誰もがきっと輝ける。鈴木陽菜が目指す、個性を認め合える社会とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第833回目となる今回は、ミス・ティーンインターナショナル2022パンパシフィック日本代表・鈴木 陽菜(すずき・ひな)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

ミスコンに出場し、発達障害についても積極的に発信している鈴木さん。個性が認められ、誰もが長所を活かし輝くために必要なことは何か語っていただきました。

幼いころからダンスに没頭する

ー自己紹介をお願いします。

現在高校2年生の鈴木 陽菜(すずき・ひな)と申します。社会貢献をコンセプトとする「ミスティーンインターナショナル」というミスコンに今年の2月に出場して、パンパシフィック代表となりました。7月にはアメリカのテネシー州で開催された世界大会に行ってきました。

軽度発達障害について発信をしており、本の執筆やテレビ出演など、いろいろな活動をしています。よろしくお願いします。

ーここからは鈴木さんの幼少期について伺います。3歳でダンスを習いはじめたのですね。

子ども番組の歌に合わせて踊っていた私を母が見ていて、「ダンスが向いているのではないか」とダンスを習わせてくれたことがきっかけです。

ー物心がついた頃にはもう踊っていたのですね。

はい。小さい頃からダンスが大好きで、いまも音楽が流れるとすぐに踊ってしまいます。

ーダンス教室などに通われていたのでしょうか。

最初はジャズ教室に通っていましたが、引っ越しで別のダンス教室に通うことになりました。

そこでヒップホップやブレイクダンスなどのかっこいいダンスに出会いました。ジャンルが変わると雰囲気が変わったり、表現の仕方も変わったりと本当に楽しかったです。

ーさまざまなジャンルのダンスに取り組まれたのですね。

ジャンルが変わると楽しめる要素も変わって、気づいたら週5で通っていました(笑)。

ー好きだからこそ、夢中になってダンスに取り組めたのでしょうか。

本当にダンスが大好きで、まったく苦ではありませんでした。ダンスの先生やダンサーになりたかったので気合いを入れてがんばっていました。

ダンスの世界は広くて、自分のことを上手いと思っていても上には上がいます。だからこそ「考えてやらないと」とダンスに向き合っていました。

家族の辛さを知り、ミスコンで思いを伝える決意をする

ー弟と母のことで辛い出来事があったとお聞きしています。詳しく教えていただいても良いでしょうか。

弟が小学4年生の時に軽度の発達障害の診断を受け、中学に進学する際は支援級に変わりました。しかし支援級は支援のプロが教えているわけではありません。

支援級という小さな枠の中で人数も少なく、軽度の発達障害が逆に目立ってしまってしまうこともあり弟の居場所がない状態でした。

普通級に行ってもクラスから浮いてしまって、どちらの級も居場所がなく、学校の先生からも「褒めるところがない」と言われてしまい学校に行けなくなってしまいました。さらに弟を支えていた母は精神的に追い込まれてしまいます。

ー周りのサポートがない中で家族だけで戦っていたのですね。

見た目は健常者と変わらないため根性論で「やればできる」と押し切られたり、母が先生にアドバイスをしても意見の相違があり、弟の自己肯定感を下げてしまっていました。

弟の悪いところは本当になくて、軽度の発達障害があるがゆえに少しできないことがあるだけなのです。

凸凹があるだけなのにそこを認めてもらえない悔しさがありました。私も受験とコロナの流行が重なってダンスを辞めてしまい、家族みんなの気持ちが下がっていた時期でした。

ー精神的に辛い時期を過ごされたあとミスコンに出場することになるのですね。

ディレクターさんに誘っていただいたことがきっかけです。ミスコンは「キラキラした世界で、かわいい人が出るもの」というイメージが強かったのですが、出場した大会は社会貢献をコンセプトにしているミスコンでした。

「弟のことで困っているなら、大会に出て話してみたら」と助言をいただき、私も瞬間的に「これだ!」と思いました。弟を救いたいという強い思いで出場を決めました。

ー他のミスコンとは何が違うのでしょうか。

顔の美しさなどではなく、出場者の内面が評価される点が違います。

ー出場することを決めてから、どのように過ごされたのでしょうか。

初めてのことばかりで不安が大きかった日々でした。ウォーキング審査やスピーチの構成、ドレスもどのようなものが似合うかを考え、自分の伝えたいことを表現するために必死でした。

ースピーチではどんなことを話されたのか、教えてください。

「私が日本代表になったら、発達障害について理解を求める活動をして、同じ環境に置かれている家族に無限大の可能性を伝えたいです」と話しました。ありのままの自分を愛してほしいと思っていたからです。

長年続けたダンスやモデルで鍛えた表現力を発揮して、「世界にグレーゾーン(ごく軽度の発達障害)の可能性を伝えたい」と訴えました。

私が世界に行くことで、「身近にいる人や同じ思いで苦しんでいる人を救うことができるのではないか」という思いでした。

ーその結果日本大会のグランプリに輝いたのですね。日本大会と世界大会はやっぱり違いましたか。

まったく違いました。会場の大きさも広くて、世界大会なので英語が飛び交い、雰囲気にも圧倒されました。

大会は2日間開催されます。1日目はウォーキング審査でトップ10が決まり、2日目に前日でトップ10に入った人が再度ウォーキング審査、スピーチを行いグランプリが決まります。

世界大会前に自分がどれだけ伝えたいコンセプトについてやってきたのかを聞かれるのですが、私は本の執筆や、テレビ出演などがんばったことを目一杯アピールしました。

ーすごいですね。シビアな世界なのだと聞いていて感じます。

私がやりたいことはミスコンのために経歴を積むことではなく、みんなに発達障害についての理解をしてもらうことです。そのためにたくさんのチャレンジをしました。

残念ながらトップ10入りは叶わずスピーチはできませんでしたが、大会は盛り上がり、存分に楽しむことができました。