“当たり前”の違う世界へ。植田 悠大が捨てた「しなければいけないこと」とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第888回目となる今回は、植田 悠大(うえだ ゆきひろ)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

会社員やフリーランスの期間を経て、「やりたいこと」への挑戦を続ける植田さん。そこには「何者」かにならなければいけないと悩み、出した答えがありました。

自分にできることを探す

ー自己紹介をお願いします。

植田悠大です。会社員やフリーランスで働いたあと、地方を旅する生活をしてきました。現在は「合同会社やっていき」の代表で、動画制作やWeb制作などの仕事も行っています。

SNSでは「全部やるゆっきー」という名前で活動していて、「ラグビーのキックを蹴ってみたい」や「ギターで弾き語りしてみたい」など、僕の「やりたいこと」を1つずつ叶えていくツアーもしています。

ーはじめに、学生時代についてお伺いします。4年生のころに休学されたとのことですが、詳しく教えていただけますか?

大学4年生の春学期までは授業に出ていて、最後の秋学期だけ休学しました。学生時代を振り返ると、サッカーサークルで楽しく過ごしたり、それと並行してサッカーの審判員(レフェリー)をしたり。サッカーに関わることがメインでした。

就活も経験しましたが、会社員として仕事をしていくイメージがつかめませんでした。自分自身になにができるのか、自分が何者か、なにをしたいのかわからなかったです。そのため、自分が得意なことを作りたいと思い休学を決めました。

そのときに始めたのがプログラミングスクールでした。当時、同じ研究室の仲間が楽しそうにプログラミングをしていて、僕も一歩踏み込めばできることが増えるのではないかと思って、そのスクールに入りました。

ーその後、どのようなことができるようになりましたか?

お笑いのライブ情報を取得して一覧にできるWebサービスを作りました。1ヵ月ほど経ったある日、別のプログラミングスクールからお誘いをいただいて、大学生のインターンとして働かせていただくことになりました。

ー休学期間は2年半とのことですが、ずっとプログラミングをされていたのですか?

最初の1年はインターンをしていました。はじめに任されたのは「メンター」として受講生の質問に答えたり、サポートしたりする仕事です。僕もそこでプログラミングの技術を学びながら働いていました。

しばらくすると、その教室が名古屋にもオープンすることになり、僕は立ち上げは未経験ながらも、拠点責任者として半年間勤務しました。ほかにも営業や人材採用の仕事など、多くの経験ができたのでとても感謝しています。

ーずっと名古屋に滞在していたのですか?

しばらくして、教室の仕事がまわるようになってきたので、東京に戻って別の業務をすることになりました。ほかにも、大学の卒論をしなければならなかったという理由もあります。ここからの時期が、僕の苦労したところになります。

挫折の経験と、東京暮らしで感じた苦しさ

ーどのようなことに苦労したのですか?

スケジュール管理が苦手で、行き当たりばったりになりがちでした。

休学して1年後の秋、東京に戻ったタイミングで復学しました。しかし仕事と学業の両立が上手くいかず、倒れるように休職と休学の状態になってしまって。人生ではじめての挫折を味わいました。

なんとか仕事に復帰でき、大学でも2019年の9月に卒業論文を提出できました。

働いているときに感じていたのが、オフィスに出勤することの苦痛です。生活リズムがなかなか一定にならなかったことや、周りの人に気をつかいすぎてしまう精確だったため、オフィスにいるといろいろな事が気になって疲れてしまいました。

組織が大きいところも苦手だったので、それからは、より小さい会社やスタートアップを探しました。たくさんの企業で働いたあと、さまざまな地方に行きました。周りの方々や会社の皆様にサポートをいただきながら、いくつかのスタートアップ企業で働きました。どの職場でも自分の「出来ない部分」を周りにカバーさせてしまうことが多く、心苦しい気持ちが常にありました。

ー東京以外の地方ですか?

そうですね。東京で1人暮らしをしていたころは仕事や生活への息苦しさが常にありました。数ヵ月での転職を繰り返して、どの会社でも自分が活躍できている感じがせず、多くの人に迷惑もかけました。やる気はありましたが、上手くいかず苦しかったです。

そのころは東京でお金を稼いで生活することにこだわりがあり、東京に留まるにはどうすればよいかということばかり考えていました。しかし東京は苦しかったのです。東京以外の場所なら上手くいくのではないかと思って、新天地を探すような感覚で東京を離れました。

これまでの苦しさが東京にあるなら、それを捨てようと考えてからは、1年間いろいろな地方に住み込んで働くという生活を送りました。