「好き」を諦めないで。車椅子ハンドボール・車椅子バスケットボール選手の諸岡晋之助が語る、夢を叶える方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第1001回目となる今回は、諸岡 晋之助(モロオカ シンノスケ)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

車椅子ハンドボールおよび車椅子バスケットボールの選手として活躍中の諸岡さん。学生時代のエピソードや車椅子スポーツを始めるまでの経緯、今後の目標などをお話していただきました。

幼いころからスポーツ一筋!学生時代はハンドボールに没頭

ー簡単に自己紹介をお願いいたします。

諸岡晋之助と申します。車椅子バスケットボール2023年度強化指定選手、車椅子ハンドボール2022年度日本代表として活動しています。

車椅子バスケットボールでは、2018年の全国障害者スポーツ大会(福井しあわせ元気大会)で、東京都代表として日本一になりました。また、車椅子ハンドボールでは競技1年目に全国大会で優勝したほか、先日行われたKnockuカップでも日本一になりました。

車椅子バスケットボールは障がいの重さごとにメンバーに得点が割り振られて、1チームあたり14点以内に収めるというルールがあります。障がいの重い人がメンバーにいたら、特性を理解して助け合えるところが面白みだと思います。

また、車椅子ハンドボールには6人制、4人制の2通りがあって、4人制はコートを広く使えるのでスピード感やダイナミックさが面白みだと思いますね。

ーまずは幼少期のエピソードから教えてください。

生まれつき病気を抱えていたので、スポーツで体を強くしようとしていました。6歳のころには水泳、空手、器械体操、野球をやっていましたね。

両親からは「興味があることは始めてもいいけど、途中でやめるくらいなら始めるのもダメだ」と言われていました。水泳は両親が経験者だったこともあって、生後3か月くらいから始めましたね。

その他は、体を強くするために空手を始めたり、運動神経を良くするために器械体操を始めたり、同じ「しんのすけ」という名前の阿部慎之助選手に影響を受けて野球を始めたりしていました。興味のあるスポーツを、一通りやらせてくれた両親には感謝ですね。

個人競技、団体競技どちらも経験して、それぞれの面白さがあるなと感じました。団体競技はまるで友だちを作るかのように、チームのみんなと楽しく競技に励むのが好きで。

個人競技は自分の力で上達して、どんどん高みを目指せるところが面白かったですね。

ーその後は何のスポーツを続けたのでしょうか?

中学生のころにはハンドボール部へ入りました。顔見知りの監督に誘ってもらい、体験してみると楽しくて。実は野球部に入ろうと思っていたのですが、あまりの楽しさにハンドボールへと気持ちが傾いたんです。

もっとうまくなりたいという気持ちが大きくて、そこから競技にのめり込んでいきました。

高校はハンドボールの強豪校を選び、インターハイや国体にも出場しました。部活のおかげで充実した高校生活を過ごせましたね。

練習は思い出したくないくらいハードでした(笑)。1年生のころは朝の部室掃除から始まり、放課後には10kmほど走ってから練習が始まりました。

競合だったので、夜9時までみっちり練習が詰まっていて。先輩たちのお世話をして、夜10時ごろに帰るような生活でしたね。ハンドボールが大好きだったので、大学はもちろん、今後の人生でもこの競技を極めたいと思っていました。

突然の交通事故。人に恵まれ、車椅子スポーツと出会う

ーインターハイ出場だなんて、とても強かったんですね!

高校に続き、大学でもハンドボール強豪校を選び、競技に没頭していましたね。

そんな中、大学2年生の部活帰りの夜に、信号無視の車にはねられる交通事故に遭って。右手と左足に障害を負いました。「明日からも練習頑張るぞ!」と前向きな思いを持つ中、本当に突然の出来事でしたね。

集中治療室に3か月以上いたり、1年近く入院や通院を繰り返したりと、生死をさまよう大きな事故でした。

入院時、医師から「足を切断しなければならないかも」「元の生活はできないかも」と言われました。幸いなことに足の切断は免れたものの、当時はなぜ死ねなかったのだろうと思ってしまって。

ハンドボールもできないかもと落ち込む中、「車椅子ハンドボールという競技があるよ」と教えてくれた友人がいて。

僕のことをSNSで書き込んで「車椅子ハンドボールをやっている人を探しています。よければ連絡ください」と投稿してくれたのをきっかけに、あれよあれよという間に車椅子ハンドボールとのご縁が生まれました。

退院したら絶対に車椅子ハンドボールへ挑戦しようと心に誓い、リハビリに励みました。

ー周りの人たちのおかげで、車椅子ハンドボールに出会えたのですね。

そうですね。競技に関わる年数が長くなればなるほど関わる人たちも増えていきますが、出会った一人ひとりにリスペクトを持ちつつ接していくことが大事かもしれません。

21歳で、ようやく念願叶って車椅子ハンドボールを始めました。あとは、入院していた病院のリハビリの先生が車椅子バスケットボールのマネージャーとお知り合いというご縁があって。

ご紹介いただき、車椅子バスケットボールは半分遊びのような気持ちで始めたんです。また体を動かせる喜びはやっぱり大きかったですね。

22歳のころ、本格的に現在の車椅子バスケットボールチームへ所属し始めました。車椅子ハンドボールは日本代表の枠がありませんが、車椅子バスケットボールにはパラリンピックがあるなど発展しているスポーツだったので、より高みを目指すべく真剣に取り組み始めました。

車椅子ハンドボールは最近になってようやく競技が成長してきて、日本代表枠ができたのもつい昨年なんですよ。

健常者のスポーツに本気で取り組んでいた自信があったので、初めは正直、車椅子の競技をなめていたところがありました。ただ、実際にやってみると難しくて。車椅子自体も使いこなせなくて、初めは苦労しましたね。

イメージと実際のギャップが大きいからこそ、のめりこんだところもありました。

ー幼少期のご両親からの言葉通り、競技を諦めることなくずっと続けてこられたのですね。

幼いころの習い事では「小学校が終わるまでは全力で取り組もう」と思っていたので、途中でやめるという発想にはそもそも至らなかったですね。

中学生になって、ハンドボールを始めたときはあまり上手ではなくて。高校生のころは強豪チームにいたおかげで全国大会に出られたものの、個人としては何も満足感がなかったんです。

障害を負って車椅子ハンドボールに切り替えてからは、全国大会で優勝したときに「優勝カップを持ちなよ!」とチームメイトに言われました。ここで初めて、「続けてきてよかったな」と感じられたんですよね。

ハンドボールもバスケットボールも、競技自体が好きで、もっとうまくなりたいという思いがあります。「モチベーションを高めよう」ということはあまり考えたことがないですね。

気分が落ち込んでいるときは「楽しくやろう」と思って取り組みますし、気持ちが乗っているときには「もっとこうしたらうまくなるのではないか」と思って頑張っています。

僕自身は、競技自体の楽しさや結果が出せたときの達成感など、シンプルな感情に背中を押されています。