応援者を増やすことが、自分のやりたいことを続けるための近道。アオイエ代表、巴山雄太

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第931回目となる今回は、『株式会社アオイエ』代表、巴山 雄太(ともえやま・ゆうた)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

コミュニティハウス『アオイエ』の代表をしながら、地域サッカークラブ『江の島FC』も経営している巴山さん。現在に至るまでの葛藤や原体験、これから挑戦していきたいことについてもお話いただきました。

吃音に苦しみ生きづらさを感じる

ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

巴山(ともえやま)雄太と申します。現在27歳です。

神奈川県のサッカークラブ『江の島FC』の経営と、全国で11件のコミュニティハウス『アオイエ』を経営しています。よろしくお願いします。

ーここからは、巴山さんの過去を振り返ってお伺いします。どのような幼少期を過ごされたのでしょうか?

両親が脱サラをして、フィルム写真を現像する写真屋を営んでいました。両親と1つ年上のおてんばな姉に囲まれて、幼少期を過ごしていました。

今思うと、両親の働く姿を近くで見られるような環境だったので、写真屋を経営している両親の影響を小さいころから受けていたんじゃないかなと思います。

小6のときにデジタルカメラが流行して、お客さんが減り、写真屋さんは閉めることになりました。当時はショックでしたね。

ー当時悩んでいたことがあったそうですね?

言葉が滑らかに出てこない「吃音」を幼少期から抱えていました。僕は難発性の吃音で、突拍子もない場面で最初の1音が出てこないことがあり、ずっと苦しめられてきました。

吃音で苦しんでいる人は、世界に約7000万人もいるのに、今もメカニズムはわかっていないらしいです。

僕の場合は、バスに乗る瞬間に「小学生です」って言えなかったとか、授業中に先生に当てられた瞬間とか。そういうときに緊張して、声が出てこなくなって泣いてしまう。

巴山っていう名字が、言えなかったんですよね。それが本当に最悪でした。呼吸法などで次第に慣れるようになってきたのですが、12歳ぐらいまでは対処法もわからず、つらかったです。

自分を変えるために一番苦手なことに挑戦

ーそこからはどのような学生時代を過ごされたのでしょうか?

中学・高校共に、男子ばかりのマンモス高のサッカー部に入っていました。

ムードメーカーとして明るくふるまっていたのですが、一方で幼少期の吃音による漠然とした不安や生きづらさを感じていました。自分の言葉やコミュニケーションを通して、何かを動かすことって難しいな、できないんじゃないかなと自信をもてませんでした。

そんなことを思っていた高1のとき、右腕を骨折してしまったんです。休部することになったときに、どんどん悪い方向に考えてしまい、「人生このまま終わるのかな」という思いになって。「このまま自信をもてないまま、漠然と生きていくのは嫌だな」と思いました。

もしかしたら、「今が自分を変えるチャンスなのかな」と思い、「一番苦手なことをやろう」と決めました。

当時は、全校生徒が立候補できる生徒会長選挙のタイミングでした。緊張してしまって、いつ言葉が出てこなくなるかわからない。トラウマのある自分が、全校生徒2000人の前で大きなビジョンを伝えるスピーチをすることは、苦手意識のあることでした。

それでも、1年間責任のある立場をこなせたら、めちゃくちゃ自分を変えられるんじゃないかと思って。

ー大きな勇気ですね。1年間いろいろな行事に関わられていたと思うのですが、やって良かったことがあれば教えてください。

初めに応援団の創設を行いました。校則が厳しく閉鎖的で、男子校にもかかわらず、生徒が受け身になってしまっている現状を変えようと考えました。

学校の象徴になるような、生徒全体で部活や式典を盛り上げられる応援団を作ったら、学校への帰属意識が高まり、生徒一人ひとりが学校を盛り上げたい気持ちになるんじゃないかなと思いました。そのため、応援団を立ち上げ、初代応援団長にも就任しました。

それから、生徒会活動に堅苦しいイメージがあったので、透明化するために約16ページの生徒会広報誌を毎月発行していました。それが『生徒会ステーション』、通称『生ステ(ナマステ)』です。食堂の割引券や校長先生へのインタビュー、スタンプラリーなども載せていました。

広報誌が名物になり、生徒会活動に興味を向かせることに成功しました。

ナマステはインドの言葉で、インドといえばカレー。食堂で新メニューの『ナマステカレー』を作らせてもらいました。ナマステカレーを食べると、売り上げの一部が生徒会に回ってくる仕組みを作り、活動費も生み出していましたね。

徐々に学校の変化を感じる、おもしろい経験でした。

ーわくわくする話ですね。活動内容は生徒会長にもよりますよね?

独自的ですね。生徒会長が、生徒会役員を24名指名できるんですよ。

当時は、サッカー部から生徒会長に立候補しているので、先輩後輩を含めて顔見知りも多く、生徒たちを巻き込みやすいような属性をもっていました。

過去に生徒会役員経験のある人から、生徒会長に立候補する流れがあったなかで、全く生徒会役員をやったことのない人間が、サッカー部から出馬することになったことで、一般生徒目線からのビジョンを訴えられたんじゃないかなと思っています。

一方で先生との交渉は、生徒会役員を経験してきた人を副会長や外務局長などに任命して、お任せしていました。

すごくいいチームでしたね。外部に向けてビジョンを語り、仲間を増やして巻き込んでいく人たちと実務を執行する人たちとのバランスがとれた、いい組織だったと思っていますし、今でも理想の組織だったなと思います。

ー大きな学校で、生徒会役員が24名いらっしゃったってことは、ものすごくリーダーシップ能力が試される出来事だったんではないでしょうか?

そうだと思います。当時意識していたことは、人って仕事ができるかどうかより、自分よりがんばっている人についていこうと思うんだなと思ったんですよね。

そのため、誰よりも生徒会活動に時間を使って、率先してがんばる1年間にしようと思って。その姿勢が、がんばっているからとりあえず一緒に動いてみようかなと、つながっていったんじゃないかなと思っています。

この1年間で自分を変えられたことが、その後の人生を形作る原体験になっています。