は営業」先輩社員に学んだこと 

ー新卒入社でメタップスを選ばれましたが、この選択はどうしてでしょうか?

個人の力で戦う、という経験が糧になったのもの、実際のマーケットのトレンドとは逆行していると感じていました。連続的な成長が可能な環境へ身を置かないと、キャリアを伸ばしていけないと思ったんです。

メタップスはちょうど上場をしたタイミングで、勢いもあったことから、「この会社だ!」と惹かれて、すでにいただいていた内定を辞退して入社しました。

 

ー実際に入社をしてみて、どうでしたか?

上場したての会社は大変でしたね。それまでは売上を伸ばす部分に注力していたのが、組織体制や利益率の改善も求められていました。私が配属された部署は、マーケティング部だったのですが、先輩社員は全員、大手企業の営業経験者。「どこまでいっても、最後は営業」ということをそこで学びました。

先輩たちがあまりに優秀だったので、海外インターン経験でついた自信はすぐに潰れてしまいましたね。コンサルティング能力を要しますし、事前知識の量も膨大なため、最初は全く売れませんでした。入社して3か月は苦しんで、そこから受注、手順が見えてきたことで突破していきました。

 

トレンドに乗って、キャリアを伸ばす

ー1年半の在籍期間を経て、その後、2社目に転職されていますね。どういったきっかけですか?

ハードワークで体調を崩していたこともあって、元上司でヘッドハンティングをされている方に転職の相談をしました。「伸びる業界へ行くべきだ」というアドバイスと、「ライブ配信プラットフォームの17LIVEが日本に上陸するから、そこへ行け!」と言われて、株式会社17 Media Japanへ転職しました。

IT業界の最前線で活躍されている方って、総じて「トレンドに乗って、キャリアを伸ばした」という特徴がありました。「前の波に乗っていた人が、今のトップ層にいる。次に上へ向かうには、今、どの波に乗るべきか?」と考えたとき、それがライブ配信でした。

 

ー17LIVEでは、どのようなお仕事をされていたのでしょうか?

業務としては営業に近く、ライブ配信者の開拓です。芸能プロダクションと組んで、ライブ配信者の育成も行っていました。売上をのばすためのフローを構築し、どのように教育していくべきかを提案して…前職のコンサルティング要素が活きましたね。ドアノックからクロージングまで、営業のフォーマットを作り上げられたことは、成果として挙げられるのではと思います。

在籍期間の1年で、売上は約60倍になりました。ものすごい成長速度ですよね。マーケットの拡大が、スタートアップの成長には不可欠なんだと実感しました。

 

悩みを解決して、幸せを増やしたい

ーその後、スタートアップ1社での経験をはさんで、独立にすすまれますが、どのような心境の変化があったのでしょうか?

その会社では、プロダクトに関わりたくて転職したのですが、そのプロダクトがユーザーと向き合っていないことに違和感を抱いていました。マーケットを支配しているのは、消費者です。そこにどれだけ寄り添えるか。ユーザーの方を向いていないサービスは伸びません。

そのことで、社長とよく議論に発展していました。結婚をするまで、私は鉄砲玉のような性格で、とにかく思ったことは口に出さないと気が済まなかったんです。それでメンバーとぶつかることは、それまでの会社でもままあることでした。

一見して対等に意見を言い合っているようですが、社長と私だと、とっているリスクが違います。私はリスクもなく、文句を言っているだけだったな、と。「リスクをとることで、あの時の彼らの気持ちを理解できるかもしれない」と考え、独立を決めました。

 

ー梅本さんは一貫して、体験から語ろうとする誠実さがありますね。フリーランスを経験してみて、どのように感じていますか?

気が楽だな、というのが、正直なところです。自分の方針と違う案件は断っています。被雇用者だとそうはいきませんよね。収入がやや安定しない部分はあるものの、自分のやりたいことを貫けることに、やりがいを感じています。

有名なシリコンバレーの投資家のポール・グレアムの言葉に「Make Something People Want」というものがあります。実際は、人が求めているものを世に送り出すって、めちゃくちゃ難しい。それを痛感していて、だからこそ、周りの働く人々や会社へのリスペクトは増していますね。

 

ー梅本さんの今後の展望を教えてください。

困っている人がいたら助けたいと思いますし、自分になにができるのかを考えます。「どうすれば人の悩みを解決できるだろうか」その視点が、サービス作りに活きています。いつか、みんなが使うサービスを世に送り出し、幸せになったよねと言ってくれる人を増やしたいです。

 

ー梅本さんのユーザー目線の仕事姿勢は、参考になります。本日はありがとうございました!

 

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取材:西村創一朗(Twitter
執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter