没頭から切り拓きつづけた世界。Cozies・大野真由美がやり切って進んできた道のり

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第569回目となる今回は、WEBマーケティング領域で就職し、フリーランスを経て起業した大野真由美さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

陸上競技に打ち込んだ中高時代から、大学でベンチャーを立ち上げていく先輩たちに刺激を受け、自分も起業に挑戦することに。一貫して全力を尽くしてきた、その生き様に迫ります。

世界を目指して起業!

ー大野さんは起業して今年2期目になったとお聞きしました。どんな事業領域で挑戦されているのですか?

多岐に渡るウェブのマーケティング施策を、最初から最後までワンストップで伴走させていただいています。企業の集客のお悩みを一緒に考えながら解決することをしています。

今はまだまだ駆け出しです。ゆくゆくは上場できるくらいの規模にしたいし、日本に留まらず仕事をしていきたいと考えています。

ー0から新しいことを始めるのは、相当大変なことだと思うのですが、元々リーダー気質を持ち合わせていたのですか?

自分ではそうは思っていません。ただ、振り返ってみると、小学生から高校生まで学級委員だったりと、学生時代はなにかしらのリーダー的役割に常に就いていましたね。

ー気取らないけど積極的な雰囲気、第一印象のイメージ通りです。ご家族の影響もあったのでしょうか?

私は4人兄弟の3人目で、上にも下にも挟まれて育ちました。両親も途中から共働きで、いつも「自分は迷惑かけないようにしないと」と子どもながらに思っていましたね。

陸上に没頭した中高時代

ー中高時代はどんな学生だったんですか?

中高一貫校へ入学したのですが、中学1年生から陸上部に入り、そこから高校3年生までの約6年間陸上漬けのいわゆる体育会系でした。高校3年生の時には、4×100mリレーで関東大会に出場できました。一生の財産になっている経験です。

ーそれは輝かしい成功体験ですね!今のまゆみさんに繋がるところはありますか?

元々は「関東大会なんて目指せない」というメンバーでした。スタート時は4人中2人はほぼ初心者のような状態でした。

通っていた学校は、もともとは都大会で総合優勝までしたこともある学校でしたが、私が入部した時期には、関東大会に出場が当たり前ではなくなりかけていた時期でした。

中学時代はちゃんと部活に出てきている同年代がほとんどおらず、1人で高校生の先輩方の後にくっついて練習する日々でした。高校からは、高校入学組の同年代部員が一気に20人程増え、仲間が増えました。

ここから「チームで結果を残したい」と頑張る動機が大きく変わりました。そして、みんなで力を合わせたからこそ起こせたミラクルが関東大会出場だったと思っています。そして、この経験が今も私の大きな軸になっていると感じています。

一人ひとりの頑張りが合わさって、チームみんなが一丸となったときの楽しさを、実感できました。個人種目だったとしても、部としてのエネルギーが伝播していくものなのかと。

ー 当時どういうことを大事しながら部活をしていたのですか?

とにかく「自分がやる姿を見せる」ということをできる限り大切にしていました。

伸び悩んでいたころに、先輩から「数字を出せばみんな何にも言わなくなるよ」と言われたことがありました。ただ、私の才能は並だったので、とにかく練習を積むしかないといつも思っていました。

大会や練習会では、他校の生徒とも仲良くなる機会が多く、そういう友人たちをみては、自分がいる環境以外にも頑張っている子がたくさんいるんだと刺激をもらっていました。やるしかないなと。陸上を通じて、いろんな人と繋がれたのも良かったですね。

一生使える専門を求め、農学部へ

ー部活一色の中高一貫時代から、大学進学はどう決断したんですか?

元々理系クラスに進んでいたんですが、高校一年生の頃に、専門を何にするか考えました。高校生ながら、「自分は凡人だから、一生使えるような専門分野をみにつけないと」と当時考えました。

その結果、当時の自分の興味範囲で、「”医療”と”農業”は永続的にある専門性が高い分野」だという結論になりました。

高校3年生の時は、医学部志望で、浪人覚悟で勉強しました。しかし、家の事情や自分の性格を考えると、浪人はできず、現役で東京農業大学にしました。

ー高校生の時期からしっかり考えていたんですね……。根底に、「自立して、ご飯を食べていきたい」という想いがあったからこそですよね。

母親の影響が強くあります。キャリアと引き換えに4人の子どもの育児に捧げてくれる母親をもっと楽にしたいという思いでした。

反面、私は子育ても仕事もどちらも諦めたくないと思いました。そのために、早く自立し、自分の力で生活できるようにまずしようと考えました。

ー大学に進学し、どのようなキャンパスライフを過ごしましたか?

大学入学時は完全にバーンアウト状態でした。自分の大きな柱だった陸上というアイデンティティを手放し、頑張る目的をなくしてしまっていました。

「陸上に変わる情熱を注ぎ込めるものを探さないと」と思い、大学外でサークルや学生団体など、積極的に行動しました。

ベンチャー、デジタルマーケ…未知な世界に触れた大学生活

ー大学生活の中で、何が見つかりましたか?

大学2年の夏に、ご縁で本郷三丁目にあるLab-Cafeという学生が運営するコミュニティーカフェに出会いました。学生だけで運営しており、東京大学も近くにある立地だったため、ずば抜けて優秀で物凄く変な人がたくさん集まる場所でした。

私は初めていった際に衝撃を受け、そのまま働かせてほしいと伝えました(笑)。そこから約2年半、運営スタッフとして働くことになりました。ここがすべてのきっかけの場所になりました。

例えば、今のキャリアになったのはLab-cafeがきっかけでした。たまたま、Lab-cafeで株式会社beBitの社長である遠藤さんにお会いし、お話に感銘を受けて、「この社長の会社で働いてみたい!」と思ったら、タイミングもよく、そのままbeBit社でアルバイトすることになりました。

この出会いが、全く知らなかったデジタルマーケティングの業界でキャリアを踏み出す第一歩になりました。

また、エレファンテック(当時はAgic)という会社の起業に間近で立ち会ったのも大きな経験になりました。Lab-cafeで出会い、お世話になりっぱなしだった先輩方が創った会社だったのですが、当時カフェと同じビルにオフィスがあり、よく遊びにいったり、たまにお手伝いをしていました。

ものすごいスピードで色々なことが進んでいる一方で、皆さんハイテンションで夜まで働いたり……と大きくなっていくところを間近で見たのは、かなりの衝撃でした。

「今までにないことをみたい・作り出したい」というベンチャースピリットあふれる人たちとたくさん出会えたことは、確実に今に繋がっています。

ーその後、ストレートで就職されます。就活はいかがでしたか?

実はほとんど就職活動というものをしていませんでした。というのも当時、学んでいた農業とは全然違う「赤ちゃん学・発達学」で大学院進学をしたいと考えていました。しかし、筆記は通ったものの、2次の論文面談で落ちてしまいました。

そして、大学4年生の12月頃に「大学院はいつでも行ける。吸収力が高い20代で、まずは働いた方がいい」と思い、そこからエントリーできる会社を2、3社みつけ、説明会に行き、そのうち1社に内定をいただきました。

ー凄い切り替えの早さ! でもその時期からよく就職できましたね!

もちろん私の学年の採用は終わっていました。冷静に考えれば当たり前なのですが。(笑)

内定をいただいた会社の参加した企業説明会も、私の次の代の就活生のためのものでした。

たまたま説明会の最後に人事の方が声をかけてくださり、事情を説明してその会の後すぐに面接にすすめていただきました。

そしてその場で、「2週間以内に内定したいです!」とお願いし、そこから本当に2週間ほどで内定をいただくことができました。運がよかったとしか言えませんね。(笑)

ー就活は1ヵ月しかしていないわけですよね(笑)でも大学の中で、キャリアについてずっと考えてきたからこその内定だったんだろうなと思います。

「自分がやりたいことをやるには、まずは力をつけないといけない」とずっと考えてきました。なので、とにかく成長スピードを高められる環境に身を置きたかった。

デジタルマーケティングの領域を選んだのは、大学で農業現場に入ってみて感じた、「マーケティング目線やデジタルが無さすぎること」への問題意識からです。

最終的に農業分野に別分野の知見を持って帰りたいと思いました。

ー職業選択は農業とも繋がっていたんですね。入社後も順調だったんでしょうか?

入った後に知ったのですが、新卒の就職先として人気な企業でした。なので、とにかく周りが優秀でした。求められている基準がとても高く、朝から深夜まで働くハードな日々でした。今思えば、自分の能力を高めるには良い環境だったと思います。

ーずっと頑張るって難しいんじゃないかなと思うんですが、どうやってモチベーションを維持してきたんですか?

チャレンジに慣れることですね。頑張るのが当たり前になれば、それを自然と続けてしまうと思うんです。最近はチャレンジしていない状況のほうが不安になります。

ー大野さんの体育会系気質は、中学の陸上部の頃から一貫しているように感じます。努力して、一生使えるような芸術を身につけて、自分で食べて行きたいというエネルギーに、突き動かされてますよね。

やりきった先は、会社設立

ーそんな中で2社目に転職したのは、どんなきっかけだったんですか?

2社目はご縁で紹介いただき社長に出会いました。「この方にならついていける」と直感を信じてジョインしました。転職の際に、大手企業にも興味はあったのですが、「どうせなら未知な世界に行こう」と思い立ち、入社を決めました。

そして、会社の3人目のストラテジストのメンバーとしてジョインしました。入社当初は、自分が使うパソコンを自分で買ったり、最初に任せられた仕事は社長のベビーシッターだったりと、「本当になにもないところに入ったなぁ」と思いました。(笑)

ー1社目よりもさらに、めちゃくちゃベンチャーだったんですね。

ベンチャー感満載でした。そこから約3年間在籍しました。とにかく全部やり切りました。なので、全く悔いはないですね。

当時担当していたお客様からは「大野さん以上の担当者は居ない」と明言していただき、仕事していてよかったと思えました。

順調に仕事も進んでいたそんな時に、突然、会社で過呼吸になったんですよね。朝の7時頃から2,3時間呼吸が戻りませんでした。

次の日も仕事するぞと思っていたのですが、社長から「休養のために1週間休め」と言われました。結局1週間おやすみをいただいたのですが、その間に「会社やめよう」と決意していました。

ー突然の決断!高校時代の部活のように、本当に自分の中で区切りがついてしまったんですね。

たまたま「やり切った」と思えるタイミングだったんですよね。今振り返っても大胆な選択をしていると思います。その決断から辞めるまでの有休消化期間に、今後の進路について社長に壁打ちしていただきました。

大企業に転職を考えていたのですが、社長から「お前は3年間、一体何のためにやってきたんだ!つまらない選択はしないでくれ」と喝を入れられました。私がずっと話していた未来に繋がらないよと。

その言葉でハッとなり、気が付いたらフリーランスになっていましたね。磨いてきたデジタルマーケティングの領域で、とにかくいただいたチャンスをしっかり返そうと思い、そこから一人で進み始めました。

チームで目指す「さらなる高み」

ーそして今、会社を立ち上げるところまで繋がっているのですね。

きっと陸上に打ち込んでいた高校生頃からなのですが、「自分は一人でやりたいわけじゃない」と思ったんです。フリーランスになってから1年経って、27歳で会社を設立しました。

以前から、尊敬していた起業家が同じくらいで起業されていたので、いつの時からか、無意識に「27歳までに独立したいな」とは思っていました。

ー結果的に、ぼんやりとした理想像を実現してしまったんですね!

とにかく私は運がいいだけだと思います。ただ、いただいた機会では全力でやりきろうと自分ができることをとにかくフルスイングし続けてきて、ここに繋がってきたなと。

自分が「これがよい」と思える環境をちゃんと選んできたからこそだと思いますね。

ーまさにフルスイングを続けて、ステージを上げてきたんだなあと感じます。

常に挑戦しているので、多分、しんどいはあります。自分で解決できないことばかりなので、そんなときは、信頼できる人に話してみるようにしています。だからこそ、応援される人間でありたいなと常に心がけています。

ー今後も身近な人のサポートを大事にしながら、進んで行かれるんだろうなというイメージが湧きました。最後に、今後の目指す展望について、お聞かせください!

アジアを代表できる会社を作りたいですね。

ネットマーケティングは世界中繋がっていける領域なので、いつかは日本を越えたいです。チームとして実力を上げて、もっと大きな仕事ができるのが楽しみです!

取材:新井麻希(Facebook
執筆:杉山大樹(Facebook/note
デザイン:安田遥(Twitter