色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第182回のゲストとして、株式会社シェアグリ代表・井出飛悠人さんをお呼びしました。
大学生時代に企業をし、今や一企業の代表として社会の一線で働く井出さんですが、以前は働くことへあまり意欲的ではなく、社会に出ることすら前向きではないこともあったとか。そんな井出さんが、自ら社会の課題解決に乗り出し、起業するにまで至った軌跡を伺いました。
農業が抱える課題を解決したい!その一心で株式会社シェアグリを企業
ー早速いろいろお話をお伺いしていきたいのですが、まずは今のお仕事について改めて教えてください!
はい!株式会社シェアグリは、農業の人手不足解消と人件費削減を目標に、人手が必要な農繁期のスポットでの特定技能人材や日本人の派遣事業を行っております。また、農繁期がずれている産地ごとに人材をリレーする仕組み作りにも取り組んでいます。2018年の大学生生活の夏に操業をしました。最初に1人で立ち上げた会社も、今では7名のメンバーがいるまでになりました。
ーシェアグリの事業本当に面白いですよね!なんでそもそもその事業を始めようと思ったんですか?
僕の中で、農業の課題解決をしたいという気持ちがずっとあり、それがきっかけとなりこの事業を始めました。というのも、僕の実家が長野県佐久市で150年続く種苗会社を営んでおりまして、物心ついた時から僕にとって農業はとても身近なものだったのです。
また、大学でも農学部を専攻していたこともあり、農業の世界に価値を提供したいという気持ちをずっと持っていました。
高校生活教科書も開いたことがないサッカー少年が選んだ次なる道は、農学部への進学
ーもっと事業のお話を聞きたいところなんですが、ここで少し過去に遡ってお話を聞いてみたいと思います。小さい頃はどんな子だったんですか?
小さい頃から陽気・好奇心旺盛な性格でした。それを象徴するエピソードとしては、公園に遊びに行ったまま夕方になっても一向に帰らずに遊んでて、親に無理矢理家まで連れて帰られたこともありました(笑)小学校から中学校は、サッカーにずっと打ち込んでいて、家族旅行も自分だけ行かずに練習に参加するほどサッカーが大好きでした!なので、高校進学時にはサッカー推薦をもらうことができました。
高校生活は、サッカーを通じて人間関係の学びを得られたことがとても印象に残っています。通常部活というものは、監督がいてその監督によって決められた練習メニューを選手がこなし、その結果などをみて監督が試合メンバーを決めたりすると思うんです。ただ、自分の部活はちょっと違って、選手たちで練習メニューや試合メンバーを決めることになっていました。僕は、その中でもリーダーとしてメニューやメンバー構成を考えていたのですが、その点に関して役不足だった部分もあって、もう少し良い方向に持っていけたのではないかという後悔が残ったまま卒業を迎えてしまったんです。
ーなるほど、そんなことがあったんですね。でも高校生の時点でそういった気づきがあったことは、きっとこの後の井出さんの活動に良い影響をもたらしているのではないかと思いました!でもこれだけサッカーに打ち込んでいたら、大学進学はどのように考えて行ったんですか?
そうなんです。年末の選手権大会を目指していると予選が11〜12月まであり、どうしても引退の時期は高校3年生の冬になってしまうんですよね。そうなると、もうそこから大学受験に向けて勉強!と言ったところでもう遅くて(笑)何せこれまでサッカー漬けの日々を送っていて、高校生活三年間は教科書すら開いたことない、みたいな状況でしたからね(笑)
ようやく自分の進路と向き合えたのは、サッカー部を引退したその時期からでした。やっぱり、実家が農業を営んでいるということから自分が進むとしたら、経営学部か農学部がいいのではと思い、結果的に東京の玉川大学農学部に進学を決めました。
大学で得た新しいチャレンジの場が、「働く」の意識を変え、新しい道を切り拓くきっかけに
ーサッカー漬けの日々から、突然大学進学と周りの環境も一変したのではないかと思いますが、振り返って大学生活はいかがでしたか?
サッカーは自分の中で高校生活で燃え尽きた感もあったので、大学では特に部活には入らずに、フットサルサークルとアカペラサークルに入りました!当時、フジテレビ系列で放送されていた人気番組「青春アカペラ甲子園 全国ハモネプリーグ」というのがあって、そこに出演しているアカペラサークルの大学生にそれにすごく憧れていたんです(笑)ああ、大学に入ったらみんなアカペラやるんだなって思ってましたからね(笑)
ーサッカーからの突然のアカペラ!大転身ですね(笑)大学生活では大きな転機ともなる出来事があったそうですが、そちらの体験もぜひ教えてください!
所属した学科がカナダかオーストラリアへの留学が必須になっていて、僕もカナダへ2年生の春から秋にかけて留学へ行きました。もちろん英語も喋れないですし、その上で課題にも取り組まなければいけないのでものすごくハードな日々でしたね。留学中はサッカークラブにも参加させてもらっていたのですが、言語がわからないながらも週に2回くらいサッカーをしていくうちに自然とコミュニケーションができるようになっていき、それがとても楽しい時間でした。言語が分からなくても生きていける、ということをこの留学では学びましたね。また、この留学をきっかけに、新しい全く知らない環境で挑戦することの楽しさをしりました。
ーそうだったんですね!そう言った経験を通して経験値を積んだと思うのですが、帰国後は何か次にチャレンジしたことはあったんですか?
帰国後、友人がベトナムであるビジネスインターンに二週間参加するという話を聞き、自分もやってみたい!と思い参加を決めました。ビジネスインターンということで、新事業立案をして実際に現地のビジネスマンや日本の経営者にプレゼンテーションしたりするのですが、まあボロボロにされましたね(笑)
しかし、そのプレゼンテーションをより良いものにしようと仲間と深夜まで寝る間も惜しんで試行錯誤作り上げて行ったのは、非常に貴重な体験でした。
また、ここに参加したメンバーはハイレベルな大学の生徒も多かったので、そう言った人々とたくさん知り合えたことも財産になりました。これまでは大学サークルの交友関係が中心だったので、全く雰囲気の違う仲間と出会えて僕も新鮮だったんです。
ーなかなか普通の大学生活では体験できないような経験ですね!すごい刺激的な毎日だったことと思います。そんな経験を経て、次に井出さんが進んだ道は何だったんですか?
そのビジネスインターンを通して、株式会社はぐくむの代表取締役である小寺さんという方と出会ったのですが、その方とその後も親しくさせていただき、ある日「ひーくんにとって一番ベストなプログラムがあるよ!」と言ってあるビジネススクールを紹介してくれたんです。その紹介されたスクールに6ヶ月間通っていたのですが、そこで僕の働くということへの価値観はガラッと変わりました。
それまでは実は、全く働くことへポジティブな印象を持っていなかったんですよね。というのも、先にも言った通り実家は長野県佐久市で150年続く種苗会社を営んでおり、生まれながらにして僕はその家業を継いで行かなければならないと思っていました。そうすると、自分の仕事のイメージや自分の生活が20年30年先どうなっていくのかも、父や祖父を見ていれば想像することが容易にできました。想像の範囲内の自分の人生、決まり切った道みたいなのがすごくつまらなく思えて、それで働くことにあまり前向きじゃなかったんですよね。
しかし、そのビジネススクールで「働く」の語源は「傍(はた)を楽にする」ことであり、傍(はた)というのは自分の周りの人たちを指し、その人たちの苦労を取り除き、より楽になるようなものを提供することが働くということだと学びました。その話を聞いてる中で、自分にとってそれに当たる人は一体誰なんだろうと考えた時、真っ先に思い浮かんだのが農業をしている方だったり地方の中小企業の方だったんです。ここで初めて僕の中に、働く=家業を注ぐことではない という選択肢が生まれました。
ーなるほど、私も勉強になりました!そういう学びもありつつ新しい自分の道が拓くきっかけにもなったんですね。ただ、そういう価値観が変わるような事柄に直面した時、全てを放棄して全く別の道を歩む人もいると思うんです。その中で井出さんが真っ先に周りの人を思い浮かべて、そこに向かうことができた理由はどこにあったんでしょうか?
150年続く種苗会社を営んでいる家庭に生まれることは、そう願ってもできるものではないですし、自らをもって選択することのできない運命だと僕は思っています。ただ一つ言えることは、僕は生まれながらにしてそういう環境を持っているわけで、それを生かすしか他ないなと率直に思ったんですよね。ここまでこの家業を守ってくれた先代の方々にも尊敬と感謝の気持ちがあったし、その意志を継いで僕の力でいい方向に持っていくしかないと思ったんです。
先にも話したように、以前はこの家業があることを僕は人生のデメリットだと思っていたんですが、今ではそのおかげでビジネスのヒントをもらえたと思っていますし、自分の新たな道を切り開けたと思っています。
農業の課題解決をしたい。その信念と対話から生まれた「農業人材シェアリングサービス」
ー新しい道を決めた井出さんですが、実際にはどのように最初は行動して行ったんですか?
最初は、ビシネススクールで出会った同期と小さいことからトライを始めていきましたが、そのうちに自分の中でもアイデアが出てきて、自ら事業を立ち上げたりもしました。
数年前に、宿泊施設・民宿を貸し出す人向けのサービス「Airbnb」が日本でも流行し出したことを覚えていますか?その時に、自分が住んでいた長野県の軽井沢や蓼科といった別荘地で空き家になっている物件が多いことが問題になっていました。そこで、その空き家をリノベーションして、民泊業としてバケーションレンタルできないか考え、様々な別荘管理会社に連絡を取って掛け合ってみるみたいな事からまず始めていきました。またその中で、様々な企業と話しているうちに歴史あるところからベンチャー企業まで様々な地方企業と東京の学生をつなぐような企業体験ツアーを発案しやってみたこともあります。
ーどれも面白そうな事業内容ですね!とても興味深いです。そこからはどうやって今の事業へと変わって行ったんですか?
今の会社は、大学4年生の夏休みに起業しました。当時、いろいろな事業がしたいとピッチイベントや登壇イベントにどんどん出ていたのですが、そこにきっかけがありました。
その中で、株式会社ガイアックスという企業がやっているイベントがあり、それがシェアリングエコノミーと何かを掛け合わせてピッチしてみませんか?という内容で、面白そうと思って参加してみて、僕はそこで農機具のシェアを提案したんです。農機具が余ってるという農家さんの課題を、c to cでシェアしていくことで解決するというものを提案したのですが、実際にこれを事業化しましょうと言ってもらうことができ、これがまさに企業にきっかけになりました。
ー農業のフィールドは同じでありつつも最初は農機具のシェアから始まったんですね!しかしそれがなぜ今の事業である「農業人材シェアリングサービス」になっていったんですか?
根本的に僕の中では、農家さんの間で一般的に存在する課題を解決するという目標があったので、事業をする中で一番大切にしていたのは、農家さんとのリアルな対話でした。その対話を続けていくうちに、自分が思っているものよりも違う課題が見えてきたんですよね。そしてその課題に対しては、今の事業では何の解決にもならないと思い、方向転換をすることになりました。その課題というのが「人手不足」だったんです。
農業には、顕著に閑散期と繁忙期があり、地域によっては夏場の6ヶ月間は忙しく、冬は半年間休んでいるみたいな農家さんも多くいます。ただそうなると、一般的にある通年採用というものがどうしてもフィットしなくて、既存の人材紹介等サービスがが全く機能していなかったんです。そこで考えたのが、農繁期スポットをしながら産地間で人材をリレーしていく仕組みです。
例えば、一年を通してキャベツはスーパーで買うことができると思いますが、あれは時期をちょっとずつずらして色々な産地で作られているからです。なので、一年間で群馬県、千葉県、茨城みたいに産地が移り変わるところに、人材も一緒に動かしていけば専門性も高まってその道のプロも育つし、必要な時に人も来てもらえるし、人件費も最低限で良くなるということになります。それがまさに今のやっている事業「農業人材シェアリングサービス」ですね。
ー実際の農家さんとの対話から生まれたこの発想、本当に素晴らしいですね!!ただ事業を変えるいう決断は並々ならぬものがあったと思いますが、その辺はいかがでしたか?
その前やっていた事業も、メディアに取り上げてもらったりしていたので決して不調だったわけではありませんでした。だからこそ、本当に事業を変えることは正しいのだろうかという迷い話ありましたね。ただ、基本的にはやはり自分の傍(はた)である、農家さんのことを考えるなら今の状態では本当の価値は生み出せていないという現状があったので、やはり事業は変えていこうという決断に至りました。
ー自分の傍(はた)である人々と真摯に向き合う、そしてそこへの価値提供をとことん突き詰める姿勢が本当に素敵だと思いました!これは私たち社会人が仕事を進めていく中でも見習うべきものだと感じました。本日は貴重なお話本当にありがとうございました!
取材者:高尾有沙(Facebook/Twitter/note)
執筆者:後藤田眞季(Facebook)
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)