テニス一筋の人生からコミュニティフリーランスへの転身!長田 涼さんのライフストーリーとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。記念すべき第200回はコミュニティフリーランスとして活動されている長田 涼さんです。好きなことに夢中になれたテニス一筋の中高時代から一転して、会社で働くことの意味が分からなくなった長田さん。そんな長田さんにコミュニティフリーランスという肩書きで活動されている現在までのお話を伺いました。

コミュニティで助けられた経験が独立につながる

ー現在行っているお仕事について教えてください。
コミュニティフリーランスという肩書きでオンラインコミュニティのマネジメントやアドバイザーという形でコミュニティに関わる仕事をしていて、具体的にはオンラインサロンをはじめ、地域やスクール系のコミュニティなどのマネジメントを行っています。

ー今のお仕事を始めたきっかけを教えてください。
コミュティフリーランスを始めたのは2018年の8月頃からですが、仕事を始めたきっかけは自分自身がコミュニティに助けられてきたからです。IT企業で働いていた時にこのままで良いのだろうかと悩みや不安を抱えた中で、初めてコミュニティの運営をしていた経験を思い出しました。その当時は、オンラインサロンが盛んになり始めた頃で、コミュニティ活動が仕事にできたら人生が豊かになりそうだなと考えていました。様々な人が集まっている様子から徐々にコミュ二ティを仕事にしていけるイメージが浮かび、コミュニティの情報収集や自己発信を繰り返しました。

実際にコミュニティに入る中で鳥井 弘文さんと出会い、今メインでやっているWasei Salonというオンラインサロンの立ち上げに彼と関わることになりました。このWasei Salonこそが私がコミュニティマネージャーという肩書きで初めて活動したもので、集まる人が本当に素晴らしく、「もっと関係を築きたい」「一緒にいろんなことをやっていきたい」という思いがありました。
仕事で抱えているモヤモヤを他人に言えなかった自分が初めて共有できたものWasei Salonのメンバーでした。今まで抱えていた悩みを赤裸々に話した時にサロンメンバーが「長田がしたいことをやったほうがいいよ」と背中を押してくれました。尊敬できるサロンメンバーが言ってくれたので、コミュニティを仕事にできるかもしれないと勇気をもてたのが独立を決めた大きなきっかけでした。当時はコミュニティを仕事にする人は全くおらず、それなら自分で作るしかないと思い、独立を決めました。

自分が好きなことに熱中した少年時代

ー原点に戻りながら長田さんの軌跡を振り返れたらと思いますが、どのような幼少期を過ごされたのでしょうか。
年子の弟がいたこともあり、小学生の頃は先生やの言うことをきちんと聞くタイプでした。当時の先生は、私が基本的にミスを犯さないタイプで人の模範になりやすいと話をしていたことがあります。ただ、それが嫌になったり葛藤していた時期もありました。

ーテニスを幼少期からしていたそうですが、何が始めるきっかけとなりましたか。
幼稚園の頃から何かしら習い事はしていたものの、両親に言われて始めていたものばかりで長続きしませんでした。しかし、小4から始めたテニスは近くの河川敷にあるテニスコートで面白そうだと感じ、自分の意思でやってみたいと思えた初めての習い事でした。テニススクールに通い始めると、週2回のレッスンを週5回に増やしたり、休みの日もラケットを握らなければ気が済まないくらいテニスにずっと触れたいと思っていました。
中学生の時は学校の勉強が嫌になってしまった時期があり、勉強そっちのけで自分が好きなテニスに時間を費やしたいと感じていましたね。

ー高校はどのようにして選んだのでしょうか。
大阪の通信制の高校に通っていて、テニス部は当時インターハイで優勝するような強豪校でした。授業は最大で週に3日かつ午前中に終わるので、授業のある日は午後からテニスをし、授業のない日や土日は一日中テニスをしていたテニス漬けの日々を送っていました。高校のテニス部はテニス好きしか集まらないし、自分が好きなことだけに夢中になれる空間だったので、今振り返ると本当によかったなと思います。そこで様々な経験をし、学んだことが多くあったので、それぞれの信念を持っていろんなことに挑戦している仲間たちと出会えたのは財産だと思います。

ー高校生の頃はその後の進路に関して、どう考えていましたか。
プロに関しては高校一年生のタイミングで断念していまいました。その理由は、高校一年で全国大会に出場した際に上には上がいることを痛感したからです。大学をどうしようかと考えた際に、スポーツや用具に対するこだわりが強かったのでスポーツメーカーに就職をしたいと思いました。そして、スポーツのことをもっと知る必要があると思った時に両親に勧められたのがびわこ成蹊スポーツ大学でした。

大学は一般的な大学よりも規模が小さい学校で、スポーツに関して勉強したいという思いはあったものの、勉強と向き合ってこなかったこともあり、学ぶことへの面白さをあまり理解していませんでした。私は当時、スポーツビジネスを専攻していて、スポーツのマーケティングやマネジメントなどのプロスポーツのビジネスについて学びを得ていました。そこで自分が好きなスポーツを題材に実技を通しての学びを得られたので、勉強していて初めて楽しいと感じていました。

ニューヨークツアーへの参加が自身の転機に

ー大学は勉強中心の生活だったのでしょうか。
大学1年の時はテニス部に所属していたので、テニス中心の生活でしたが、大学2年の終わりのスポーツビジネスを学ぶためのニューヨークツアーへの参加をきっかけに人生が変わり始めました。当時の僕はつまらないタイプの大学生で、何かにアクションする時はネガティブな発想になり、どうせ失敗するだろうと思いがちでした。

しかし、ニューヨークで出会った人々は後先考えずに行動をし、人生を楽しむ姿が輝いて見えました。それが私にとってのターニングポイントというか大きな出来事で、日本に帰ったらアクションファースト・まずは行動を起こしていくことから始めないといけないと思いました。そのために脳のスイッチを切り替え、考える前に行動を起こそうと意識づけて日々過ごしていました。

ーニューヨークでのターニングポイントとなる出来事について、もう少し具体的に教えてください。
ニューヨークのミュージカルでバケツやホウキなどで叩いた音で音楽を作り出す、STOMPに唯一入っている日本人女性が衝撃的で鮮明に覚えています。大学を突然退学し、英語が喋れないのにアメリカへ行くという意思決定をしたその女性は、今を積み重ねている方でした。自分が生き生きとした世界を探していた結果、STOMPにたどり着いた姿を見ると打算的に生きてきた当時の私ではこのような人生を歩めないと思いました。
そこから、インターンシップを率先して受けたり、学生団体を作ってみたりとプラスアルファの活動にエネルギーを注ぎ始め、自分がもっとやりたいことや興味のあることに自分の意思で時間を費やすようになったのはこのタイミングでした。

ーライフスタイルや行動の尺度が変わる中で、自身の心境の変化はありましたか。
楽しい時間が増えました。テニスを10年以上やっていたので、その楽しさはもちろんありましたが、プラスアルファの活動に対して熱を感じながら取り組むことがこれまでなかったので、大変なことはありましたがそれも楽しみながら頑張ろうと思えていた時期でした。

自身の価値観と現実に悩んだ新卒時代

ー大学時代を経て社会人になっていくと思いますが、就職活動はどういったところをみていましたか。
大手総合スポーツメーカーやテニスに特化したスポーツメーカーを中心に就職活動を進めていて、スポーツメーカーは最終面接まで3社進んだものの、全部落ちてたことで「スポーツメーカーに行ける術がない」と挫折を味わった時期でした。大学の誰よりも就活をしていた自信があるくらい時間を費やしていたので、今後の人生を考える上で一度立ち止まることにしました。そのタイミングで1番仲が良かった当時の友人が「ユニクロが合うのでは?」と薦めてくれたことがきっかけで会社説明会に足を運び、理念や人の雰囲気の良さから面接を受けて内定をもらい、ユニクロに入社しました。

ーユニクロでの仕事はいかがでしたか。
グローバル志向が強く、自分をモチベートしてやりたいことに突き進んでいた同期に囲まれていたので、良い出会いだったなと思います。当時は新潟に配属され、ユニクロ以外の知り合いがいない環境下だからこそ仕事にきちんと向き合えましたし、気付けたことがたくさんあったので在籍期間は半年でしたがこの会社に入って良かったなと思いましたね。

当時はスポーツの勉強をして活動をしていた時期だったので、ユニクロに入ってやりたかったことは錦織選手のマーケティングやスポーツウェアの部門でした。そんな中で店舗に入り、本部の人と話す中で様々な情報を集めた結果、スポーツの分野に関わるには最低5年かかることが分かりました。正直、そこまで頑張れる自信がなく、目の前の楽しいことを重ねていくタイプである自分が5年後のために逆算をし、今やっていくことを決めていくモチベーションの在り方が分からなくなりました。そうなった時に、なぜユニクロにいるのだろうかと考えてしまいました。悩みながら仕事しても自分がやりたい仕事に5年では辿り着けず、遠回りしてしまうと考えて辞める決断をしました。

ー楽しさを積み上げていくという自身の価値観とは違う部分があったのでしょうか。
今はフリーランスとして活動していますが、当時はイメージできておらず、フリーランスの人たちの働き方や考え方に触れたときに自分の置かれている状況の古臭さを感じ、葛藤していました。得ている最先端の情報と自分のギャップに苦しんだ時期でした。そんな私が人生初めてコミュニティ運営したのが社会人1年目で転職をしてすぐのタイミングでした。

ー転職先の仕事とパラレルでやっていたのでしょうか。
プライベートや土日の時間を活用し、Heisei Sports Communityというスポーツをテーマにした、平成世代しか入れない若手のコミュニティを作っていました。スポーツ界に熱い思いを持った人の横のつながりを作りたいという思いから、定期的な交をしたりFacebookグループでやりとりをしていました。コミュニティ活動は趣味でやっていたためお金にならないのですが、私がスポーツの業界人と元々つながっていたことので、良い若手がいないという相談を受けることが増えました。
実際にスポーツの会社に人材斡旋をするなど自分の周りで小さな変化が起こり始め、自分に対する見方も変わり始めました。色んな変化を僕自身感じる中で、アグレッシブに活動するとこんな変わり方をするんだと学びになったし、コミュニティという人のつながりが価値になることやコミュニティへのニーズがあることをを実感しました。

コミュニティとの出会いが背中を押してくれた

ーコミュニティを立ち上げながら二社目で働く中で、そこからフリーランスになるまでの道のりを教えてください。
そもそも、私はイベント会社での仕事とコミュニティ運営をする側で社会人になってフレスコボールというスポーツを始めました。そして、スポーツイベント会社からIT企業に転職した理由は、イベント会社への悩みが要因にありつつも、転職先のIT企業の社長がフレスコボールの協会の会長だったのが大きな理由です。
協会の中でフレスコボールの普及活動お手伝いをしていたこともあり、会長と出会い、お互いの人柄を知っていく中で会長から一緒に働かないかと誘っていただきました。一緒に働きたいと思える人と働きたいという思いが私自身にあったので、転職することを決意しました。
SNSのコンサルティング業務をメインとしながらフレスコボール協会の事務局長、さらには夏の三浦海岸の海の家の現場ディレクターなどいろんな経験をする中で、新卒入社した頃から「会社の仕事となった瞬間に、自分自身が鳥籠の中に閉じ込められた」と思ってしまう悩みがありました。

私は箱の中でしか生きられない感覚や窮屈感、自分の可能性の低さを感じていて、それがやらされ感に繋がっていたのをどうにかしたかったんです。自分の甘さかもしれないと自己嫌悪に繋がったり、周りからはキラキラしているように見られていたこともあり、誰にも話せない悩みでしたが、Wasei Salonとの出会いで背中を押してもらいました。
そして、仕事が決まらないままフリーランスになる決断をし、独立しました。

ーフリーランスになるという決断に踏み切れた要因は何ですか。
コミュニティの世界で生きていこうという人が少なかったのが一つの要因です。当時は、コミュニティマネージャーという言葉が社会に広がっておらず、キングコングの西野さんや幻冬舎の箕輪さんといったインフルエンサーでコミュニティオーナーをしている方にはスポットが当たっていました。一方で、マネジメントする側の人間には全くスポットライトが当たらず、やりたいという人も周りにはいませんでした。私はいかにブルーオーシャンの領域を探し、自分のポジションをとりにいくかを大事にしていたので、そのポジションが空いていると感じていました。

もう一つの要因はSNSでした。自分のTwitterのフォロワーがコミュニティを仕事にしたいと思い始めて独立するまでの間に一気に2~3千人増えたタイミングがあり、ソーシャル上でコミュニティに関する発信に対してきちんとリアクションをいただけたというのが一つの自信になりました。

ー今後どんなことにチャレンジしていきたいですか。
人がどのようなコミュニティに属することが幸福度に繋がるかを考えていくと、どうしても地域コミュニティが外せないと感じます。地域の人たちとどのように繋がりを作っていけば良いのか、そこに対してどうコミュニティを形成していけば良いのかに興味関心が強いので、そこに対する挑戦はしていきたいな考えています。実際に私も東京の高円寺に7月末から住んでいるのですが、きっかけは自分自身が地域コミュニティに入ることで色んな学びを得たいと思ったからです。最近は愛媛にも定期的に足を運んでいるので、愛媛の人と関係性を作りながら色々な可能性を探っていきたいです。

もう一つは、コミュニティマネージャーの存在価値を上げていきたいと思っています。コミュニティマネージャーの大切さに気づかないコミュニティもあるのですが、それは勿体ないし、コミュニティマネージャーを用意すれば、健全なコミュニティ運営ができるはずなのにそれに気づけていない人が少なからずいるので、そういったことを防ぐためにもコミュニティマネージャーの大切さをより伝えていきたいなと考えています。

ー最後に、これからコミュニティを仕事にしていきたいと考えている方へメッセージをお願いします。人のつながりの価値を自分で体験しておくことは大事ですね。自身のコミュニティに関する肌感覚や感覚知の蓄積がコミュニティを作っていく上で大切になると思います。
さらに、今後コミュニティを仕事にしたいという人は自分から様々なコミュニティに入り込むことが大切であると同時にコミュニティを運営することがどういうことなのかをまず知ることが大事ですね。コミュニティ運営はやってみないとわからないですし、この仕事はキラキラした部分だけではなく泥臭い部分や人間力が試される部分もあるので、体感する意味でも既存のコミュニティに入って運営に関わっていくのがベーシックな生き方だと思うので、ぜひコミュニティに触れて欲しいなと思います。

取材者:高尾 有沙(Facebook/Twitter/note
執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter
デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter