PTSDを乗り越えCOOに!カンボジアで日系飲食企業を経営する野村友彬に学ぶ、チャンスに飛びつくことで変わる未来

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第354回目となる今回のゲストは、カンボジアにあるFOOLAB CO., LTDでCOOとして活動している野村 友彬(のむら ともあき)さんです。

割烹で約3年間修行し、大将からの厳しい指導からPTSD(以下、鬱と呼ぶ)を発症。約1年半の療養生活後、ジャパンハートカンボジアでのボランティア活動期間を経て、現在の会社に就職します。そんな野村さんが、人生に立ちはだかる壁にどのように向き合い、乗り越えてきたかをお伺いしました。

暴力・鬱・療養生活……。知らず知らずのうちにすり減っていた “心” 

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

カンボジアにある日系の飲食企業「FOOLAB CO., LTD」でCOOをしている、野村友彬と申します。割烹での修業、カンボジアへの渡航、医療系団体「ジャパンハート」での事業立ち上げを経て、FOOLAB CO., LTDに就職することになりました。

ーまさにユニークなキャリアですね。本日は、野村さんの人生をさかのぼり、今の野村さんが形成された経緯を伺えればと思います!学生時代はどのように過ごされていましたか?

野球の推薦で高校に入学し、寮生活をしながら甲子園を目指していました。

プロを目指していましたが、入学してすぐの夏の大会で、他校の子たちが自分のチームのエースからホームランを打つ姿を見て、野球ではやっていけないと判断しました。

ー早いタイミングでの決断ですね。

圧倒的な差があったので悔しさもなく、「こんなんあかんわ、無理やわ」とさっぱりした気持ちでした。その後、父親がケーキ屋をしている影響で料理の道へ進むことを決断し、専門学校へ入学しました。

ー専門学校でどのように過ごされたのか教えてください。

入学後すぐに就職活動をしなければいけなくて、専攻は和食を選びました。初めてのバイト先で可愛がってもらいそのまま就職したのですが、就職した途端に大将が豹変して。頻繁に暴力を振るうようになったのです。

ただ、高校野球で先輩からのいびりに耐えてきたので忍耐力がついていましたし、父親から「修行っちゅうのは厳しいもんなんや」と言い聞かされていたので、耐え続けていました。

ー「こういうものだ」と受け入れていたのですね。

そうですね。比較対象がなかったので、良いか悪いかの判断もできませんでした。お店を辞めたのも、ある日喉を殴られたことでご飯が食べられなくなり、そのことを兄にぽろっと言ったことがきっかけです。

父親に言ったら「甘えたこと言うな」と言われる気がして、両親には秘密にするよう伝えたのですが、兄が心配しすぎて言ってしまって……。するとすぐに父親から電話がかかってきて、「お前なんでそんなところで働いてんねん」と言われました。

「え、これあかんの……?これがあかんかったら、あれもあかんの?」と、いろんなことがダメだったのだと気づいて、次の日に退職し、久しぶりに実家に帰りました。

玄関のドアを開けた瞬間、母親が私の顔を見て号泣。「あかん、あんた体重計乗って」と言われて体重を測ると、20キロほど落ちて48キロになっていたのです。次の日病院へ行くと、重度の鬱になっていました。

ーご自身では鬱だと気づかなかったのでしょうか?

気づかないですね。勤務中吐いてしまったり、味覚を感じなかったりしましたけど、疲れているだけだと思い、気づく余裕すらなかったです。

ー鬱だと診断されてからどのように過ごされていたかお聞かせください。

3~4カ月ほど何もせず、外出もできなかったです。最初はトライしましたが、阪急電車内で上司が部下を叱っている姿を見て吐いてしまったり、梅田の人混みで大将と似た人を見かけて倒れてしまったり……。

父親の反対を押し切って割烹の世界に入ったので、父親に弱っている姿を見せないように自室にこもるようになってしまいました。

3人のパワフルな恩師と出会い、人生の歯車が動き出す

ー鬱になった後、どのように立ち直られたのでしょうか。

1年半の療養生活中に、3人の恩師と出会ったことがきっかけで回復へと向かうことができました。まず1人目は、松下政経塾の塾頭をされていた上甲晃先生です。

私の父親はとても頑固で人の話を聞かないのですが、ある日突然「ちょっと市内まで車で送ってくれへんか?」と言われて、何をするのか聞くと、「上甲晃さんの講演会聞くんや」とのこと。

「父親が話聞くなんてどんな人やろ?」と思い、ついていくと、壇上に汗をほとばしらせながら力強く語る上甲先生の姿がありました。「人間とは」についてものすごくパワフルにお話している70代の上甲先生と、生きる気力をなくして毎日引きこもっている21歳の私。

「この人についていきたい」と思い、講演会後に上甲先生のもとへ行き「学ばせてください」と言うと、“青年塾” という私塾を勧められ、入塾することにしました。上甲先生との出会いが、私の歯車が回りだしたすべてのきっかけでしたね。

ー入塾することを決めたときも、療養生活は続いていたのでしょうか?

そうですね。まだ電車の中で吐いてしまう状況だったので、入塾式に行けるか心配でした。なんとか入塾式へ行くと、1人遅れて女性が入って来て、その方がジャパンハートの理事長である吉岡春菜さんだったのです。

春菜さんの最寄り駅がたまたま私の隣駅だったので、帰りの電車でたくさんお話をしました。実は春菜さんは女医で、東日本大震災のときに被災地に行って、子供たちの心をケアする活動をしていたのです。

春菜さんはPTSDに詳しく、私もPTSDだと診断されていました。それからというもの、プライベートは春菜さんにカウンセリングで支えてもらい、春菜さんに紹介していただいた病院に通ったことで、症状はどんどん回復していきました。

ー吉岡春菜さんが、2人目の恩師だったのですね。

はい、そうです。3人目は、春菜さんの旦那さんの吉岡秀人さんです。春菜さんからジャパンハートのお話を聞いて調べてみると、創始者である秀人さんは情熱大陸に3回も出てたんですよ。

父親が商売人なのに対して、真逆である非営利の活動をしていて、心から尊いなと思いました。一度お会いしてみたいと思っていたある日、父親のケーキ屋がオープンしてすぐ、吉岡ご夫妻が来店してくださったのです。僕もたまたまその時期だけ父親のケーキ屋の開店作業だけ手伝っていたこともあり、お会いできました。

そこで秀人さんから、「今下がってるのは、次飛ぶためにしゃがんでるときやからや」「飛行機も向かい風ないと飛ばれへんねや」と、パワフルな言葉をたくさんいただきました。

そしてなんとその場で、「野村くん、カンボジア来てくれへんか?」と言われ、「何かわからんけど行きます!」と、カンボジア行きを即決しました。

カンボジアで事業に邁進。父親に1人の人間として認められ、自信を取り戻す

ーカンボジア渡航を決断してから、どのように過ごされましたか?

最初は、秀人さんは私を料理人として呼んでくれて、ジャパンハートでの活動を始めるにあたって下見のためにミャンマーへ行きました。下見だけするつもりでしたが、現地の看護師さんが患者さんたちに真剣に向き合っている光景を目にして、私も何かしたいと思いました。

それと同時に、自分が今悩んでいることがちっぽけに思えて……。今までずっと自分に向いていた矢印が、一気に外側に向きました。身を粉にして頑張っている看護師さんや、辛い中でも笑顔で感謝する患者さんたちを見て、この人たちの力になりたいと思い、現地にいた方々に料理をふるまい続けました。

それを見ていた秀人さんが、「カンボジアで新しい事業を立ち上げるから、やってくれへんか」と言ってくれたのです。

ー新しい事業とは、どんな取り組みですか?

抗がん剤治療中の小児がんの子供たちが不衛生なご飯を食べることのないよう、給食施設を作るプロジェクトを任せてもらいました。

建物の設計をしたり、資金集めをしたり、管理栄養士さんを探して日本から呼んだり、幅広く活動していましたね。その過程で学んだプロジェクト管理やタスク管理術は、今にも活きています。

ー給食施設が完成したときの心境を教えてください。

完成した日に行った竣工式に、今まで寄付してくださった方々をはじめ、上甲先生や両親も初めてカンボジアに来て参加してくれました。

今まで父親に褒められたことはなかったのですが、初めてみんなの前で「よくやった。誇りに思う」と言われて、その横では母親がめちゃくちゃ泣いていて……。父親に認められたのはたまらなく嬉しかったですし、事業に邁進していく中で自信を取り戻し、症状も回復していきました。

過去の経験が成長の糧となり、店長からCOOへと駆け上がる

ープロジェクト立ち上げを経験された後、どのように過ごされていたのでしょうか。

カンボジアで知り合いを増やしたいと思い、ある日「アラサー会」というバーベキューイベントに参加しました。でもなかなか打ち解けられず、ずっと肉と魚を焼いていて……。すると横で一緒に焼いていた方に「料理やってたの?」と声をかけられて、よく聞くとFOOLAB CO., LTDのオーナーでした。

今までの経歴を説明するとその場で名刺を渡され、「店長任せるからうちの会社に入ってよ」と誘われたのです。当時はまだジャパンハートに在籍していたので、週5日はジャパンハートで働いて、週末の2日は夜だけその居酒屋で店長をすることになりました。

従業員はカンボジアの子ばかりで、英語もあまり話せなかったので不安でしたが、自分なりの改善提案によって良い方向に進むような “小さな成功体験” が楽しくて、そのまま就職することを決めました。

ー大きな決断ですね。就職してから苦労したことはありましたか?

カンボジアでは2020年3月中旬にCOVID-19の第一波が来て、その影響で売上は70%減、私の給料は半額になりました。「環境に左右される業界でキャリアを積むのはどうなんだろう……」と思いましたが、このまま負けてたまるかという気持ちもあって。

会社を辞めることも視野に入れつつ、社長に私なりの改善案を伝えました。当時は各店舗に日本人マネージャーが1名ずついたのですが、各マネージャーごとで能力差があり、「あの人はこうすれば店は伸びるのに」という感覚があったのです。

それを伝えると、私に全店舗のGeneral Managerを任せてくれることになりました。COVID-19が収束に向かったこと、小さい頃から父親の会社でお手伝いをしていたこと、ジャパンハートでマーケティングをしてきたことのすべてが重なって、お店の業績は上がっていきました。

ー今までの経験が結果に結びついたのですね。

そうですね。その結果、社長が私をCOOに任命してくれました。General Managerはカンボジアの方に任せて、メインで店舗に立つのはカンボジア人だけでもおいしい日本食の料理を提供して、お客さんを満足させられるお店を作りたいと思っています。

食 × 医療の領域で挑戦をし続け、苦しむ子たちを1人でも多く救っていく

ー「この業界でキャリアを積んでいっていいのかな」という迷いもあった野村さん。これからどのようなキャリアを歩んでいきたいですか?

あと5年くらいはカンボジアにいると思います。実は、兄がパティシエとして父親の会社を継いで、私が経営陣として入って、父親の会社をもっと伸ばすという目標があって。

そのために、利益をあげるにはどうすれば良いのか葛藤する時間を作りたいと思っていて、今の会社は経営を学ぶには最適な環境なので、しばらくは在籍しようと思っています。

長期的な目標は、医療業界の力になることです。ジャパンハート時代に、医療の尊さ・素晴らしさを身に染みて感じましたし、私自身、医療に助けられたので!

ー「個の時代」と言われている現代において、野村さんが今までユニークな経験をされてきたことには価値がありますね。最後に、野村さんの将来の夢やなりたい姿を教えてください。

将来の夢でいうと、自分自信が苦しい経験をしてきたので、手の届く範囲だけでも苦しむ子たちを救いたいです。とにかく私にできることがあれば何でもやりたいですね。

なりたい姿でいうと、死ぬまで人に必要とされたいです。今まで生きてきて「楽しい」と感じるのは、人に必要とされたときなんですよね。求めてもらえる人になれるよう、これからも自分を高め続けていきます!

ー野村さんが食と医療の領域で、これからどのような変革を起こしていくのか楽しみです!野村さんの今後のご活躍、応援しています。本日はありがとうございました。

取材者:増田稜(Twitter
執筆者:もりはる(Twitter
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter