記憶だけでなく形に残る人生を。若くして死を意識したNao屋 代表・麻生尚が大切にする人生観とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第788回目となる今回は、Nao屋 代表・麻生 尚(あそう・ひさし)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

2022年の7月に会社員を辞め、現在は撮影事業、絵本事業、フィットネス事業を手がける麻生さん。学生時代の経験や、24歳で癌になって「死」を意識したことから、どのように人生が変わったのかについてお伺いしました。

野球を始め、アイデンティティが形成された幼少時代

ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

個人事業主Nao屋として活動している、麻生 尚(あそう・ひさし)と申します。24歳のときに大病をした経験から、「人の死は身近にあるんだ」ということに気づき、誰かの人生に携わっていく仕事をしたいと考え、絵本事業、撮影事業をしています。よろしくお願いします。

ーありがとうございます。まずは幼少期についてお話を伺いたいと思います。幼稚園や小学校時代を麻生さんはどんなふうに過ごされたんでしょうか?

ヒーローものと泥団子作りが大好きだった記憶があります。先日幼稚園の同級生のお母さんに久しぶりにお会いしたら、「やんちゃだったね」と言われたので、思いのほか僕のアイデンティティは昔からあったみたいです(笑)。

10歳で野球好きだった祖母の影響で野球観戦に行ってから野球に魅了され、両親に「誕生日プレゼントに野球チームに入会させてほしい」と懇願し、野球人生がスタートしました。野球は高校生まではプレイヤーとして、今でもサポートする側として続けています。

「普通にとらわれない」人から刺激を受けた大学時代

ー大学受験に失敗してしまったと伺いました。ここについて詳しく聞かせてください。

ずっと野球をやっていた経験から、スポーツ業界に携わる仕事がしたいと思っていて。トレーニングでもメディカルケアでもサポートできるアスレティックトレーナーになりたいと思い、特化した学科がある順天堂大学を志望していました。しかし倍率が高かったこと、問題が難しかったことから2学科受けて見事玉砕。当時はかなり落ち込みました。

しかし、祖母が「置かれた場所で咲きなさい」とよく話してくれたことや、父の母校だったこともあり、東海大のスポーツレジャーマネジメント学科に進学しました。

ーそこからの大学時代はどのように過ごされたのでしょうか?

大学時代は「体を動かせる」「英語を話せる」「接客業」という3つの軸で仕事を選び、浅草で人力車のアルバイトをしていました。人力車って一般的な大学生がする居酒屋やカフェのアルバイトとは違うので、ちょっと変わった人たちが集まっていました。世界一周してきました!みたいな人だったり。

そこでいい刺激をもらったのと、人力車は外国人の方にも英語を使ってガイドをするので、自分の英語に自信をつけたいと思い、1ヵ月間カナダにも留学しました。普段から英語を使っていたこともあり留学先では一番上のクラスに入れてもらえたので、他国から来ている優秀な学生たちと一緒に英語を学習し、かなり自信がつきました。

ーそうだったんですね。人力車の他にも「普通にとらわれない人たちに触れた」経験があったのでしょうか?

高校時代の野球仲間が、新しい活動を始めたんですよね。ひとりはラップを始めて、最初は全然収益がなかったみたいなのですが、継続していったらだんだんファンがついていって。

今では何万人もフォロワーがいて大きなイベントも開けるラップバトルのオーガナイザーになりました。その人が「会社員になるの辞めます」と言ったら、別のメンバーもDJを始めたり。

もうひとりはLINEスタンプ事業で成功して、新卒が稼ぐ何倍ものお金を稼ぎ、今は石垣島に移住しました。

僕は今まで平均点を取ることだったり、親や先生からも褒められて「お前いいやつだよな」って言われるような普通になるための努力をしてきたんですけど、普通じゃないことやっている人のほうが、人生楽しそうじゃんと思いましたね。

24歳で癌になった経験から死を覚悟

ーその後、24歳で「死を覚悟する」出来事があったと伺いました。

そうなんです。当時新卒で入社した会社で研修を受けていたのですが、急にお腹が痛くなってしまって。マネージャーに「お前がそんなに体調崩すのは変だから、病院に行ったほうがいいよ」と言われ、少し前から痛くなった部分にしこりを感じていたこともあり、病院に行きました。

検査結果を聞くときに、ドラマでよくあるように「親御さんを呼んできてください」と言われ、癌を宣告されました。

聞いたときは頭が真っ白になり、その後ボロボロ泣きましたし、「こんなに人生楽しんでて、笑っている自分でも癌になるんだ」と思いました。若くても関係なく、平等に死って近くにあるんだなと感じた24歳でしたね。

ーそれからは治療に専念されたのでしょうか?

転移が多い癌にもかかわらず、幸い転移がなかったので、摘出手術だけで済みました。先生にも「きみラッキーだったね」と言われましたが、転移がないとわかるまでは本当に「死」を意識しましたね。

友人数人にも癌のことを話すと、心配したり悲しんだりしてくれて。そんな友達がいることに僕もうるっとしました。今では笑い話にしていますけどね。