休学から始めた社会人キャリア。脇坂雄大が最後に選んだ居場所とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第364回目となる今回は、Talknote株式会社で組織開発を担う脇坂雄大さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

いち早く社会に出たいと考えた脇坂さんは、大学3年生の時に休学しインターンとして社会人キャリアをスタートさせます。その後大学を中退し、現在も勤めるTalknoteへ参画。休学をしたからこそ出会えた彼の天職とは?

交友関係に悩んだ中学時代。乗り越えられたのは好きなことに出会えたから

―まず最初に現在のお仕事や取り組まれていることを教えてください。

Talknote株式会社という会社で、唯一の人事担当として中途採用やミッション・ビジョン・バリューの再構築・浸透施策など組織開発を担当しています。

入社したのは2017年です。現在、50人程度の会社なので、5年も在籍するといつの間にかベテラン社員に片足を突っ込んでいる感じですね(笑)。

―最初から人事担当だったのでしょうか?

最初の2年はカスタマーサクセス部門の立ち上げを担いました。その後は広報担当や新卒採用の責任者などを歴任し、新規事業の立ち上げも経験します。

その後は既存事業の事業企画を担当していたのですが、事業に必要なエンジニアの採用業務をやっているうちに、会社全体の中途採用を担当するようになり、気付けば組織制度なども管轄するようになっていたんです。

会社にとって重要なことで、自分ができることならなんでもやるという想いで手を挙げてきました。何でもやりたくなるのはもともとの性格です。いろいろと任せてもらえる会社の文化をありがたく感じますね。

―自ら手を挙げるという積極性はどのように育まれたのでしょうか?生い立ちを伺ってもよろしいですか?

うちの家族はめちゃくちゃ仲良しなんです。両親は大学のバンドサークルで出会いました。なので、家では常に音楽が流れている。母も教育熱心で、お小遣い制度がきっちりしていましたね。小遣い帳をしっかりつけていないとお小遣いがもらえないんです。

温かい家庭に恵まれて、めちゃくちゃ元気な子供に育ちました。自己肯定感の塊のような感じで、むしろ謙虚さが足りなかったかもしれません。

運動はそこそこ。サッカーや水泳、空手なんかをやっていましたね。遊びがすごい得意で、ベイブレードや遊戯王といったおもちゃの大会では優勝しているようなタイプでした。

明るい子供だったんですが、中学校では一時学校へ通えなくなってしまったんです。

きっかけは部活をサボって、サッカー部の仲間とディズニーランドへ行ったことでした。
翌日学校へ行くと、ディズニーランドへ行ったことが顧問にばれていてものすごく怒られたんです。「部活を辞めろ」と迫られた僕らは、部室の掃除などの雑用を無期限で買って出ることで、ひとまずの許しを得ました。

しかし、不思議なことにいつの間にか部室掃除をしているのは僕だけになっていたんです。一緒にディズニーへ行った子たちは、普通に練習に参加するようになっていました。

どうもその子たちは、僕に抜け駆けてもう一度顧問のもとへ謝罪に行ったようなのです。遅れて僕も謝りに行きましたが、「他の子が謝ったから自分も謝るというような考えは良くない」と一蹴されてしまいました。結局、謹慎が解かれることはありませんでした。

そんな僕を見かねて、幼馴染の女の子がかばってくれるようになったのですが、今度は「部活の謹慎中に女の子と遊んでいる」という悪い噂になってしまいました。

僕にしてみれば、日に日に部員ともしゃべれなくなっていく中で唯一頼れる存在だっただけなんですが…。

次第に僕は部活にも学校にも行かなくなりました。学校に再度行くようになっても、今まで仲良くしていた子たちとは疎遠のままでした。

転機となったのは、3年生の時にやってきた転校生と仲良くなったことですね。アニメや「ニコニコ動画」など共通の趣味を通じて意気投合し、学校から帰ったらその子の家で一緒に過ごすようになりました。

彼との関係は肩肘を張るようなものではなく、素の自分を出せるようで楽しかったんです。
振り返ってみると、サッカー部の友人たちは、小学校から同じ地域で育った幼馴染であるものの、本当の意味で馴染めていたかというと違ったのだと思います。あまり好かれていなかった人たちと頑張って付き合っていたのかもしれません。

―自分の性格や自分が本当に好きなことに向き合ったことで、交友関係が変わっていったんですね。高校はどのように過ごされたのでしょうか?

高校では、軽音同好会に入ってバンド活動に明け暮れました。昔から音楽に囲まれて育ちましたし、家には父親のギターもありました。当時はアニメでもバンドがフィーチャーされていた時期で、アニメ好きの僕にしてみれば始めない理由がなかったですね。

2年生になって同好会の会長を引き継いでからはさらに精力的に活動しました。中学生の時に部活を途中で辞めて学校に居場所がなくなった経験から、同じように居場所を持てていない人に「バンドをやろう」と片っ端から声をかけていったんです。

会員はいつの間にか100人を超えて、同好会は部へ昇格しました。文化祭で出すステージも、それまでより大きな場所を使えるようになったんです。

ー高校では充実した時間を過ごされたんですね!

おかげで勉強をほとんどしていなくて、3年生の12月の模試では偏差値28でした。目をかけてもらっていた軽音部の顧問からも「君が良い大学へいけなければ、部の後輩たちにも影響を与えるよ」と激励され、一念発起しました。MARCHレベルの大学にセンター利用試験で入学するために、勉強する教科を3教科に絞りました。センター試験前にはなんとか滑り込めるかというぐらいにまで偏差値を伸ばすことができたんです。

しかし、センター試験当日にインフルエンザにかかってしまいました。それまでほとんど寝ないで勉強していたことが祟ったのでしょう。その後は、後期受験で工学院大学へ無事合格することができました。しかし、大学受験自体には心残りがありましたね。

―後期受験で工学院大学を選ばれたのはなぜだったのでしょうか?

もともと、機械系の勉強をしたいと思っていたんです。父がハードウェア・エンジニアということもあり、家でギター用のアンプやエフェクター作りを学んでいました。高校生にとっては高いギターの機材を、安い材料で工夫しながら作っていたんです。

しかし、実際に大学へ入り、作りたいものを作ることと作らなきゃいけないものを作ることは全く違うということに気付かされました。

あまり勉強に身が入らず、もっぱら大学の自治会の活動に熱を入れて2年間を過ごし、このまま「大卒」という肩書を得るためだけに大学に居続けるのは無意味だと思うようになりました。

自分の力を試したいーー休学をして得た社会人経験

ーそこで大学を休学することにされたんですね?

最初は退学するつもりだったのですが、親とも話し合った結果、大学へ行かなくてもやっていけると証明できるまで退学はしないという取り決めになったんです。

ただ、その約束を取り付けるためだけでも、親に休学後のキャリアプランをプレゼンするなどして苦労しました(笑)。

ー休学してからはどのような活動を始めたのでしょうか?

子供のころからパソコンを触っていて、インターネットには強いという自負があったので、IT系の会社でアルバイトを探し始めました。

サイバーエージェントグループのアドテク系の会社にインターン枠で入社することができ、広告運用や代理店営業の仕事を得たんです。

会社には専属の広告運用担当がおらず、エンジニアの人に教わりながら仕事を覚え、ある程度できるようになると自分でスキルを磨いていくようになりました。

とにかく働くことが楽しかったですね。仕事は大変だけど、これで失敗したら大学へ戻らなくてはいけないという緊迫感も心地良く感じました。

ただ、仕事にのめり込む内に、朝の9時から深夜3時まで働き、家へ帰る気力も無くして会社近くの漫画喫茶で眠るような生活になっていきました。そして、半年経ったころに体調を崩してしまったんです。しばらく休職している間に、会社の事業そのものが縮小してしまい、その会社を辞める事になりました。

ー仕事にのめり込みすぎる性分なのでしょうか?

そうですね。この後にゲームのデバックのアルバイトや、個人事業主として企業の採用業務を請け負うなどしたのですが、そのどちらでも体調を崩すまで仕事を続け、動けなくなってから我に返って仕事を休むというようなことがありました。

そんなことを繰り返すうちに、お金目的で受ける仕事は悪いエネルギーを自分に引き込んでしまい楽しい仕事すらもつまらなくしてしまうということを学んでいったんです。

仕事を選ぶ基準も変わっていきましたね。お金にこだわるのではなく、ビジョンに共感して仕事がしたいと思うようになったんです。

休学したからこそ出会えた何をしていたって楽しめる仕事

ーそんな時に出会ったのがTalknoteだったんですね?

はい。当時、採用イベントに顔を出しては、採用業務の仕事がもらえないかといろんな会社の人事の人とコンタクトを取っていました。

そんな中で、Talknoteの社員がランチに誘ってくれて、後日オフィス見学へ行くことになりました。代表とも馬が合って即日で入社を決めて契約書にサインしましたね。この時退学も決意したんです。あまりの展開の速さに周りにいた社員が「よく考えた方がいい!」と心配したほどでした(笑)。

ー結果的には5年も勤め、ベテラン社員の仲間入りをするほどです。Talknoteにどんなやりがいを感じているのでしょうか?

何よりも会社のビジョンが好きですね。

Talknoteは「100年後の豊かな日本を作るのがTalknoteでありたい」というビジョンを描いています。

例えばの話ですが、徳川家康よりも僕たちの方が豊かな生活を送っていますよね?そんな風に、現代の富豪であるマーク・ザッカーバーグやジェフ・ベゾスよりも、100年後の僕らの子孫の方が豊かな暮らしを送っている可能性があります。

ただし、そのためには土台となる品質の高い製品やサービスが不可欠です。そしてそれらのサービスが増えていくためには、それを生み出す組織が健全でなくてはならない。Talknoteはそのために組織の情報共有を最大化しようとしているのです。

代表はもともと飲食店も経営していました。人気があった店を組織課題が原因で閉店させてしまった経験があるんです。どんなに良いものを提供していても、組織の問題のために消えてしまうことがあるという危機感が、会社のビジョンにもプロダクトにも根付いているんです。

実際、人や組織の課題は予想外のことばかり。逆境やトラブルにこそ燃える性格をしている僕にとって、どんな部署にいようと組織課題に向き合うことを避けられないTalknoteでは、何をやっていても自分が楽しめる領域を出ることはありません。働くには絶好の環境だと思っています。

ーTalknoteで働くことで、ワーカーホリック的だった働き方にも変化があったのでしょうか?

タイミング的にはそうかもしれません。入社する前にアイドルにはまって、ライブイベントへ良く行くようになったんです。自然とプライベートの時間も大事にするようになってきた感じでしょうか。

おかげで婚約者とも出会い、いつ死んでもいいやというような働き方・生き方をしていたのですが、長生きしようと思うようになりました(笑)。

ー今後は、どんなことにチャレンジしていきたいですか?

個人としては何だってやるという前提の上で、いくつかの目標を持っています。まずはTalknoteを上場させること。生産性の高い組織にして、30歳で年収1,000万は当たり前の会社にしたい。そして、最速で時価総額500億円を達成して、10年後には100の事業を作る…。

普通に考えたら無理だよと言われることばかりですが、これらを実現するために、これまでと同じように重要だけどやる人がいないことを全部すくっていくのが自分の役割。ただ、手が足りないことも事実なので、当面は採用担当として仲間を探していきたいですね。

高いコミット力を持ち、Talknoteが実現しようとする未来にワクワクする方、一緒にやりたいと思える方をお待ちしています!

ー本日はありがとうございました!脇坂さんのさらなる挑戦を応援しています!

取材者:高尾有沙(Facebook/Twitter/note
執筆者:海崎 泰宏
デザイナー:五十嵐有沙(Twitter