女性ビジネスアスリート“はるはる”こと本庄遥に聞く人生の目標とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第299回目となる今回は、フリーソフトボール選手本庄遥さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

「常に人生の主人公は自分」そう語る本庄さんの半生やこれまでの人生のストーリーについて詳しくお伺いしました。

きっかけは友達の影響。ソフトボール一色の学生時代

ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

現在、ソフトボール選手として活動をしながら、2つの会社でパラレルワークをしている本庄遥と申します。

英語学習の習慣化で人生を変える「90 English」の執行役員、ホテルや飲食店の空きスペースをワークスペースとして使える「ワークスルー」マーケティング責任者として活動をしています。また、スポットではありますがフランスのルーブル美術館に出展される方のプロジェクトマネージャーも。

自分が本気で広めたいと思ったサービスや人に対して、広めていきたい、何か力になりたい気持ちで活動しています。

ー「ビジネスアスリート」の肩書きは珍しいと思うのですが、具体的にどのような活動をされているのでしょうか?

世界中でソフトボールをしたり、日本国内では実業団の助っ人をしたりしています。また、ピッチング指導や小学校などの講演会も行っていますね。

ビジネス面では、ソフトボールをしている時間以外を当てて、マーケティングを中心に様々なスキルを高めながら働いています。

大学4年生になるまでは、ずっと日本でソフトボールをしていました。引退と同時にオーストラリアに留学したんです。現地でソフトボールをしたとき「ただ、楽しいからソフトボールをしている」本来あるべき姿を思い出し、原点回帰することができました。海外に留学したことで、国内外問わず色々なチームでソフトボールをしてみたいと思うようになったんです。

その経験がきっかけで、自然と今の働き方に繋がりました。

ーソフトボールを始めたきっかけをお伺いできますか?

平日は学校のクラブ活動で陸上や球技、土日はソフトボールをしており、活発に過ごしていました。

小学校の2年生になる少し前に学童保育に通い始めました。学童保育で仲良くなった2つ上の友達がソフトボールをしていて、誘ってもらったことでソフトボールを始めました。

「ソフトボールがしたかった」よりは仲良くなった友達と土日も一緒にいるために始めたことがきっかけでした。

ー他にもクラブ活動や習い事などされていたようですが、その中でもソフトボールをずっと続けることになった理由やエピソードはありますか?

小学校6年生の時にソフトボールの大会があり、他の学校の方と交流する機会がありました。

大会で他の学区の方と交流し、一緒に戦ったメンバーと中学校に進学してもソフトボールをしたいという気持ちが芽生えました。

もともと進学する学校にはソフトボールがなかったので、あのとき6年生大会に出場していなかったらソフトボールはやめていたかもしれません。

その後も、中学から高校、高校から大学など、ソフトボールを続けるか続けないかの節目の時になんだかソフトボールに引っ張られる感覚がありました。

ー高校ではインターハイに出場されているようですが、高校での詳しいエピソードをお伺いできますか?

私が通っていた高校は入学した当初創立2年の高校で、実績はこれから一緒につくっていくチームでした。ソフトボール部の監督が有名な監督で、その方に教えていただきたい気持ちが強く、入学を決めました。

結果インターハイで優勝の好成績を残すことができました。岡山県としても本県からインターハイ優勝校が出るのは初めてだったようです。

ーすごいですね!インターハイで優勝してみて感じたことはありますか?

1番によかったところは目標達成ができた点ですね。ただ、日本一になったあと「日本一になって目標を達成したあとどうなりたいか」が固まっていなかったので、燃え尽き症候群のような状態にはなりました。

原点に戻って、「なんで優勝したかったのか」を考えた時に、「1回でも多く今のメンバーとソフトボールがしたい」が根本にあることに気づきました。もちろん勝ちたい気持ちもあるのですが、優勝ではなくても、今のメンバーでソフトボールを長くできるように活動しようというところに落ち着きました。

また、高校から大学に進学する際にも、軟式から硬式に変わることでまた別の競技として臨むことでモチベーションにも繋がりましたね。

怪我をして価値観がポジティブに変わる

ー大学1年のときに練習を積まれてた時に、怪我をしてしまうんですよね。

そうですね。1年生だったことや期待を背負っていたこともあり、違和感を感じた時点で言いだせなったんです。シーズンが終わるまで頑張っていたら、結果ほとんど肩が上がらない状態になってしまい、半年間お休みをしました。

その後何度か、怪我と完治を繰り返す中、オーストラリア留学時に出会った鍼灸の先生のおかげでほぼ完治することができました。その後の大会はかなり高いパフォーマンスを出すことができたのでその先生にはとても感謝しています。

また他の先生にもみてもらい、今は完治しており、人の出会いの大切さを感じました。完治する前はとても悩んで落ち込んでいて、家で1人で泣きじゃくった日があったりもしました。

当時は実業団で高いレベルでプレイをしたいと思っていたのですが、怪我をしてしまったことでこのままソフトボールの表舞台に立てないのでは?と思ってしまったんです。目標がなくなってしまったことや、ソフトボールができない自分に価値が見いだせなくなってしまいましたね。

しかし、怪我をした経験があったからこそ、今のパラレルな働き方に繋がっていると思っています。怪我をしていなければ、私は今頃実業団に入ってソフトボールをして、そのまま引退して就職をする……とすでにあるルーツの上を歩いていたと思うんです。

怪我をきっかけに自分の価値をソフトボール以外にも見出すために、海外に行ったり、ソフトボールがない自分でも自信を持って仕事ができるようになりました。そういった点に関しては、あの時の怪我をして本当に良かったなとプラスに捉えていますね。

ー留学をしようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?

ソフトボールの世界大会での成績をみて、留学をしてみたい気持ちはずっとありました。

インターハイで優勝すると日韓交流戦に出れるシステムがあったのですが、試合をする前は自分が海外の選手に通じると思っていなかったんです。しかし、試合では海外の選手に認めてもらえるくらいいい成績をおさめることができ、もっと自分の力を試してみたいと思うようになりました。

ピッチャーとして通用するのかを、確かめに行きたいと思い留学を決めました。

ー実際に留学をしてみて、考えが変わった点はありますか?

1番印象に残っているのは、選手のスキルを身長や体格で判断をしない点です。

悪気はないとは思いますが、日本人の多くのコーチや監督に「身長が低いのにすごいね!」と言われてきました。しかし、海外では体格や身長関係なく「自分自身」を見てくれているのがとても心地よかったですし、ありがたかった点ですね。

ー留学を経て、ビジネスアスリートの道を選んだ経緯をお伺いできますか?

留学時から色々な社長さんの話を聞く機会が多く、自分の中でノウハウが溜まっていきました。また、今まで年下にみられることが多かったのですが、いつの間にか話し方や振る舞い方から年上にみられることが多くなり、まわりの社長さんから一緒にビジネスをしよう、と誘われることが増えてきたことでビジネスの道に踏み込んでいきました。

今まで「ソフトボールがこの世で一番面白いことだ!」と思っていた状態から、「仕事ってこんなに楽しかったんだ」と感じるようになりましたね。

私みたいに怪我をしたり、セカンドキャリアを考える時に、自分が知ってる中の世界とはまた違う世界があることは知っておいてもいいなと思いました。

常に人生の主人公は自分。常に発信することを意識する

ー事業を進めていく上で、本庄さんが大切にされていることはありますか?

1番大切にしていることは自信がワクワクするかです。代表の熱量が高いというのは前提ではありますが、それと同時に自身が当事者意識を持っているかどうかも大事にしています。

あとは、プロダクト自体が心の底から家族や友だちに勧められるものかというのも重要なポイントですね。

ー今後の本庄さんの展望をお伺いできますか?

今はまだ、アスリートとビジネス両方やっている方って少ないと思うので、そういった「新しい生き方もあるんだよ」と伝えていきたいです。自分の楽しいことを追求して生きていきたいと思っていますね。

また、「スポーツ×ビジネスと行ったら本庄遥」と言われるような、実績を残していきたいと思っています。

ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の本庄さんのご活躍楽しみにしています。

取材者:中原瑞彩
執筆者:ゆず(Twitter
デザイナー:高橋りえ(Twitter