お菓子を作る人が、幸せに働ける業界づくりを目指す。飲食業界に新たな風を吹かせる林巨樹の挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第222回は株式会社Bross代表の林巨樹さんをゲストとしてお迎えしました。

幼少期からの夢であるパティシエの夢を叶え、さらに飲食業界の働き方に変化をもたらすべく幅広く活躍されている林さん。その原点は何なのか、どのような道を歩んでパティシエになったのかなど、林さんの人生のこれまでや飲食業界への思いなどをうかがいました。

飲食業界の働き方に切り込む新気鋭

ー簡単な自己紹介をお願いします

株式会社Brossの林巨樹です。僕はパティシエとして、お菓子を作る仕事をしています。その中で感じた課題をどうにか解決できないかなと思いながら、これまで様々なアクションを起こしてきました。2020年10月に会社を設立して、新しい働き方の提案や、飲食のプロのステージ作りなどをやっていく事業を進めています。よろしくお願いします。

ー具体的な活動内容や日々どのような働き方をしているのか教えてください。

1年半くらい前までは、東京のトップクラスのパティスリーで、パティシエとして働いていました。そこを辞めてから1週間後には自分でデザートバーを始めました。お客様に今ベストなスイーツを提供して、アルコールドリンクをペアリングでつけるというものを、お休みのレストランや使ってない時間帯のバーを間借りして、やっていました。

プロのパティシエとしてある程度スキルを持っていても、経営や人を雇う、育てる経験を持っていなかったので、お店を運営することには非常に難しさを感じました。料理人がなかなか経営できなかったりとか、お店がうまく回っていなかったりするのは、職人であるが故にどうしても経営の勉強を疎かにしてしまうからなのではないか、と考えるようになりました。

ちょうどその頃、元メルカリでメルペイの取締役を務められていた松本龍祐さんが、カンカクという会社を起こし、ITや最新テクノロジーで飲食店を作っていくというお話を聞き、僕は飲食周りのサポート担当として関わらせていただくことになりました。KITASANDO COFFEEという完全キャッシュレスのコーヒースタンドの立ち上げを行ったり、TAILORED CAFEというモバイルオーダーでアプリから事前に注文をしてコーヒーを買いに行くものや、サブスプリクションでコーヒーサービスを行うといった飲食にITが入ってくるような部分をサポートするお仕事をしていました。

テクノロジーが入ると、飲食の働き方って変わるんです。お金を使わないと衛生的な作業ができますし、レジでお客さんにメニューをお渡しして、注文を受けて、スタッフに伝えて、作ってもらってという数分間に渡るオペレーションコストも下げられるので、カフェで働く人はラテを入れるとか、バリスタをするとか、パフォーマンスに注力できて、やりがいに特化した仕事に就いてもらうことができるんですよね。

この経験を経て、ITで飲食業界の働き方は変えられるんだという確信を持ちました。ITを導入して、もっと料理人やパティシエためのサービスを作れるんじゃないかと思い、僕が総合的に勉強してきた部分を活かしながら新しい会社を立ち上げて進めています。

マカロンをきっかけにパティシエを志す

ー1番最初のターニングポイントである、10歳の時のできごとについて教えてください。

今から15年前の話で、ターニングポイントというか、ここからはじまったという感じです。マカロンは今じゃみんなが好きなお菓子ですが、当時はブームがぼちぼち始まってきたという時期でした。それ以前からマカロンを売るお店はありましたが、国民的には「マカロンって何?」という人の方が多かったです。

10歳の時、羽田空港に行って、マカロンをお土産に買ってもらって食べました。200円もする高価なものでしたが、子どもの口でも一口で収まっちゃうくらいの小さなお菓子にとてつもない幸せを感じました。変な話、子どもって300円渡されて、お菓子を買ってくるというような金銭感覚で1,000円札をもらうことなんてないじゃないですか。

僕の中では300円でうまい棒を30本買うとコスパがいいと思っていました。なので、お菓子の価値というのはうまい棒で換算されていて、200円のマカロン1つがうまい棒20本分に勝った瞬間だったんですね。うまい棒20本20種類を楽しむよりもマカロン一口の方が圧倒的に幸せでした。

これが衝撃を受けた瞬間で、その年のバレンタインデーにマカロンを作りたいなと思い、本屋さんを探し回って、やっと見つけたレシピでマカロンを作ってみました。もちろん味見をしながら作れるので、完成した時には半分くらい食べてしまって、60個できるはずが30個くらいになっていました。(笑)そこで作る楽しさとワクワクと自分が食べてハッピーになるという体験を経ました。

残りの30個は配ることにしたのですが、小学校の同級生はマカロンが何かわからないんですよ。食べてもらうと、僕とまったく同じ「何これー!」という嬉しそうな反応をしてくれました。さらに、親御さんたちはマカロンを知っているけど、食べたことはなかった。「こんなものを小学生が作れちゃうんだすごい!」みたいな反応をもらい、黄色い声援のようなものが聞こえてくるのが僕にとってはすっごい楽しい瞬間でした。

これを仕事にしたら楽しいのではないかと考えるようになりました。しかし、ケーキ屋さんといえば女の子がなりたい職業ランキングベスト3に入ってくるようなものですよね。だから、女性がやる仕事だと思っていました。ただ、「パティシエ」って調べてみると男性しか出てきません。有名な方はみんな男性で、男の人も仕事にしていいということを知りました。

さらにマカロンに関わるパティシエを調べると、ピエールエルメという人が出てきます。彼はマカロンをカラフルに彩り、パティシエ界のピカソと呼ばれるようになったすごいパティシエです。彼の存在を知り、これはパティシエになる以外選択肢はないなとその時に決めました。

父親の理解を得られずとも、自分の気持ちは曲げなかった


ー15歳のときにモチベーションが下がっていったということですが、詳しく教えてください。

今でこそエネルギーに変換できているんですけれども、この時間が一番辛い時間でしたでした。15歳の時の話です。

フランスには修行制度があり、14歳からパティシエを目指して修行をすることができます。フランスにはもうパティシエの道を進み始めている子たちがいるというのに、中学2年生の僕は、進路を決めている段階です。

前述のマカロンのピエールエルメが僕にとって大きい存在となっていましたが、ピエールエルメは14歳の時点で実家のパン屋さんで、修行を始めているんですよ。もともと実家がパン屋でハンデも大きいですし、アルザス地方というフランスのクラシックで非常に美味しい伝統菓子が溢れているエリアでキャリアをスタートされています。14歳で恵まれたスタートを切り、10代後半にはパリに移って歴史を塗り替えていく人をお手本にしていたので、僕は中学卒業の段階ですでに遅れをとっているパティシエキャリアを、いかに早くはじめるかということしか考えていませんでした。

しかし、日本では中学を卒業してから働ける場所はなく、高校卒業もしくは専門学校を出てから就職するという流れが一般的だったので、どう頑張ってもしばらくは学生をするしかないことが明らかになり、どうしようかと思っていました。

その頃、地元に調理国際科ある公立高校があることを知りました。お菓子の分野ではありませんが、幅広い食材知識や、製法や調理の技術を学び、調理師免許を早めに取るため、生き急ぐように必死に入学に漕ぎ着けました。いざ、ここから調理の道を歩むぞというタイミングで家庭内の大騒動が起きました。

父親は厳しい人間で古典的な考えをする人だったので、長男が台所に立つことを望ましく思っていなかったんですね。僕は、これからは大学を出ることが必須ではないし、景気が悪くなってもスキルを持っていることが力になるのではないかという考えを持っていたので、調理国際科に進む際には納得してもらうために話をし続けました。ようやく許可もらって通えたわけですが、父親からするとあまり面白くはなかったと思います。それなりのキャリアを積んできた父親だったので、社会的地位が低く、お給料ももらえなくて、休みも少ないイメージのパティシエという道に父親は魅力を感じてなかったようです。

高校生になって、体も大きくなって、父親と対等に戦えるようになってしまったタイミングで、バチバチぶつかり、その流れで父親が出ていく形で、事実上の離婚。家庭が崩壊しました。経済的に厳しくなる一方ですし、高校出た後に専門学校に行けるのか、フランスに修行に行けるのか不安なっていきました。

ケーキ屋さんに頭下げて「バイトさせてください」とお願いしたりもしていました。高校生だったので掃除ばかりしていましたが、モチベーションに変えて、自分の気持ちを曲げずに、どうにかしてパティシエはやるんだっていうことを意識して生活していた高校生でした。

ーいざ洋菓子の世界へ!ということですが、高校を卒業されたあとに進まれるんですよね?

高校を卒業して、調理師免許を取得しましたが、お菓子の勉強は高校ではしていなかったので、お菓子のプロになるのであれば、製菓の教育機関を出るべきだなと思い、世界の辻とも呼ばれる世界3大料理学校のひとつである辻調グループの学校に入学しました。

本来専門学校って2年通って、座学をたくさん受けて、資格を取れる場所が専門学校なのですが、僕は早くパティシエになりたかったので、1年間の座学が少ないコースをあえて選びました。学歴としては専門学校を卒業ではなく、高卒です。しかし、パティシエのキャリアにおいて大学や専門学校の卒業はいらないかなと思っていたので1年でも早くパティシエのキャリアを始めないと、ピエールエルメが先にいっちゃうという焦りがありました。

高校での座学の知識があったので、専門学校では実習とお菓子の勉強、フランス語の勉強を1年間でさせてもらいました。高校まではお菓子が好きな男の子はいなかったんですけど、専門学校に行くと同じ志を持ったまさに同士がわんさかいて、毎日楽しいと思える幸せな時間でした。

専門学校を1年で卒業したあとは、そのまま辻調グループの東京校で講師として働きました。その後、19歳後半はフランスで勉強をして、ピエールエルメが生まれたアルザス地方で1年間働きました。彼はここで美味しい食材と収穫したての小麦で作る小麦粉からできたお菓子やパンを食べて育ち、作っていたということなので、同じ食材に触れることで少しでも彼に近づけたかと思います。その後、日本に帰国しました。

人を幸せにするためのケーキを作る人が、幸せじゃない状態

ーフランスから帰ってきて、どのような生活を送られたんですか?

フランスから帰国後は、東京の日本橋にあるオクシタニアルというケーキ屋さんで働きました。この時に国内コンクールでトップになり決勝にいかせていただきました。コンクール自体は30代前半の方が次のシェフになるセカンドシェフから自分のお店を持つまでのキャリアを作るために出てくる大会だったので、パティシエとしての総仕上げのような大会なのですが、この大きな大会に20代前半が出てくることが珍しく、社会人の卵のような若造が同じ表彰台に乗ってしまい、チヤホヤされる時もありました。しかし、僕の皮肉な発想では、逆に今22歳の僕枯らしたら10年、20年修行したとしても若造に勝てないんだと感じました。

洗い物や雑用をさせられて10年経って、若者に負けてしまうのであれば、コンクールで優勝してキャリアを作ることが本質的に間違っているんじゃないかなと思いました。10年修行するのが当たり前という価値観ですら、正しいものではないんじゃないかとさえ思うようになりました。頑張ってチャンピオンになって優勝してお店出すとなっても経営が勉強できてなくて、人を育てた経験がないような人が組織を作れることもなく、お店は壊れていく。世界大会で勝ち抜いているレジェンドの方々がお店を出しても、2、3年で潰してしまうケースは平気であります。

また、若手がやりがいを求めて、華やかな仕事が待っていると思ってこの世界に飛び込んできても現実にぶち当たってしまい、うまくいかないということもよく聞きます。

人を幸せにするための嗜好品であるお菓子やケーキを作っているのに、作っている人が組織によって幸せではない状態は僕としては認めたくない現状でした。

そんな頃、若者の料理人やパティシエを集めたコミュニティを運営していたんですが、そこにベースフードという会社の代表の橋本舜さんが来てくださいました。当時ベースフードは完全栄養を含んだパスタを開発していました。僕もサプリメントなどを摂りますが、主食に栄養素を含ませようなんて発想を1ミリも持ったことがありませんでした。ペペロンチーノにしてもカルボナーラにしても、例えば嫌いな食材があるならそれを抜いたとしても、栄養素が全部取れてしまう。これは社会的意義があることだと思いました。例えば、少食な人や好き嫌いがある人や子どもたちにもさりげなく食べてもらえる主食に栄養素が含まれているので、たくさんの人を健康にすることができます。

その後、ベースフードとしてパンを作りたいというお話を聞きました。しかし、パンにすると膨らまないんだという相談を受けて、開発に携わることになりました。橋本さんは元DeNAの新規事業を進めていた方なので、いわゆるIT企業としての仕事の進め方、速度感を持っています。僕が開発に入って3ヶ月後には完全栄養パンを作り上げて、リリースするというスケジュールが組まれていて、こんなスピードでやったことないぞと思いつつ、どうにかパンを膨らませて商品開発を進めました。

パンとパスタは製法が似ていますが、パンは8000年も歴史がある古い主食です。8000年あって誰もここに栄養素を混ぜようと考える人はいませんでした。心のどこかで僕には絶対できないと思っている節もありましたが、奇跡的にできてしまったので、本当にすごいことをやったなという感覚です。

1ヶ月でたくさんの数のパンが出荷され、たくさんの人の健康を、僕のスキルが支えたんだと思うと、非常にやりがいがあるプロジェクトでした。ショートケーキを1日に5台、6台作ったとしても、1ヶ月間には150台程度しか作れませんが、パティシエのスキルによってたくさんの人の健康に貢献することもできると考えたら、働き方はやはり変えていく必要があると、心が決まりました。

そのタイミングでオクシタニアルを辞め、自分でデザートバーを始め、食のイノベーションに携わるようなフリーランスの仕事をするようになりました。そこから繋がりに繋がって、カンカクに携わることになりました。

シェフが料理を作ることに注力できる新しい働き方を提案

ー今面白そうだと思っていること、これからチャレンジしていきたいことはありますか?

会社を起こしたタイミングなので、いろんな妄想が膨らんでいます。本当は3年後に作りたいと思っていたモデルがあります。これが、シェフはシェフとして料理を作るだけのパフォーマンスをすればいいという新しい働き方の提案です。

例えば港区にあるビストロだったら、最低でも3人が働かないとお店は回りません。料理人であるシェフと、サービスマンであるソムリエ、レジ係や雑用をするウェイターの3人なんですが、仕事を分解していくとお金を受け取るレジ係や日中にかかってくる予約の電話対応など、手をあけておいて営業が回るようにする仕事、食事を提供したり、メニューを伺うのサービスマンの仕事、そして料理を作る仕事。3つの仕事が存在するのですが、もしもキャッシュレスで事前に予約をして決済まで済ませられれば、レジ係も電話係もサービスマンも必要ありません。

仮にカウンターが20席ほどで、シェフ1人で見渡せる範囲内であれば、シェフが予約に合わせて事前に仕込みをしておいて、目の前のお客様に料理をお出しするだけというモデルができるかもしれません。目の前でシェフが作ってくれるスタイルでも、料理に関する説明をしながらパフォーマンスができるので、非常に楽しいエンターテイメントに変えられると思います。

人件費は3分の1に安くなりますし、1日8時間しか働けないので、24時間ある1日を3分割すれば、1つの店舗で3つのお店をやれる可能性もあります。すると、場所代人件費に関しては普通の飲食店の9分の1のコストでステージを作れます。それ以外にかかるコストである、システムの運用や事務作業、マーケティング、ブランディング、SNS運用などは本部が巻き取れると初期投資がかなり安いステージ作りができますよね。つまり、シェフの方の個性、磨き上げたスキルを披露する場所作りができるのです。

これを3年後に作ろうと計画していましたが、コロナの影響で対面のパフォーマンスは現状リスクが高いので、一旦は形を変えて、パティシエがオンラインショップを作るためのステージを作りたいと考えています。

ー大会などで若手ながら活躍し、他の人よりはキャリアが浅い中で勝ってきた理由やポイントは何だったのでしょうか?

僕個人より優れている人はいっぱいいると思っているのですが、僕が唯一持っている強みは、体力と努力なのかなと思っています。パティシエの大会は必ずって言っていいほど、飴細工の種目があります。この飴細工は浅草にあるような棒状につけた飴細工とは違って、手で100度以上の高温の飴を触って細工をしていくのですが、つまりは根性焼きをずっとしている状態なんです。なので、はじめは手の皮膚の皮を分厚くするために手を焼く作業から始めるんです。何でこれがパティシエの必要なスキルなんだって思いますが、僕は家庭が厳しい環境だったこともあり、父親の暴苦に耐えてきた根性があるので、正直全然怖くもないし、熱くも感じないんです。楽しい時間の痛みは少しも苦しいと思っていなかったので、仕事終わりから次の日の仕事がはじまるまでずっと飴細工の練習をし続けられます。

また、物事を客観的に捉えて、本質的に理解しなおしたり、構築しなおしたりすることが好きです。分析化できたっていうのもあって、今あるお菓子の最先端のスキルからさらに無駄を省いて新しいものを作り出すことも得意なのかもしれないです。

ー今後のビジョンやここから成し遂げていきたいことは何ですか?

飲食の働き方を変えていきたいです。まさに時代は変わり始めたと思っていて、ハッピーな人がハッピーなものを作って人をハッピーにしていかないと、料理や場所、空間を本質的に楽しめないと思います。このままでは東京の美味しいものを作っていく人たちが潰れていてしまって、最終的にはどこも同じ味とか、コンビニの味になっていくのかもしれません。飲食のプロに新しい働き方の新しい提案をするのと同時に、東京の食文化を守る、継承するということをハッピークリエイターとして、ハッピーを作る目線からやっていきたいと思っています。頑張ります!

取材者:増田稜(Twitter

執筆者:大野雛子(Twitter

デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter