内気な学生が「なんでも屋」を創業!谷中駿太がコミュニティを重視する理由

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第346回目となる今回は、富士通株式会社に勤めながら困っているお年寄りと学生を繋ぐプラットフォーム「なんでも屋ナイス谷中」の代表として、パラレルに活動する谷中駿太さんです。

中学生でホームステイ、高校生でボランティア団体の会長、そして大学生で起業と華やかな経歴を持つ谷中さんですが、実は内気な性格で登校拒否をしていた時期もあるんだとか……。試練が訪れたとき、谷中さんはいつも「コミュニティ」の力に助けられていたのだそうです。

コミュニティに助けられ、徐々にコミュニティを作る側に。そんな谷中さんの半生に迫ります。

周りの大人に支えられた、シャイで内気な少年時代

ー大学在学中に起業し、富士通に就職した現在も会社員と起業家の二面性を持つ谷中さん。ユニークなキャリアを歩んで来られている印象ですが、幼いころの経験や家庭環境からの影響はあるのでしょうか?

家庭環境の影響は大きいですね。自分の父親はNPO法人を立ち上げて、現在は顧問をしているんです。幼いころは、父の仕事に着いていくことがよくありました。

そんな父の姿を見ていたからか、成長するにつれて自分も「自分自身が主体となって何かを成し遂げたい」という思いが強くなっていったんです。大学に入ったころ、ちょうど学生起業が流行っていて……。自分もチャレンジしたい!と思ったとき、父が背中を押してくれました。

世間的にはリスキーとされることでも、「失敗してもいいからやってみな!」と応援してくれる人が身近にいたので、チャレンジする環境としては恵まれていたのかなと思います。

ーお父さんの影響を大きく受けているんですね。谷中さんは「なんでも屋」を謳っているだけあって、コミュニケーション力がすごく高いと感じるのですが、昔からそうなのでしょうか?

いえ、実は小学生低学年のころに保健室登校をしていた時期があるんです。いじめに合っていたとか、友達がいなかったとかではないんですけど……。

自分、元々はすごく内気な性格で、人とコミュニケーションをとるのが怖かったんですよね。場に馴染むのに人の倍時間がかかるタイプでした。小学校に入ると、突然「初めまして」な人達と無造作に教室に詰め込まれて、同じスケジュールをこなしていくじゃないですか。自由だった幼稚園までとは異なる環境に、なかなか順応できなかったんです。

ーすごく意外です……!どうやって乗り越えたのでしょうか?

当時の教頭先生が、とても寄り添って話を聞いてくれる方でした。学校が辛い、教室に入るのが怖いと話す自分に、

「無理に教室に行かなくてもいいんだよ」
「谷中くんが安心して、楽しめるのが一番だよ」

と優しく語りかけてくださいました。

教頭先生は、自分だけじゃなく両親にも根気強く話してくれていたみたいで。「周りに説得されたからしぶしぶ登校するのではなくて、自分から登校したいと思えるタイミングまで待ってあげてください」と言ってくれる大人が身近にいることで、当時はとても救われましたね。

教頭先生の言葉どおり、小学校3年生になるころには学校に慣れてきて、人との関わりが増える5、6年生のころには「学校って楽しい!」と思えるようになりました。

みんな違ってみんないい。これまでの価値観が変化したアメリカでの経験

ー谷中さんのことを理解して、タイミングを待ってくれる人がいたんですね。「内気な性格だった」とおっしゃる谷中さんですが、その後、中学生でホームステイのためアメリカに訪れていますよね。そこにはどんなきっかけがあったのでしょうか?

2、3歳のころから、多言語教室に通っていたり、実家がホームステイの受け入れを行っていたりしました。そんな環境で育ったので、あたりまえのように自分も中学生になったら海外に行くものだと思っていたんですよね。

でも、すでにお話したとおり自分はすごく内気な性格なので……。いざ現地に行くと、言葉もわからないし、食事も合わないしで最初の数日は散々でした。渡米して2、3日は食事が喉を通らなかったほどです(笑)。そんな自分に、受け入れ先の家族がすごく良くしてくれて。普段の生活のサポートの他、1週間ボーイスカウトの体験をさせてもらえる機会があったんです。

10歳から20歳くらいまでの学生が大勢集まって、自然豊かな環境で焚火をしたり、勉強をしたり。そんな中で「発信することの大切さ」を実感したんです。

ボーイスカウトに参加した当初、内気な自分は周りの目を気にして全然発言ができませんでした。でも、自分以外の学生は躊躇なく意見を発信する環境。徐々に、「何も言わないと自分だけ取り残される!」と焦りが出てきたんです。

それから少しずつなんですけど、自分の気持ちを発言するようにして……。たとえば、何して遊びたいか決めるときに「自分は鬼ごっこがしたい!」と発言するとか(笑)。些細なことなんですけど、自分の意見を遠慮なく言って、それが許容される環境にカルチャーショックを受けたんです。

それまでの自分は「みんな同じじゃなきゃいけない」と思っていました。だから、本当は行きたくない学校にも行かなきゃいけないし、行きたくないと思うのがそもそもおかしい。でも、それがすごく息苦しかったんです。ボーイスカウトの経験で「自分の意見を口にしてもいい。みんな違ってみんないい」と思えるようになりました。

1ヶ月という短期間のホームステイでしたが、間違いなく自分のターニングポイントとなりましたね。

高校生でボランティア団体の会長に就任。人との関わりの難しさ、大切さを学ぶ

ーホームステイでの経験が谷中さんの価値観を大きく変えたんですね。それからしばらくして、高校生のときにボランティア団体の会長に就任されますが、その経験の影響が大きいのでしょうか?

いえ、実は流れで会長に就任したというのが正直なところで……(笑)。もちろん会長の経験は、結果として今の自分を形成するうえで大事なものになっています!

自分が会長に就任したのは、小学生の課外活動のお手伝いをするボランティア団体。中学生にあがったころから、団体を運営する教育委員会から「会長にならないか」と声をかけていただいていました。

当時自分が住んでいたところは、神奈川県の湯河原町という田舎で、町民全体の運動会が開催されるような、横のつながりが強い町。そこで自分は小学生のころから地域の活動に参加していました。最初は親に連れられて仕方なく参加していたのですが、参加すると周りの大人たちが褒めてくれるので、それが嬉しくて部活のある日や休日にも積極的に参加するように(笑)。そして、自分の地域だけでなく、徐々に他の地域にも活動の幅を広げていました。

小学生のころは自分以外の生徒も活動に参加していましたが、中学生以上で参加する学生はほとんどいなくて。そんな自分を見て、教育委員会の方から「会長にならないか」と声がかかったのかなと思っています。自分の活動を見て、認めてくれたことは素直に嬉しかったですね。

でも、ボランティアと聞くと真面目で積極的な学生が参加している印象で……。自分は保健室登校をしていた時期もあるし、そもそも内気な性格。荷が重いなと思い断ってしまいました。

そんな経緯があるにも関わらず、中学入学当初から卒業するまでずっと声をかけ続けてくれて。中学卒業間際、「自分にもできることがあるのかもしれない」と会長にチャレンジする決意をしました。

ー高校生でひとつの団体の会長に就任するのは覚悟が必要だったかと思います。具体的にはどんなことをされていたのですか?

小学生を対象として、机に向かってする勉強以外の活動を幅広くサポートしていました。たとえば町の防災マップを作ったり、キャンプに行ったり。普段の教室とは異なる場所で同級生以外の人たちと関わり、さまざまな活動を通じて人間性を育くんでいく。そんな目的のもと運営していました。

団体にはたくさんの小学生が所属していて、自分は会長としてあいさつする場面がよくあったのですが、内気な性格なため最初はすごく緊張しましたね。お腹が痛くて途中で帰ったこともありました(笑)。

そんな自分をサポートしてくれる大人が何人もいて。人前で話す練習に何度も何度も付き合ってくれたんです。そのおかげで、内気な自分でも徐々に大勢の前でも話せるようになりました。

その他にも、団体のメンバー集めからチームのマネジメントなど、たくさんのことを経験しました。特にマネジメントは最初のころは全然できなくて、悔しい思いをたくさんしました。スキルをつけたくて、親から勧められたマネジメントに関するビジネス書を読んだり、大学の講義を聴講したり……。そうしているうちに、他の市と連携したプロジェクトを任せてもらえるようになったりと、少しずつですが活動の幅が広がっていったんです。

会長を始めた当初は、本当に何もできなかった。でも、たくさんの人に支えられて、やり遂げることができました。高校生ながら、とても恵まれた環境で経験を積むことができたと思っています。

草木が生い茂っている豪邸を見て、地域コミュニティをつくろうと思った

ー充実した高校生活だったのですね。大学では経営学科に進学していますが、高校時代の経験は影響しているのでしょうか?

ボランティア団体の経験を通じて、一人じゃ何もできないことに気が付いたんです。それで、コミュニティやマネジメントを学びたいなと思い、経営学科を志望するようになりました。

その後無事に大学に合格し、ベンチャーファイナンスのゼミに入ったり、インターンに参加したりしました。そのうち「自分でも起業したい!」と思うようになったのですが、お金もない、スキルもないという壁にぶち当たって……。

そこで思いついたのが「なんでも屋」だったんです。自分が通っていた大学の近所は、土地柄裕福なご家庭が多いところ。でも、草が生えっぱなしだったり、庭先の電球が切れていたりする家をよく見かけたんですよね。地元の湯河原町ではそういった家があると、近所の人たちがすぐにお手伝いに駆けつけるような横の繋がりがあったんですが、ここではそれがなかった。

それなら、自分がお手伝いしよう、コミュニティを作ろう!と思ったんです。ホームセンターで草刈りの鎌とちり取りを購入して「草むしりさせてください!」と営業をかけ始めました。これが「なんでも屋ナイス谷中」の始まりです。

ーすごい行動力ですね!その後「なんでも屋」はどのように拡大していったのでしょうか?

なんでも屋を始めてしばらくして、近所の家の草むしりだけだと事業として成り立たないと気付いたんですよね。そこで、便利屋業を検索してヒットした会社に上から順番に電話をかけて「便利屋を始めたいので勉強させてください、弟子にしてください!」と頼み込んだんです。

ありがたいことに、そんな無鉄砲な自分の話を聞いてくれた会社がいくつかあって……。そこでたくさんのことを学ばせていただきました。

ひととおり修行した後は、お客様を増やすために早朝のお寺に行って、参拝に訪れる方々に名刺を配りまくりました。なんでも屋の主なお客様はご年配の方が多かったので、そういった方が集まる場所・時間をリサーチして集客したんです。

そのうち、困っているのは横の繋がりがないご年配だけじゃないことに気が付いて。周りの学生で「やりたいことや夢はあるけど、実現するお金がない」と足踏みをしている人がたくさんいました。

お金はあるけど日常生活で困っているご年配の方と、お金はないけど体力はある学生とのマッチングができれば、両者Win‐Winなんじゃないかと思い、大学2年の終わりに「なんでも屋ナイス谷中」を起業しました。

現在では、マッチングサービスの他にも営業支援や採用支援、そしてWeb制作なども行なっています。

「やりたい」を実現できる人を増やしたい

ー現在谷中さんは、富士通株式会社で働きながら「なんでも屋ナイス谷中」も継続してパラレルな活動をされています。今後の展望はありますか?

2つあります。

1つ目は、やりたいことを実現している人が1人でも多い社会を作りたい。自分がやりたいことができていない状態って、ものすごく辛いと思うんです。自分の活動を見た人が「谷中のように、なんでも屋をやったり会社員をやったりと、自分の気持ちに正直に人生楽しく生きることもできるんだな」と思ってもらえると嬉しいですね。また、「やりたい」を実現できるような教育活動やサポートもしていきたいと思っています。

2つ目は、水のように生きたい。水って、四角い容器に入ると四角に、丸い容器に入ると丸になりますよね。そんな柔軟さを持ち続けたいなと思っているんです。また、一滴の水の威力は大したことがないかもしれないけど、それがたくさん集まると岩をも打ち砕く力を持ちます。水のように、いま自分が置かれている環境の中で、そのときにできる最大限の力を発揮できるようにこれからも精一杯努力していきたいですね。

内気で登校拒否の経験もあった自分でしたが、コミュニティの力に支えられながら少しずつできることを増やしていった結果、現在のようにやりたいことを全力でやって「人生楽しい!」と思える日々を送っています。

今度は、自分が困っている人を支えられるような大人になりたいですね。

ー谷中さん、ありがとうございました!谷中さんの今後のご活躍も楽しみにしております。

 

谷中駿太さん(Twitter)

取材:山崎貴大(Twitter
執筆:仲奈々(Twitter
デザイン:五十嵐有沙(Twitter