様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第738回目となる今回は、たくあんボーイさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。
ひとりで上京し、お笑い芸人として活動する度野さん。養成所時代のエピソードや、先輩方に恵まれた事務所でのお話、今後の夢などについてお話していただきました。
社会人経験を経て、お笑いの道へ
ー簡単に自己紹介をお願いいたします。
お笑い芸人のたくあんボーイです。経歴5年目の25歳で、現在フリーでお笑いをしています。
高校卒業後、JR東海に入社し、2年ほど社会人を経験してから、20歳でお笑い養成所のワタナベコメディスクールに入りました。
ーユニークな芸名ですね!どうしてこのお名前にされたのでしょう?
実は、おばあちゃんの姿から思い浮かんだ芸名なんです。漬物が有名な長野県出身で、おばあちゃんがたくあんを毎朝出してくれていました。
「キヨヒコ、たくあんできたよー」と言ってくれるおばあちゃんの姿が短髪で、背も小さくて、まるで少年のように見えたので、この名前をつけました。
おばあちゃんが作る、茶色い塩辛いたくあんが大好きです!
ー芸名の由来、ほっこりしました!もともとお笑い好きだったんですか?
小学生の頃からお笑いは好きでしたね。当時の僕は明るいキャラではなく、同じグループの子たちに、イラストを描いて笑わせるくらいで、割と物静かな子でした。
当時は特にお笑い芸人をやるとは思っていなかったです。小6の卒業アルバムに書いた夢は「あちこちでキャンプをしたい」だったので、社会人をするイメージも特になかったのかもしれませんね。
ーお笑いを本格的に始めようと思ったのはいつ頃でしたか?
高校生になって、お笑い養成所の存在を知りました。仲良かった友人と一緒にやろう!とは話をしていたものの、両親に猛反対されてしまったんです。
高校を出てすぐに芸人になるのは難しいと感じ、就職して、お金を稼いでからお笑い芸人を目指すことにしました。
JR東海に入社した理由は、お給料の良い大きな会社であることが1番でしたね。お笑いのために、資金を貯めて上京することが目標でした。あとは、人と話すことが好きだったので、駅員として接客できることも魅力でした。
200人のライバルとともに過ごした養成所時代
ーいざ長野から上京されることになって、当時はどう思っていましたか?
JR東海の駅員は安定した職業だったので、辞めるときは家族や職場から反対されましたね。でも、応援してくれる人もたくさんいました。会社のカラーがオレンジだったので、当時の先輩が「これを着て頑張れ!」とオレンジ色のスーツをくれたんです。今でも衣装として、身につけて頑張っています。たくあんの色にも似ていますね(笑)
上京したときは、テレビにすぐ出てやる!東京で必ず売れる!と闘志を抱いていました。ひとりで上京したので、ツッコミ担当の相方を東京で見つけて、コンビを組むつもりでした。
養成所の同期は200人くらいで、100組近いコンビが誕生するような環境でした。
ー養成所時代、辛かったことはありましたか?
たくさんありましたね。作家さんにネタを持っていって「これはお笑いじゃない」と全否定されることもありました。ダメ出しをたくさん受けて、お笑いの厳しさを知りました。
3分のネタを作家さんに見せるときも、1分後半から居眠りし出す作家さんもいましたね。どうにかして笑わせてやる!と闘志むき出しで挑んでいました。
コントに完成はないので、続けていくうちに、ダメ出しにも慣れていきました。
ーネタを磨いていく中で、初めてお客さんに披露したのはいつでしたか?
養成所に入って2ヶ月後です。緊張していたこともあり、スポットライトが強すぎたことしか覚えていないですね。お客さんの顔は全く見えませんでした。当時はコンビだったので、相方と2人だけの空間に思えました。
その後はライブに向けてネタを磨いて、ウケなかったところは直して……の繰り返しでした。