難病、高校中退。家の階段を登れなくなった少女が、期待を超えて走り続けるWEBプランナーになるまで【FREE WEB HOPE 黒須仁美】

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第77回目のゲストは、株式会社FREE WEB HOPE プランナー・黒須仁美さんです。

人材紹介事業会社を2社経験した後、Webマーケティング会社という畑違いの領域に挑戦した黒須さん。そもそも、大学時代までは教員になることを夢にしてきたそうです。「体力だけしか取り柄がないんです」と笑う彼女からは、決して体力だけではない様々な魅力が見えてきました。「20社以上から引き抜きの誘いがあった」黒須さんが、なぜそんなに企業からモテたのか、人生の分岐点の振り返りからその魅力に迫ります。

 

5歳で気付いた「マイノリティ戦略」

ー本日はよろしくお願いします。まずは黒須さんの経歴と、現在のお仕事を教えてください。

黒須仁美です。2017年に、外国人に特化した人材紹介会社に新卒入社しました。そこでは、営業の他に、新規事業開発や新卒採用の経験も積みました。退職した後に、教育系スタートアップ企業での社会人インターンを経て、2018年8月にスタートアップの採用支援をする株式会社ポテンシャライトに転職します。1年半の在籍期間で、20社以上の外部人事として働いていました。

現在は、「LPに鬼強い」会社のFREE WEB HOPEでプランナーを務めています。FREE WEB HOPEは9期目のベンチャー企業で、創業時からの事業であるランディングページ(=以下LP)制作をメインに、様々なマーケティング施策をクライアント企業に提案しています。その中で、プランナーはデザイン以外のLP制作にまつわる過程のすべてを行います。ウェブディレクターという職種がイメージとしては近いかもしれません。 

ー黒須さんは、Twitterでの会社や仕事に関する発信が印象的です。すっかりプランナーとしての色が付いているように思えますが、学生時代は教員を目指し、教員免許も取得しているそうですね。現在に至るまで、幼少期から遡ってお聞きしたいです。

一番最初の人生の転機は、5歳で始めたサッカーでした。当時は今ほど女子サッカーがメジャーではなかったので、コーチから「このまま続けたら日本代表になれるよ」と言われていました。振り返ると、サッカー自体も当然好きだったのですがそれ以上に「サッカーやってる女の子がいる!」と言われることの方が好きだったんじゃないかと思います。

そのとき「人がやっていない選択をすると注目される」ということを知り、その後の人生において潜在的に市場価値が上がる選択をするようになりました。はじめてのマイノリティ戦略です(笑) 

ー5歳からすでにご自分を客観視していたんですね。その後もサッカーを続けられるんですか?

小学校に入学して、勉強との両立が難しくなったことからサッカーは辞めてしまいます。しかし、その後、学内のマラソン大会でビリから二番目になってしまったんです。それがとても悔しくて「これ、本当のわたし?」と疑ってしまうほどでした。悔しさで泣き崩れる私を見かねた、母は「バスケをやったら一番がとれるよ」と言ってくれたんです。母も昔、バスケをしていて、娘にもやらせる口実が欲しかったんでしょう…感謝はしていますが、まんまとはめられました(笑)

そういった経緯があって8歳からバスケを始めることになりました。「バスケをしている自分が好き」という感覚はあったのですが、純粋にバスケというスポーツに熱中していたのかと聞かれると、少し欠けていたかもしれません。地元茨城ではそれなりにネームバリューのあるチームで、キャプテンも務めましたが…地区選抜のセレクションに落選。そのときに「私に足りない部分って、熱意なのかもしれない」と気付かされたのです。

中学進学と当時に「もうこんな悔しい思いはしたくない、中学では全員見返す」と闘志が剥き出しになっているタイミングで、恩師と出会い、価値観が大きく変わります。

「The 熱血教師」という感じではなく諭す系の恩師だったのですが、とてもバスケに対して誠実な先生で「ちゃんとやりなさいよ」と諭されたんです。「私に足りないの熱意を振り立たせてくれる先生の期待に応えたい、圧倒的に成長したい」と思い、髪も坊主にしました。恋愛にも興味をもつ多感な時期だったので、バスケしかしないという決意表明でした。他人の3倍練習しご飯も1日6食とって、とにかくバスケ一筋で過ごしたのが中学時代です。

 

生きる理由を見失った闘病生活

ー女性で坊主頭にされるというのは、ものすごい熱意の現れですね。高校に進学してからも、もちろんバスケを続けられたのでしょうか?

私立高校のスポーツ科に、バスケの推薦で入学することにしました。「お前は大化けする。絶対大成させる」と顧問の先生から強く口説かれたことを今でも鮮明に覚えています。また、そんなに裕福な家庭ではなかったのですが、入学金と学費を免除してもらえるということにも惹かれました。

しかし、その前から身体に不調が表れ始めていました。受験勉強をしている間、突発的に体温の急上昇が起こったんです。これが1ヶ月に一回くらいのペースで発症していて「休みながらやっていかなきゃ」くらいにしか思っていなかったのですが、合格発表を聞いたその日に病院へ行き、そのまま緊急入院しました。

その後、検査を重ね、10万人に1人の割合で発症する国が指定している難病だと分かりました。ストレスで高熱が出て、関節が曲がってしまう、という病気です。当時、医者には「完治することはありません」と伝えられました。

ーバスケをすることを前提として高校進学が決まっていたタイミングで、ご病気になられたんですね…。

すぐに治療が始まり、1か月半入院をすることに。ステロイド剤を摂取して、副作用で驚くほど顔が腫れ上がりました。髪もちょっと抜けたりしてたかも…。逆に、ご飯が食べられずに身体はみるみる痩せ細っていきました。15キロ以上、体重が落ちました。身長が160センチなのに対して、当時は34キロ程しかなく…。

遂に家の階段を登れなくなったとき、「わたしは、人として生きられないのかな」と絶望しました。それまでの人生、ずっとバスケに集中してきました。でも、階段さえ登れない身体になって、「わたしは今後、何を頑張ればいいんだろう…」と、生きる理由を見失っていたんです。

とにかく熱心にバスケをやって、いつ死んでもいいくらい、自分自身をとことん追い込んでいました。でも、いざそういう局面に立つと、後悔がたくさん浮かぶんです。「あのとき先生にちゃんと返事をしたらよかったな」とか、試合や何気ない練習風景が、映像になって次々と襲い掛かってきます。気がおかしくなってしまうんじゃないか、そんなふうに思っていました。

私は「何者か」になりたくて必死に頑張っていたけど、結果的に普通の生活も送れなくなってしまったんですね。「普通に生きることが一番難しい」ということを学びました。 

周囲の声を振り切り、自分の夢へ

ー大病を患い、高校進学はどうなったのでしょうか?

入学はしましたが、結論ほとんど学校に行けてなかったですね。バスケ部は休部しながら、入退院を繰り返すリハビリの日々です。1年生の1月にプレイヤーとして復帰はできたのですが、本調子ではないので休むことも多く…2年生に上がるタイミングで自主退学しました。

辞めたときは、周囲が様々なことを言ってきましたね。陰湿な人や、冷たい人の多さに驚いた程です。「罰が当たった」「イキってただけじゃん」他人にそんなふうに言われるわたしの人生をどうやって肯定すればいいのかを考えた結果、出た答えは「自分を肯定できるのは自分だけだ」という答えにたどり着きました。

自分の人生を肯定できるのは自分だけだからこそ、人は孤独なんです。そして内発的な動機だけで自分を奮い立たせられるほど人はそんなに強くない。だからくすぶっている人たちを肯定して奮い立たせることが使命なんじゃないかと思いました。

また、わたしを変えてくれたのは、中学で出会った恩師でした。何度も恩師の言葉に救われました。そのとき、「教員になろう」と決めたんです。 

ー高校から離れ、今後を考えていた黒須さんの方向性を導いたのが教員という夢だったんですね。

「大学へ進学して、教員になる」その夢が原動力になりました。高校中退後、3か月経った頃に、新薬が開発されたんです。そのおかげで、高校3年時には、普通の人と同じように動けるようになっていました。

それからは、朝に通信制の高校で学び、昼から夜までアルバイトをして、帰ってきてから衛生予備校の教材で勉強する…これの繰り返し。蓋を開けてみれば、勉強する時間よりもバイトしてる時間の方が長かったですね。金銭的にも学力的にもほぼマイナスからのスタートでしたが…お金がなくて大学に行けない方がダメージが大きい気がしたので、正しい判断だったと思います。「教師になる」と目標を掲げた以上、とにかく大学に行かないことには夢を叶えるための土俵にも立てないですからね。

そして、教師として希少性を高めたいと思っていたので日本語教師の免許も取得できる外国語系の大学に合格して…そのときも「馬鹿でも行けるところじゃん」と揶揄されましたね。

たしかに誰もが知っているような有名な大学ではないですが…自分の意志があって決めたことに対してとやかく言われるのが本当に許せなかったんです。どうしてこんなに他人の人生に干渉したがる人が多いのでしょうか?その頃には、「自分の人生を生きた方がいいのに…」と思っていました。

 

社会のことを見てきた大人として教員になりたい

ー教員への夢に近づいたわけですね。大学生活はどうでしたか?

高校3年間、勉強だけをするということが叶わなかったので、とにかく勉強ができるというだけで楽しくてたまらなくて…日本語教師免許や教員免許をとっていたこともあり、卒業要件の124単位を上回る176単位も取得しました。「え、大学生ってそんなに学校行くの?w」ってよく言われていましたね(笑)

また、バスケ部も創部して、千葉選抜メンバーにも選ばれました。いつか復活しよう、と、高校時代も社会人サークルの練習に混ぜてもらっていたので、嬉しかったです。

 

ーバスケもできるようになり、教員免許も取得し…入学時の目標が達成されたわけですが、なぜ、教員の道を歩まなかったのでしょうか? 

就職という道は、教育実習がスタートする4年生の5月まで、すこしも考えていませんでした。その頃、周りの友人の内定が決まったという話を耳にするようになって、はじめてその選択肢が浮かんだんです。「もし、やっぱり教員じゃなかったと気付いたとき、わたしはどうするんだろう?」と考えました。また、社会人経験もない若手が、教育業界に行っても大きなインパクトは与えられないというのは、想像に容易いものでした。

教員免許は、10年間有効です。「わたしが学生の立場なら、社会のことなんにも分からない大人に、将来の話なんかされたくないな…」そう思って、就職活動をすることにしました。

ゆくゆくは教員になることを前提とした就活だったので、ただただ早く経験を積める会社を求めていました。内定を2,3社いただいていたタイミングで、たまたま外国人向けの人材紹介事業をしている会社と出会ったんです。「ここだ!」と感じて、受けると決めた段階で、他社の内定は辞退しました。 

ー「この会社に入社するぞ」という気迫を感じますね。決め手はなんだったのでしょうか?

わたしが受けていた時、創業2年目のタイミングでした。まだ外国人向けの人材紹介業界が飽和状態になかったため、第一想起を獲得できるチャンスがあったんです。業界で一番になる経験がしたい、と思い、決めました。 

人の人生に触れる仕事だからこその苦難

ーそうして教員ではなく会社員としての新しい生活がスタートしたんですね。

実際に入社してみると、外国人の雇用問題に関する法律が大きな障壁としてありました。また、多くのHR業種に従事している方が抱く悩みだと思うのですが、売上と思想のバランスがとれなくなることに苦しみました。

人材紹介は、人の人生に関わる大事な仕事です。けれど、会社なので、月末になれば売上目標を達成するために、無理にでも斡旋しなければならない…。心がある人が、商材になっているというのは、時として苦難を感じる種になりました。

それで、あまり数字を上司から追求されないように、他の部分でバリューを出していこう、と動き出したんです。新規事業として外国人研修プログラムの開発や、新卒採用など、業務の幅を広げていきました。そうやって、営業で成果が出なくても怒られない口実を作っていたんです。自分なりに試行錯誤しましたが、営業は向いていなかったのかなと思います。今考えるとただただ実力不足で、できない言い訳をしていただけなんですけどね。 

ー2社目の株式会社ポテンシャライトに転職したきっかけはなんですか?

1社目の人材紹介会社を辞めて、就職を前提として教育系スタートアップ企業で社会人インターンをしていました。そのときも営業で、テレアポもしながら、TwitterのDMでベンチャー企業の方にアポをとっていたんです。ポテンシャライトは、そうやって出会いました。

スタートアップの採用支援事業をしており、取引先企業がまさにターゲットとするようなベンチャー企業ばかりでした。コネクションを築ければ、複数社の紹介が見込めると思ったんです。そうして、代表の山根一城さんにDMをしました。

 

ーその結果、逆に黒須さんが引き抜かれた、というわけで。

そういうことになりますね(笑)夜の11時半くらいにDMを送って、「黒須さんって今、何をされているんですか?」「では、明日の朝7時に会いましょうか」とすぐに直接会う機会を設けてくださいました。朝にお話をして、その夜に再度会うことになったんです。私も営業臭を出さないように、そしてせっかくの機会なのでありがたいお話を聞こうとしていたのですが、気付いたらポテンシャライトと山根さんに魅了され…最後にはクロージングされてました。山根さんにとって、その時点ではわたしはなんの価値も発揮していませんでした。それなのに必要としてくださったことに胸を打たれて、決断しました。

事業内容も興味深かったですし、人事の仕事はキャリアステップとしても魅力的たっだので、即決でしたね。

ー入社してみて、前職との違いはどのような点にありましたか?

1社目は営業に強い会社で、どんどん新規開拓を行っていました。一方、ポテンシャライトは創業時から全く営業は行っていないのです。案件は、インバウンドで舞い込んできました。そんな中で、「自分の経験で活かせるものはなにもない…?」と痛感しました。ポテンシャライトは採用に関することは何でもやる会社です。なので、わたしも広い知識をつけるためにとにかく勉強して、活躍できるように精進しました。

山根さんは1の質問に対して、1000の答えを返してくださるような方だったので、環境にとても恵まれましたね。その頃に、Twitterアカウントをビジネス用に使用し始め、仕事のことをつぶやくようになっていきます。

一生続けられる「動詞」を仕事に

ー複数の企業の外部人事としてご活躍なさっていて、順調なキャリアステップだったと思うのですが、どうして全く違う業界であるFREE WEB HOPEに転職されたのでしょうか?

在職中、「うちで人事をやりませんか?」と20社程お声がけしていただいていました。けれど、わたしはポテンシャライトの役員になって、骨を埋めるくらいの気持ちでいたんです。純粋に、他社へ移るイメージをしてもわくわくしませんでした。

2019年11月にFREE WEB HOPEの代表である相原と出会いました。出会う前に、わたしの採用広報に関するnoteを読んでいたみたいで、「うちにぜひ来てほしい」と考えていたようです。もし、相原からHRとして誘われていたとしたら、わたしは断っていたでしょう。でも、彼からの提案は、「プランナー」でした。 

ポテンシャライトでの仕事に不満はありませんでした。業界で第一想起を取れているし、自分の知名度も少しずつ上がっていたし、何より仕事そのものがおもしろい。

ただ、自分の中では少し考える部分もありました。正直、他の会社で活躍できる自信がなかったんです。ポテンシャライトの仕事は難しいけどやりがいのある仕事ですが、ポテンシャライト以外で活躍しているイメージが沸かないことへの恐怖は常々感じていました。

年齢も20代半ばを迎えたところ。「全く違う業界、だけど、活かせるスキルはある。業態、業種、どちらも未経験での挑戦ができるのは、今が最後かもしれない」そういう思いで、全く考えていなかった転職という道を選びました。

ー相原さんからのオファーで、特に魅力的だったのはどこですか?

仕事内容に関する部分でいうと、「書くことが仕事になる」ということです。LP制作ならコピーライティングが要りますし、ホワイトペーパーの執筆も行っています。

これまでの経歴で、すべて自分の好きなことを仕事にしてきました。外国人に関わる事業、キャリア教育…ただ、そのためのテレアポの営業などの手段、それ自体は好きではありませんでした。「名詞」で仕事を選んで、「動詞」は考えていなかったんです。「わたしが一生できる、やりたい動詞ってなんだろう?」それが、書くことでした。昔から作文が得意で、大学の数あるレポート課題をクリアーした経験から、書く体力も十分にありました。

実際に、FREE WEB HOPEに入社して、苦しみながらも自分にフィットした仕事ができているなと感じています。

ー環境を大きく変える挑戦だったかと思いますが、今の黒須さんからその選択が良い方向に働いたことが感じられます。FREE WEB HOPEでの目標はありますか?

マイルストーンを置くことはしていません。5年後、10年後、どうなっているか分からないからです。もしかしたら、いまの事業がなくなっている可能性だってあります。

ただ、わたしは目の前のやらないといけないことに対して、常に価値を発揮していきます。

先ほど「相原からのオファーで魅力だった点」について質問がありましたが、仕事内容以上に実はミッションに惹かれて入社を決めています。

FREE WEB HOPEの企業理念は「期待を超える」。なんの仕事をしていたとしても、要求された以上の価値を提供したとき、お客様も気持ちが良いし、わたしたちも気持ちが良い。わたしは、人の想いに共感し、一緒に走ることが得意です。なので、課題を解決して、期待を超え続けていきます。

あと、これはFREE WEB HOPEというより、わたし個人が成し遂げたいことになりますが、人々の「心の貧困」をなくしたいですね。「心の貧困」とは、物質的な貧富に関係なく幸せを感じられていない状態のことを指しています。

自分のことを肯定するのは自分だけという話にもつながるのですが、心が貧困だと想像力が乏しくなるんですよね。そして他人がうらやましくなり、嫉妬が生まれる。嫉妬から自己肯定感が下がり、最悪は誰かを攻撃する。ただ、これって自己肯定感の低さからくる現象なので、誰も悪くないんです。

本来、何で心満たされるのかは人それぞれで、学歴が高いことやお金持ちであることが一般的に「幸せ」と捉えられがちです。

わたしの場合、高校を中退していることはコンプレックスではありますが、自分の好きなことが仕事になり、自分のミッションに共感してくれる人たちに出会い、本当に楽しく生きています。

ずっと一つの夢を追い続け、叶える人は本当に素敵だと思いますし、尊敬しています。ただ、夢を軌道修正しながら頑張る人も同じくらい尊いと思うのです。

他のインタビューでも言っていますが、自分の幸せの尺度を他人に委ねずに自分で決めて、それに向かって人生の舵を切る人を一人でも増やしたいです。

何年後になるかはわからないですが、いずれは、人々の自己肯定感を上げられるような「心の貧困をなくすプラットフォーム」を作りたいですね。それは組織を作ることなのかプロダクトや空間を作ることなのか…まだ何も着想してないですが、そんなふうに思っています。

ー黒須さんの真っ直ぐな格好良さに、オファーをしたくなる気持ちが分かりました。本日はありがとうございました。

取材:西村創一朗(Twitter
執筆・編集:野里のどか(ブログ / Twitter