障害者でも活躍できる世界へ!就労指導員・松川力也の思い描く未来のビジョンとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第698回目となる今回は、就労指導員・松川力也さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

自身が障害を持ちながらも、自分と同じように苦しんでいる方のために行動し続ける松川さん。松川さんが障害者の支援をするようになった経緯と、障害を持ちながらも行動し続けることの大切さを語っていただきました。

14歳のとき脳内出血により片麻痺に。考え方を変えて努力し、絶望の淵から這い上がる

ーまずは自己紹介をお願いいたします!

松川力也と申します。14歳のときに病気を発症して障害を持ち、現在は障害をお持ちの方の社会参加を促進するために、講演する場の提供をしたり、一般社団法人で理事をしたりしています。合同会社と社団法人設立のための準備もしています。

ー最初のターニングポイントを教えてください。

14歳のときに脳内出血を発症しました。原因は10万人に1人と言われている珍しい病気で、脳内に生まれつき奇形があったのです。それを知らずに暮らしていた14歳の12月のある日、兄とご飯を食べていると、左口角から食べ物が落ちました。おかしいなと思いつつも、食器を片付けて寝ようとしたときに倒れてしまいました。

1週間意識がない状態が続き、目覚めたときには左半身が動きませんでした。「これから先、左半身が動かない生活ってどうなるのだろう?」と考えると最初は死にたくなりました。しかし、時間が経つごとにこれからの人生を考えようと思いました。

就職のことを考えて、障害者の平均年収を調べると120万〜200万でした。「このままでは厳しいからなんとかしなくては」と思うようになり、いろいろな夢ができて前向きになりました。

ー障害があることを知った当時は、どう思いましたか?

障害があると知った当時は、すべてを失った気がしました。倒れるまでは「高校に行ったらバイクに乗りたい」や「実家の自営業の手伝いをしたい」と思っていましたが、突然それができなくなってしまったのです。

なによりも辛いと感じたのは「片麻痺の人がどう生きているか?」という情報がなかったことです。

ーリハビリは非常につらいイメージがありますが、松川さんの場合はどうでしたか?

そうですね。他人と比べることはいけないことだと思っていますが、当時14歳の少年にとって他人と比べないことは非常に難しかったです。周りの人は走ってスポーツができるのに、自分はリハビリしてもなかなか治らない状態で、悔しい気持ちがありました。

自分のなかで悔しい気持ちを消化しつつリハビリをするのに、3年ほどかかりました。どこまで良くなるかわからない中で、治るように努力して、たくさんの壁を乗り越えていく必要があったのです。

ー辛い状況の中で、思考を前向きにできたきっかけを教えてください。

リハビリをしたときに、片麻痺になると走ることや、左手で茶碗を持ってごはんを食べることなど、当たり前のことができないことに気づきました。「この痛みは障害者にしかわからないんだろうな」と感じて、これを強みに変えていこうと思ったのがきっかけです。

片麻痺があってもできる仕事に就ければ、一般の人と戦えると思って、言語聴覚士の国家資格取得を目指しました。

作業療法士の方へのあこがれと父の言葉から、言語聴覚士を目指すように

ー国家資格を取得したきっかけは誰かの影響があるのでしょうか?

いつも僕に優しく接してくれて、リハビリをしてくださった作業療法士の方がかっこいいと思ったからです。

また、父が「障害者になって障害者の気持ちが理解できるようになったのなら、同じように苦しんでいる障害者の方の為に生きるんだよ」と言われたことも理由の1つです。

ー数ある資格の中から言語聴覚士の資格を取ろうと思った理由を教えてください。

本当は作業療法士の資格を取りたかったのですが、リハビリをしている際、直感的に自分の体はそこまで回復しないと思いました。

「障害の残った体でもできる仕事は何だろう?」と考えたときに、患者が退院した後の相談員、臨床検査技師、言葉のリハビリをする言語聴覚士の3つが出てきました。

その中で、言語聴覚士は患者さんと1対1で個室でリハビリをします。僕がリハビリをしていたときに、自分と同じ体験をしている障害者の先生であれば、どうやって生活しているか知りたいと思いました。また、障害を持ちながら、言語聴覚士をしている人は周りにいませんでした。

このことから、僕が言語聴覚士の資格を取って働いている姿を、見せてあげられたら、僕と同じように苦しんでいる人の、人生の選択肢を増やしてあげられるのではないかと思って言語聴覚士を選びました。

ー専門学校での生活はどうでしたか?

高校までは、周りに知り合いがいましたが、専門学校にいくと知らない人ばかりだったため、自分のできないことが浮き彫りになりました。しかし、クラスの中心になればマネジメントでき、自分だからこそ出来ること・成し遂げられるものがあると感じていたので学級委員長に立候補しました。苦手なことは他人に任せれば良いと思って、2年生までは勉強よりもマネジメントに注力していましたね。

3年生のときに今まで勉強をしていなかった分を取り戻す必要があると感じてからは、毎日スターバックスに行って夜遅くまで勉強漬けの生活でした。国家資格取得1ヵ月前に点数が大きく落ちたことで焦りましたが、将来の選択肢を増やすために自分を信じて勉強を続けた結果、言語聴覚士の資格を取得しました。

言語聴覚士の資格を取得したのちに2つの会社で働く

ー専門学校を卒業した後はどのようなことをされたのでしょうか?

専門学校卒業後は、2つの会社に勤めました。最初が東京の総合病院で言語聴覚士としてリハビリの仕事で2つ目が障害者の就労指導の会社です。

学生時代に知り合った有名な先生が、当時パラスポーツをしていた僕に「パラスポーツを東京に来て本気でやらないか?」とおっしゃったことが、東京の病院に勤めた理由です。はじめは行くつもりはありませんでしたが、ふと考えたときに「ここまで自分のことを応援してくれる人はいないな」と思って、行くことにしました。

病院では、患者さんのリハビリをしましたが、僕は障害者の方が社会参加できる機会を作りたかったため退職しました。

次に入った会社は、障害者の方の就労支援をする会社でした。その会社も1年働いた時点で、起業したいという思いが強くなったことと、障害者として起業することで誰かの力になれると思ったことから、退職しました。

ー社会参加できる機会を作りたいと思ったきっかけを教えてください。

就職した1年目に給料と国からの補助を合わせて、日本の平均年収を超えました。そのときにネットで見た情報がすべてではないことを知り、他の人にもそれを伝えたいと思ったからです。

病院外で関わった障害者の方に「1ヵ月の給料が3000円だった」や「なにも役に立たないから朝礼だけして座っている」といった話を聞き「これは僕が変えるしかない!」と思ったこともきっかけのひとつです。

ー障害を持ちながら、障害者をサポートする側の仕事に就いている方は少ない印象です。

そうですね。僕の知っている限りでは、5人ほどしか知りません。特に、障害を持った後に言語聴覚士を取得した人は2人しか知りません。

僕が言語聴覚士の資格を取る専門学校に行ったときも「片麻痺でこの資格を取る人は初めてだ」と言われました。そのときに、なかなかロールモデルとなる人がいないことに気づいたため、現在はロールモデルを輩出する環境を作っています。