カンポットペッパーの魅力を世界中に伝えたい。木下レイナが前へ突き進む原動力

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第483回目となる今回は、RAYS SHOP CAMBODIAの木下レイナ(きのしたれいな)さんです。
高校生のときにベトナムを訪れ、海外の現実を目の当たりにした木下さん。そこから当時目指していた看護師の夢をやめて、カンボジアへ移住します。カンポットペッパーに魅了されて起業した木下さんに、前へ突き進む原動力を伺いました。

販売店舗やカフェを経営しながら胡椒の魅力を伝える

ーまず始めに、自己紹介をお願いいたします。

カンボジアのシェムリアップ(アンコール遺跡がある地域)で、胡椒専門店RAYS SHOP CAMBODIA(以下、RAYS SHOP)を経営する木下レイナと申します。カンボジアに住んで5年目になりました。普段は店舗で接客をしながら、カンボジアの胡椒の美味しさや食べ方を伝えています。また、胡椒ソムリエとしても活動しております。

ーカンボジアには胡椒というイメージがなかったです。扱っている胡椒は、どのような胡椒でしょうか?

私もカンボジアに来る前までは胡椒のことを知らなかったんです。カンボジアに住み始めて一年経ってから胡椒に出会いました。扱っている胡椒は、カンポットペッパーというブランド胡椒です。例えば松坂牛や近江牛が普通の和牛よりランクが上なのと同じで、カンボジアの一部地域でしか獲れない特別な胡椒です。

ーカンポットペッパーはブランド胡椒なんですね。

育て方や苗の品種など、さまざまなルールがあるなかで育てられたものです。基本的にカンポットペッパーはオーガニックで作られている胡椒で、農薬を使った胡椒よりも断然美味しく、香りも味もよくなります。私たちはオーガニックの胡椒農家と契約し、直接仕入れて販売しております。

ー胡椒というと辛い印象がありますが、カンポットペッパーも辛味があるのですか?

胡椒といっても色が複数あり、それぞれ味も異なります。例えば、黒胡椒、白胡椒、赤胡椒。日本では黒胡椒が一般的ですが、料理で使い分けていただくことでバリエーションが広がります。私が取り扱っている黒胡椒は辛くないですよ。また、赤胡椒は着色をしているわけではなく、完熟している色なんです。辛味を足したいときに入れる胡椒と違って、赤胡椒は甘くて香りをプラスするイメージですね。どちらかというとハーブに近いかもしれません。RAYS SHOPのペッパーを使っていただいたお客様に、胡椒の概念が変わったと言っていただくことが多いです。

ー胡椒専門店とカフェも併設されているのですね。

はい。胡椒専門店では胡椒の魅力を説明して買ってもらえる場所ですが、私の説明だけでは伝わらないかもしれないと思ったんです。実際に食べてみないと違いってわからないし、香りを嗅ぐだけでも限界があるなと。そこで実際に食べていただくためにカフェを併設し、胡椒を使った料理やドリンク、デザートを提供しています。「赤胡椒のフレンチトースト」や「黒胡椒チョコレートのフラッペ」などがメニューにあります。カンポットペッパーを「知る」「体験する」「楽しむ」ことができる場を。胡椒を食べてみて美味しかった商品をその場で手に取っていただき、その味をおうちでも楽しんでいただけるようにというコンセプトでオープンしました。

世界の現実を目の当たりにし、看護師の夢から海外移住へ

ーここからは、木下さんのこれまでの人生についてお伺いします。早くから目指していた夢があったそうですね。

中学生のときに、人生で初めて目指した夢が看護師でした。私は三重県四日市市が地元で、当時三重県に看護学科がある高校がなかったんです。でも看護師の近道として、高校から看護の勉強をしたかったので、三重から愛知県名古屋市へ県を跨いで通学していました。高校受験を決めた当時は、中学校の校長先生から県外への進学は前例がないと猛反対を受け、一時は受験することさえ難しい状況でした。県外への受験は校長先生の許可が必須だったので苦労しましたが、当時から自分がやりたいと決めたことは何が何でも突き通す性格だったので、何とか最終的には許可をもらうことができ、無事に進学しました。

ーそれほど叶えたい夢だったんですね。看護師を職業として目指したきっかけはなんだったのでしょうか?

母が自営業のエステティシャンで、エステに来られるお客様に看護師をされている方が多かったんです。私も母の手伝いをしていたので、看護師さんと触れ合う機会があったのがひとつ。もうひとつは、人生で誰かの役に立つ、人を救える仕事をしたいと看護師を志すようになりました。

ーこの頃から社会貢献を考えたうえで、ご自身の夢を追うべく看護学科に入学されたのですね。どのような高校生活を過ごされていましたか?

アルバイトができる高校だったので、約3年間接客業に携わりました。そこで初めて、自分でお金を稼ぐ大切さを実感しましたね。母子家庭で母が忙しいとわかっていながら、ご飯を作ってもらって当たり前、欲しいものを買ってもらって当たり前だと思っていたんです。アルバイトを経験してお金を稼ぐ大変さを知りました。当たり前に不自由なく生活させてくれる母に感謝するようになったことが大きな変化です。

ーアルバイトと学校の両立をされながら、高校3年生のときに人生の転機があったそうですね。

アルバイト先に仲のいいベトナム人の同僚がいて、彼女がベトナムの旧正月に母国へ帰省するタイミングで私もベトナムに行きたいと思ったんです。今考えてもなぜそう思ったのかまったくわからないんですけど(笑)。家族で海外の観光地へ行ったことはありましたが、特別海外に興味を持っていたわけでもなく、でも一人で海外へ行ってみたいというスイッチが入ったんです。やりたいと思ったら絶対に達成したい性格なので、冬休みにベトナムへ渡りました。

同僚とは最終日に現地合流の約束をして、それ以外は一人旅をする形でベトナムをまわりました。そこで、ベトナム戦争の爪痕が残っている姿を目の当たりにしたんです。ベトナム戦争ではアメリカ軍が枯葉剤を投下したことが有名ですが、現地の道路には手や足がない方、障がいがある方など戦争の後遺症を持っている方々が適切な医療を受けられていない状況でした。これまで看護の勉強をしていた身として、生きてきた常識が覆された気持ちになった瞬間ですね。日本の医療も大切だけど、自分がやりたいことは看護師ではなくて、海外でさらに発展途上国の現実を知りたいと思うようになりました。

ーそれは衝撃でしたね。思い立って行った先が、偶然にもベトナムという形だったかもしれませんが、そこで日本とは違う景色を見たのですね。

そうですね。そのあと高校を卒業する前に、インドにもボランティアをしに行きました。ボランティアの日と高校の定期テストの日が被って、先生に怒られたのも思い出です。次第に海外の魅力にのめりこみ、看護師になるという夢から別の道を選びたいと思うようになりました。その頃に大学進学はしないことを決断しました。

ーそれは大きな決断ですよね。

そうですね。そのときになぜベトナムに行こうと思ったのか、大学進学をしないと決めた当時の私の気持ちを突き動かしていたのは何かはわからないままですね。もちろん母は大反対。母がなぜ反対しているのかを考えたときに、不安要素がたくさんあるからだと気づいたので、ロジカルに組み立てて画用紙でプレゼンテーションをしました。例えば、私が海外で犯罪にあうリスクをパーセンテージで落とし込んで説明しましたね。その結果、好きなことをやりなさいと応援してくれるようになりました。

ー木下さんの熱い思いとプレゼンテーションに、お母様の心も動いたのですね。高校卒業後すぐにベトナムに渡ったのですか?

いえ。高校を卒業したタイミングで海外に住んで仕事をするとなったときに、私には足りないことが多いと思ったんです。お金がない、英語力がない、世の中のことを知らない。まずは日本でお金を貯めながら英語を勉強しつつ、世の中のことを知ってから海外に渡ったほうがいいと思い、高校卒業後は名古屋にある国際協力機構(JICA)で働き始めました。とにかく150万円貯めることを目標に死に物狂いで働きました。仕事内容は、海外から日本に来る研修生の食事のお世話をしていたので、英語をアウトプットできる場でしたね。

その頃にもう一度ベトナムを訪れました。二週間の滞在だったので、ベトナム以外の国にも行ってみたくて、近隣で陸路で行ける唯一の国がカンボジアだったんです。当時はカンボジアについてまったく知らず、有名な遺跡があるという印象でした。でもカンボジアの地に降り立ったときに、独特な空気感が魅力的に感じたんです。その場所こそ、今住んでいるシェムリアップの街でした。なんの根拠もないのに、私は将来ここに住むんだと直感的に思い、カンボジアに住みたいという目標ができました。

ーついに、カンボジアの魅力を知った瞬間だったのですね。移住のために一日どれくらい働いていたのですか?

一日約16時間ですね。普通の人の二倍ほど、気がおかしくなるくらい働いていました。日中はJICAで働き、夜はまた別の仕事をしていると、少しずつ精神的にも体力的にも病んだ時期があって。家族同然だったペットも寿命で亡くなった時期とも被り、とても辛かったです。一年半ほどその生活をしていましたが、なんのためにやっているのかわからなくなったこともありました。それでも、カンボジアで感じた魅力を思い出しては、カンボジアに移住しないと死ねないと思いながら自分を奮い立たせていました。

ーどんなに辛くても心の支えになったのは、カンボジアへの移住を叶えたいという気持ちだったのですね。カンボジアへの移住に対して、不安や恐怖というのはありませんでしたか?

まったくなかったです。基本的にメリットとデメリットを照らし合わせて、どちらの方がメリットがあるのかを見つけて決断すると思うのですが、私は「楽しい、おもしろい、興味がある」方向に進んでいくタイプなので、それだけで決めていました。

カンボジアで出会った胡椒に衝撃をうけて起業を決意

ー辛い時期を乗り越えて、カンボジアの移住に踏み出すきっかけはなんだったのでしょうか?

とてもいいタイミングが巡ってきたんです。一年半働いて目標金額も達成し、しばらくは海外で住んで生活できる状況で、カンボジアでの仕事の話をいただけました。2017年6月、2回目のカンボジア渡航が移住だったわけです。現地に着いてからは毎日が楽しくて。初めての一人暮らしが海外で、しかも大好きなカンボジア生活なので、毎日わくわくして過ごしていました。

ー現地にお知り合いの方もいない状況で、移住されたのですね。

はい。ツテもなく、どうすればいいかわからないまま移住しました。カンボジアに到着して三日目にバイクで移動できるようになり、一週間以内にやっと家が見つかりました。街を歩いているだけでもバイクに乗ってるだけでもわくわくして、カンボジア語が話せないのに、カンボジア人とお話をするのも楽しかったですね。カンボジアの文化や言語に興味を持ち、学ぶことはその土地に入ることだと思ったので、現地の人たちが住んでいる地域に住むことにしました。月6,000円の水シャワーしか出ないボロボロの長屋に住んで、日本とまったく違う環境だったのが逆に楽しかったです。

ー不安ではなくて、とにかく楽しい気持ちだったんですね。

そうですね。毎日がハプニングの連続だったので、そのハプニングを楽しみながらクリアしていきましたね。日本語学校で日本語を教える仕事をしていたので、職場でも言語を習得したり、近所の人とカンボジア語で話してみたりして、カンボジアの言葉や文化を学びました。

ーそこからどのようにして胡椒に関わるようになったのでしょうか?

カンボジアに住んで一年経つころに、私が住む町から450km離れたベトナム近くのカンポット州に連れて行ってもらう機会がありました。知り合いから「カンポットは胡椒が有名なんだよ」と胡椒畑を見せてもらったのが、今契約している農家の畑です。そこでカンポットペッパーの説明を聞き、実際に畑を見学させていただき、胡椒の木からちぎった胡椒を渡されたんですね。生で食べたときの衝撃は今でも忘れられません。辛味は感じたものの、香りのすごさに驚きました。私が想像していた胡椒とはまったく違った風味でしたね。この経験から胡椒に興味を持ち始めました。

シェムリアップに戻ってからも胡椒のことは常に頭にありましたね。世界遺産アンコールワットがあるシェムリアップは、さまざまな国から観光客が訪れる場所ですが、カンポットペッパー専門店がなかったんです。当時スーパーや市場で売られていたものは、カンポットペッパーとは別物でした。みんなカンポットペッパーだと信じて買っていたものは、まったく違う偽物だったんです。でも専門店がないから、信じて買うのも無理はありません。私自身も一年間シェムリアップに住んでいて知りませんでした。カンポットペッパーの本当の美味しさをみんなに知ってもらって、自国に持って帰って楽しんでいただきたいという思いから、胡椒専門店RAYS SHOPを立ち上げました。

ー衝撃的な胡椒との出会いから、お店を立ち上げる決断をされたのですね。

日本語教師の仕事は一年の契約だったので、そのあと他の国に住むか、一旦日本に帰国するかをちょうど考えていた時期だったんです。母もエステサロンを経営しているので、何か自分で自営業としてやるのもおもしろそうだと思っていました。カンポットペッパーに出会ったときに、この胡椒の美味しさに可能性を感じ、RAYS SHOPを立ち上げました。最初は二足の草鞋のような形で、朝から昼は日本語学校の先生、午後以降は胡椒販売員として動き始めましたね。

ー異国の地で事業を始めることは大変ではなかったですか?

大変でしたね。現地に経営者の人脈があったわけでもなく、手続きなどもすべて自分でおこないました。少しカンボジア語が話せるようになったからといって、手続きに必要な専門用語がわかるはずもなく、手探りでGoogle翻訳を使ったり、毎日役所に通って話を聞いたりして進めましたね。カンボジアの起業のルール、税金の納め方、登記の仕方もすべて1からだったので大変でしたが、それも楽しみながらクリアすることができました。

日本の台所に、カンポットペッパーが浸透してほしい

ー木下さんは何事も楽しみながら前へ突き進んでいる印象です。事業を始めてからは順調でしたか?

最初は今いる一室から始めて、一日一組お客様が来てくれると喜ぶようなスモールスタートでした。そこから従業員を雇って仕事を任せられるようになり、すべてが勉強の日々でしたね。もちろん順風満帆ではなく、常にたくさんの問題にぶち当たりながらも楽しく進めることができました。併設カフェのオープンや、日本でも私の活動を知って支えてくださる方々のおかげで日本での販売も始まり、毎年さまざまなことが新しくなっていきました。でも私の人生計画が崩れたきっかけは、新型コロナウイルスです。シェムリアップでも蔓延し、大打撃を受けました。観光客がゼロになり、当初自分が考えていたプランからも大きく外れたことに落ち込んでしまって。ただ目の前のスタッフを守ることだけを考え、どうすればいいのか悩みました。時間だけが過ぎ、理想とかけ離れていく状態に落ち込み、一人で抱え込み、次第に殻に閉じこもっていきました。

ーお店としてもここから新たに頑張る時期に、新型コロナウイルスの流行が重なってしまったのですね。

はい。ちょうどたくさん仕入れをして、事業に投資した時期と重なってしまって。回復の兆しもなく、疲弊しきっていました。でもある時パッとスイッチが入れ替わったというか、一周回って吹っ切れたんです!もう落ち込んでも仕方ない。自分の考え方を変えようと思ったときに、スタッフや日本での販売を支えてくれる人たちがいる。みんなに頼って助けてもらえばいいんだと思うようになりました。そこから物事がいい方向へ進み、トントン拍子に自分の心も回復しましたね。たくさんの人たちに支えられていることを再認識し、みんなにもっと感謝していこうと行動も変わっていきました。一年前はなかなか目に見える形で成果が出ず、自分自身と目の前の状況に精一杯でしたが、今は当時に比べて視野が広がりました。周りで支えてくれている人達に常に感謝するようになると不思議と自分への自信も湧いてきて、結果的にうまくいくようになったんです!価値のあるものを提供できているという本来の自信を取り戻しました。

ー木下さんご自身やRAYS SHOPとしての今後の展望を教えてください。

日本の家庭の台所に、塩や醤油と同じようにカンポットペッパーが並ぶ日がくることが直近の目標です。日本でカンポットペッパーが浸透してほしい。私自身がこのカンポットペッパーに出会った衝撃が凄まじいものだったので、魅力的な胡椒をぜひみなさんにも体験していただきたいです。私の場合、ペッパーキャビアという生胡椒で魅力に引き込まれたのですが、生胡椒はもぎたてから三日ほどで萎れてしまいます。そのため日本ではなかなか食べることができませんが、生胡椒を塩に漬けて販売することで一番近いものを提供できるようになりました。

また、私たちの理念として、「美味しい胡椒を作るには、働く人が幸せでないといけない」と思っております。そのために、衣食住のフェアトレードを心がけております。例えば「衣」だと、正当なお給料をお支払いする。「食」は農園の方々の食事のサポート、お米や水の支給ですね。「住」は家のサポートとして、住まいの提供と光熱費の支援をしています。もっとできることはあるかもしれませんが、最低限みんなが幸せに働ける環境をつくることを一番大切にしています。そうでないと、美味しい胡椒は栽培できない。農園では機械を使わず、すべて手摘みして選別しています。そこからお客様に農園の温かみや美味しさが伝わるのではないかと考えているので、胡椒の商品を通じてカンボジアを感じていただきたいです。

ー最後に、U-29世代にメッセージをお願いします!

何かを決断するときに、やるかやらないかで迷うことがあると思います。頭のいい方だと、メリットやデメリットを把握して効率的にするべきだと考えるかもしれません。でも私は、やってみて後悔してもいいと思っています。私は直感的な人間なので、おもしろいと思ったら行動する人生を過ごして、さまざまな方々に支えられて感謝しながら今があります。迷ったらやってみる、ということをお伝えしたいです。自分が楽しいと思う選択をしてくださいね。

取材:あおきくみこ(Twitter/note
執筆:スナミ アキナ(Twitter/note
デザイン:高橋りえ(Twitter