Ayum代表 鹽井晴香さんが語る。カンボジアで挑む不屈の精神に隠された努力と葛藤の日々

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第143回目となる今回は、Ayum Japan Consulting Co.,Ltd.代表としてカンボジアの人材・教育課題解決に挑む鹽井晴香さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

6歳より入団したボーイスカウトにて大阪代表、日本代表を歴任。高校時代から国際協力に関わり、大学進学後はカンボジア国内2社にてインターンシップを経験します。将来は「カンボジアで教育・人材事業をしたい」と心に決め、2014年、新卒で株式会社パソナへ入社。派遣事業の営業職に従事。新人賞・月間成績全国1位・2期連続MVPなどを獲得し個人で年間3億円の売上を打ち立てます。2015年より、パラレルキャリアとして社内ではカンボジア部を、社外では一般社団法人を立ち上げました。2018年より、ドリカム休職制度を活用してカンボジアに単身渡航。Ayum Japan Consulting Co.,Ltd.を起業し、現在に至ります。

一見華々しく見える鹽井さんの経歴ですが、その裏には人知れぬ努力と涙の数々が。理不尽にも思える大人からの評価、「もう治ることはない」と言われた持病と向き合った日々、頑張っても追いつけないことがあると痛感した大学生活……。

今、あなたが本気で取り組んでいることはありますか?守りたい人はいますか?カンボジアの現在と未来に本気で向き合う鹽井さんだからこそ語れる「圧倒的な成果を出す意味」を半生と共に紐解きます。

 

カンボジアへ単身渡航!Ayum創業までの歩み

ー本日はよろしくお願いします!現在のお仕事やこれまでの活動について教えてください。

よろしくお願いします!「可能性を引き出し、ともに歩む」をMissionに掲げるAyum Japan Consulting Co.,Ltd.の代表を務めています。カンボジアの人材・教育インフラを創るためにカンボジア国内にて採用支援やスタッフ研修を行っています。

2014年に新卒で株式会社パソナグループに入社し、法人営業として4年間勤務しました。その後『ドリカム休職制度』を活用し、2018年よりカンボジアへ単身移住しています。

 

ーユニキャリ初となるカンボジアからのゲスト出演ですね!とても楽しみです。ドリカム休職制度とはどのような制度なのでしょうか?

社員一人ひとりの描くさまざまな夢の実現に向け、自分自身を磨き、未来に向けての第一歩を踏み出すチャンスをひろげる休職制度で、叶えたい夢の種類によって複数のコースが設けられています。キャリアデザインコースやボランティアコースなどがあり、私は『ベンチャーコース』を選択してカンボジアへ渡り、起業しました。

 

ーもともと起業を意識してベンチャーコースを選択されたのでしょうか?

いえ、はじめから意識していたわけではなく、私の夢を叶える方法を探る過程で「自分で新しいものを作る必要があるのでは」という結論に至りベンチャーコースに進みました。

 

ーそうだったんですか!

大学生のときに「将来はカンボジアで人材と教育に関する事業に携わりたい」と思うようになり、就活でもこの想いを選考企業に伝えていたんです。多くの面接官の方からは「カンボジアはビジネス市場が狭くて成り立たない」「ボランティアをしたいの?」と言われ続けていたのですが、唯一「その夢を一緒に叶えよう」と背中を押してくれたのがパソナでした。

ー入社前から鹽井さんの夢を応援してくれた企業だったんですね。

入社当初は、パソナグループの海外拠点のひとつとしてカンボジア法人を立ち上げられたらいいな、と思っていたのですが、社長や役員の方と議論を重ねるうちに、当時のカンボジアの市場規模から推測すると支店の立ち上げは5年〜10年先になりそうだね、という話に。市場だけを考えると、このような判断になることは私自身も理解できました。

 

ーなんと!すぐにカンボジアでチャレンジできる状況ではなかったんですね……。

そうなんです。もちろん、すぐにチャレンジできるとは思っていませんでしたので落胆することはありませんでした。ありがたいことに、いつも相談に乗ってくださっていた役員の方から「10年もビジネスチャンスを伺う必要があるなら、会社の判断を待つのではなく自分がベストな形でチャレンジするのも考えてみても良いかもね」と言っていただくようになり、起業を意識し始めました。

 

ー個人の夢を応援する、素敵な文化ですね!

私が入社した2014年頃に、代表が「社内起業家を増やす」方針を打ち出したんです。パソナという会社を拡大させるのではなく、パソナのような志を持った会社を増やしたい、と。当時のパソナにはイントレプレナー気質を持った社員があまり多くなく、「やりたいこと」を明確に持っていた私は、周囲から気にかけていただけたのかもしれません。本当に恵まれた環境でした。

 

「やるなら頂点を目指せ」父と歩んだ二人三脚の日々

ー岡山で生まれ6歳のときに大阪へ引っ越すことに。何がきっかけだったのでしょうか?

父が大阪出身で「いずれは地元へ戻りたい」という強い想いを持っていたようです。私の小学校入学のタイミングで引っ越したのですが、私や弟が関西弁に順応しやすい年齢のうちに引っ越した方が学校で仲間外れにならないのでは、と両親が考えてくれました。しかし、ちょうどその頃は両親の仕事の区切りがつきにくく、両親に先立って私と弟の2人で父の実家へ引っ越すことに……。

こうして、両親とは2ヶ月に一度会える関係となり、別居生活は5年間続きました。幼いながらに、祖父母に迷惑や心配をかけないように、とお手伝いをするようになりましたね。

 

ー引っ越しをきっかけに家族の環境が大きく変化したんですね。その後、ボーイスカウトへの参加を決めたそうですが、ボーイスカウトとはどのような団体なのでしょうか?

『Creating a Better World (より良き社会を創る)』を世界共通のヴィジョンとし、より良き社会人の育成を目的に、世界169の国と地域、約4,000万人が参加している青少年団体です。日本には団と言われる活動母体が約2,000あり、小学生から25歳までの約10万人が活動しています。キャンプやハイキング、街頭募金などのグループ活動を通じて、子ども達の自主性、協調性、社会性、たくましさやリーダーシップなどを育む団体です。

 

ー世界中に参加者がいるとは!参加のきっかけは何だったのでしょうか?

同じくボーイスカウトに参加していた、いとこの影響です。

 

ー身近な方が参加していたんですね。

そうなんです。また、私が11歳を迎えた頃には、父がボーイスカウトの指導者として参画することに決まりました。その頃には両親の仕事も落ち着き、家族全員が大阪に引っ越していたので、別居していた5年間の溝を埋める目的で親子活動がスタートしました。

 

ーお父さんも!お父さんはどのような指導者だったのでしょうか?

斬新で革新的な指導スタイルを貫くタイプでしたね。

皆さんの学校でも、既存のやり方を粛々と進めるタイプの先生と、新しいものを積極的に取り入れる改革型の先生がいませんでしたか?父は完全に後者で、今までのボーイスカウトの活動や指導法を全て捨てて変革を起こし、よりよいものを創るために奮闘していました。

やるなら頂点を目指せ」が口癖の指導者でもありましたね(笑)

 

ーお父さんの言葉通り、当時最年少で最高賞を受賞した鹽井さんですが、この結果に繋がる要因は何だったと思われますか?

毎日ひたすらレポートを書き、誰よりも幅広く勉強していたからでしょうか。周囲の仲間が学校の課題や遊びに費やしている時間を、私はほぼボーイスカウトの勉強に費やしていました。

中学生の頃は1日2〜3時間。レポート作成の他にも、ワードやエクセルの使い方を独学したり、ホームページ制作やマネジメントの勉強をしたりしていました。指導者である父とは家でもずっと一緒なので、家庭内でも敬語を使用し、父と毎日ミーティングをして過ごしていましたね。

 

ーすごい……!そこまでボーイスカウトの活動にコミットできたワケが気になります。

やると決めたら頂点にたどり着くまでやる」、そう決めていたからかもしれません。

父は私に一度も「勉強しなさい」と言わない一方で、小学生の頃から「常に目的、目標、行動計画を意識して行動しなさい」と言い続けていました。何のためにやるのか、目指すゴールはどこか、目標達成に必要な行動は何か、など…….。「やるなら頂点を目指せ」が口癖の父が指導者でしたから、目標を頂点と定めたらたどり着くまでやるしかない、そんな状況でしたね(笑)

 

ー大変だったこと、辛かったこともあったのでは?

しんどかったですね(笑)実は、当時の私は野外活動がすごく嫌いだったんです。ボーイスカウトの活動ではキャンプやハイキングもあったのですが、私は家にいたいタイプの子どもでした。ボーイスカウトの制服を着ること自体にも積極的ではなくて(笑)なぜあんなに頑張れていたのかわからないほど、素質としては向いていなかったと思います。

 

ー活躍の背景には数々の努力があったんですね。ボーイスカウトの活動を続ける中で、理不尽さを痛感する出来事もあったとか……。

身内が指導者であるが故に、私に対する周囲の大人からの評価に理不尽さを感じることがあったんです。

父が指導者になってからというもの、父は参加者の指導だけでなく保護者の教育にも精を出し、私は一スカウトとして全力を尽くしてきました。ですが、周囲には父に対して「自分の娘だから優しくしているんだろう」「甘やかしているんだろう」と不満に思う人もいて…….。成果発表のタイミングで私が評価されると、「父親が指導者だからいい評価もらえるんだよね」と直接言われることもありました。すごく悔しかったですし、父も私と同じように悔しかったと思います。

 

ー家でも特訓するほど頑張っていた鹽井さん親子の姿も、努力として一筋縄には認められないのがもどかしいですね……。

そうですね。理不尽さを最も痛感したのは、それまでの努力が成果となって現れ始めた頃に、父から「ここで次のステップに進むと、世間から甘やかされているだけと評価されてしまう。だから、今は同じステップで我慢して。」と言われた時でした。もちろん父もそんなことを言いたくはなかったと思います。

 

ーええっ!

当時、中学生だった私は「頑張った分、褒めてもらえる」とか「成果が出る」と単純に思っていたんです。でも、私は頑張るだけじゃだめなんだ、と知りました。私の場合は、頑張ったからといって認められることも評価されることもない。「父親が指導者だから」という理由で、他人の2〜3倍努力して人並みの評価なんだ、と実感しました。

結果的にこの経験がバネになり、圧倒的な実力をつけて認められるようになりたい、見返したい、と思うように。組織マネジメントに注力した結果、3チームのまとめ役を任されることになりました。

 

生きる意味を見失った初めての挫折と世界への挑戦

ー鹽井さんの人生を語る上で、もう一つ欠かせないのはバトントワリングの存在。なんと、5歳から練習を始めたそうですね!何がきっかけで興味を持ったのでしょうか?

たまたま観賞したバトントワリングの公演で、私も舞台上で輝く人になりたい、観てくれる人を笑顔にしたい、と思ったことです。

 

ー素敵な夢ですね!バトントワリングは何歳まで続けられていたのでしょうか?

2度のブランクを経て大学卒業まで続けました。1度目のブランクは大阪に引っ越したとき、2度目は14歳のときです。引っ越し直後はなかなかバトンスクールを見つけることができなかったのですが、やっとの思いで隣町に発見!小学校4年生からレッスンを再開しました。

 

ー隣町に通うほど好きだったとは!どのような理由で2度目のブランクを経験することに……?

両足に生まれつきの障がいがあると判明し、今すぐに手術が必要だ、とお医者さんから言い渡されたんです。

 

ーえ!?

以前から両足に違和感を感じていたため、いろいろな病院で検査を受けていました。成長痛だと診断され続けてきましたが、症状は悪くなる一方。両足の痛みが強くなり7度目の検査をしたところ、半月板の変形症だとわかりました。生まれつき、膝の軟骨が変形していたんです。

 

ーまさか、そんな持病を抱えていたとは……。

それまで一般コースでレッスンを受けていましたが、13歳から選手コースへ移り、翌年にはさらに上のステップへいこうね、と話していた矢先のドクターストップでした。早急な手術が必要なだけでなく復帰も厳しいだろう、と……。

 

ー診断の段階で復帰についても言及されたんですね。当時の感情を覚えていらっしゃいますか?

覚えています。まさに「お先真っ暗」でしたね。バトントワリングが好きで継続してきたことでしたし、もっと上のレベルに挑戦したい、と思っていたタイミングでもあったので「これから何のために生きていくんだろう」と思ったほど。練習を続けたい想いと自分にはどうすることもできない身体の狭間で揺れ、挫折を経験しました。

 

ー手術を受けた後はどのような生活を送られていたのでしょうか?

一度は練習から離れましたが、2年間のリハビリを経て奇跡的に復帰の目処が立ったんです!高校生から復帰することができました。

 

ー素晴らしい復活劇……!となると、高校ではバトントワリングとボーイスカウトの活動を並行してされていたのでしょうか?

はい、ボーイスカウトに関しては週7日活動していました(笑)

高校生になると活動内容も小中学生の頃と様変わりし、野外活動よりはプロジェクト創出に近い活動が多くなります。自分で社会課題を見つけ、解決に向けてどのような取り組みが必要かを考え、様々な方を巻き込んだ地域活動を行ったこともありました。複数のプロジェクトを同時に回していましたね。

 

ー休まず毎日活動とはすごい。この頃はボーイスカウトのどのような側面にやりがいを感じていましたか?

一つは、プロジェクトに巻き込む人が大きく成長していく姿を見ること、もう一つは、ボーイスカウトの活動を通して私自身の活動の幅がどんどん広がっていく感覚があったことです。

ボーイスカウトは、団、地区、都道府県連盟、全国など大小さまざまな組織団体に分かれているのですが、努力を重ねれば重ねるほどレベルが上がり、大阪代表として全国へ、日本代表として海外を訪問する機会までいただけるようになりました。日本だけでなく、世界のいろいろな人と出会えたことはとても魅力的でやりがいを感じる経験でしたね。

 

ー日本代表に!ボーイスカウトの国際活動では、どのようなことをされていたのでしょうか?

国際会議で日本代表として意見を述べ、各国の代表と議論を交わすのが主な活動でした。

私は韓国とマレーシアで行われた国際会議へ出席し、韓国では両国の関係性向上について、マレーシアでは28カ国の代表と世界の社会課題に対してそれぞれの国ができることについて話し合いました。発展途上国が抱える課題を明確化し、それらの国に対して日本を含めた先進国ができることは一体何なのか、途上国側の意見を踏まえながら話し合うんです。加えて、ボーイスカウトの活動をよりよくしていくために各国が実践していることを情報交換することもありましたね。

 

ー現在はカンボジアにお住まいの鹽井さんですが、この頃から発展途上国と繋がりがあったんですね。活躍ステージが大きく変わった高校生時代をどのように振り返りますか?

とにかく必死でした。このときの経験が現在の起業、そして会社を運営するにあたってのマインドやスキルの基本になっているので、すごく大変でしたが経験してよかったと思っています。

日本代表として海外訪問したり皇太子殿下へ表敬訪問させていただけたりした要因の一つは、さまざまな人を巻き込み、プロジェクトマネジメントをした、その成果を認めてもらえたからだと思うんです。高校生で国の事業の一環として海外へいかせていただくなんて、そう簡単に経験できることじゃない。日の丸を背負う責任を感じながら日々を過ごせたのは、本当に素晴らしい経験でした。

 

努力だけでは敵わないモノ、そしてカンボジアを知った大学生活

ー何にも代え難い経験が詰まった高校時代ですね!大学はどのような基準で選ばれたのでしょうか?

当時興味のあった国際協力の勉強とバトントワリングを継続できることを主軸に、関西圏で大学を探しました。その結果、条件と合致したのは龍谷大学のみ。迷うことなく志望校に決めました。

 

ーこのときもバトントワリングへの情熱は変わらず大きかったんですね。

はい、高校でもバトントワリング部に所属していましたが、初心者のみのチームだったため技術を向上させるには難しい環境だったんです。そんなとき、たまたま韓国で3万人の前で踊る機会をいただきステージに立った私は、「伝えたいことが伝えられていない」と実力不足を痛感して……。私がバトントワリングを継続してきた理由は、人に感動や笑顔を届けられるような人になりたかったから。でも、実際には伝え切れていない自分を目の前にし、もっとハイレベルな技術力が必要だと思いました。

 

ーなるほど。大学の練習は高校と比べていかがでしたか?

いやーー、キツかったですね(笑)大学生活はほぼ練習に時間を費やしたと言っても過言ではないほど練習漬けの毎日を送っていました。

 

ーすでに大変さが伝わってくるようです……。高校時代と異なり大学は強豪校だったのでしょうか?

そうなんです。当時の部員全員が全国大会出場経験者でした。キャプテンに至っては世界チャンピオン!チアリーディングとバトントワリングの合体型の部活だったのですが、両者の入部条件が異なるほどバトントワリングは強豪チームでした。

 

ー入部条件とは一体……?

チアリーディングは初心者も入部可能だったのですが、バトントワリングは「スポーツ推薦入学者限定」だったんです。私は一般入学だったので、案の定入部を断られました。

 

ーそんな!その後、どうされたのでしょうか?

入部を断られてから1週間「バトントワリングをやりたくてここに来たんです」と、キャプテンや顧問の先生に頭を下げ続けました。大学の志望理由に入れていたくらいですから、「スポーツ推薦じゃないと入れない」と言われてしまっては、この大学に来た意味がありません。熱意が伝わったのか、なんとか入部することができました。

 

ー大学の部活は「キツかった」とおっしゃっていましたが、どのようなところにそう感じましたか?

並大抵の努力では追いつけない厳しさと、団体競技ならではのプレッシャーですね。

バトントワリングは小さい頃から習い始める人が多く、全国大会出場レベルの環境に大学生から身を置いて追いつくのは簡単ではない。身体のつくりから変える必要があるほど相当厳しい道になることは一目瞭然でした。また、私の存在がチームにとって迷惑にならないかとても気がかりでしたね。チーム競技であるが故に、1人でも技術力に劣る部分があるとチーム評価に直結しますから。

 

ーこの状況でも食らいつくためにどのようなことを心がけましたか?

圧倒的な練習量をこなすことです。私はバトントワリングと並行してチアリーディングの練習にも参加していたため、チアリーディングだけで覚える曲が約50曲。深夜1時までの自主練を毎日繰り返していました。そうでもしなければ本当に追いつけない環境だったんです。

 

ー深夜1時!?

はい(笑)当時、龍谷大学はバトントワリングの関西連盟コンテストで17連覇中。優勝以外の結果は絶対に許されない世界だったので、私が入部したことで王座から陥落する不安と常に戦っていましたね……。

ーまさに「部活漬けの日々」。この頃の経験を通してどのような学びが心に残っていますか?

「世の中には、どんなに努力を重ねても敵わないものがある」。そう感じました。

ボーイスカウト時代は、努力した分自分に返ってくる感覚があった、だから頑張ろうと思えたのですが、大学のバトントワリングは、頑張っても頑張っても成果がついてきている感覚を全く感じ取れなかったんです。また、私はすでに両足だけではなく、腰にも「脊椎分離症」「椎間板変形症」という2つの治らない持病を抱えていました。4年間で痛み止めの注射を打った数は100本以上……。身体が思うように動かず、痛みと悔しさを抱え毎日泣きながら練習を重ねるも成長を感じられない時期が続き、周りの仲間にも迷惑をかけてしまい、常に自信を持つことができませんでした。何事も努力しなければ頂点には辿りつけないと思うのですが、人には努力が通用しない、向き不向きがあるんだと学びましたね。

 

ー大学2年生の頃に現在お住まいのカンボジアへ。初訪問はどのようなきっかけで実現したのでしょうか?

高校生の頃から国際協力活動を継続していたのですが、実際に現地へ赴いた経験はありませんでした。一度きちんと現地を見てみたいと思い、発展途上国へ行こうと思っていたことです。ですが、実はこの時、カンボジアではなくバングラディシュに行こうとしていたんですよ。

 

ーそうだったんですか!?

たまたま祖父がバングラディシュで40年ほど前に働いていた経験があり、その繋がりで。ですが、当時はちょうどバングラディシュの情勢が悪化していた頃。入国困難となり別の国を検討していた時に、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんと出会い「カンボジアに行こうよ」と声をかけていただいたんです!偶然のご縁が繋がり渡航を決意しました。

 

ーもともと違う国へ渡航予定だったとは驚きです。現地ではどのようなことをされていたのでしょうか?

スタディーツアーに参加しました。具体的には、さまざまなNGO団体や企業をはじめとするセクターの方にお話を聞かせていただきました。インターンシップも経験しましたね。

 

ー国際インターンシップも経験されていたんですね!

はい。国際協力を詳しく知る中で、「持続可能な支援をするにはどうしたらいいか」を考えるようになったんです。ボランティアを通してこの問いと関わる選択肢もありましたが、持続可能性に疑問を持ち続けていました。そんな中、カンボジアを訪れた際に「ソーシャルビジネス」という形でビジネスとして社会課題を解決している経営者さんと出会ったんです。その方の話を聞いていくうちにピンと来るものがありました。「あ、私が考えていたのはこれだ」と。

気が付いたら、「半年後、ここでインターンをさせてください」と社長さんに直談判していました(笑)

 

ーすごい展開ですね!インターンではどのようなことをされていましたか?

シェムリアップにあるスパ製品の製造販売店で、新店舗の売上を2倍にするというミッションの元、お店創りや人材育成、マーケティングや商品開発を1ヶ月間担当しました。

 

ー異国の地でのビジネス経験。どのようなことを感じましたか?

異文化を実感しましたね。インターン先の会社は、従業員の多くが農村出身者。文化背景も教育環境も全く異なる環境の中で育った方々と一緒に働かせていただいたことで、企業が人を採用して育てていくことがどれほど大切なことなのか、を痛感しました。

 

ー当時から「人が働くということ」が気になるポイントだったんですね。

はい。インターン先のスタッフが言っていたことで、今でも覚えている言葉があるんです。

 

ーなんでしょう?

「今までいろんな国のいろんな方からボランティア支援として様々なモノをもらってきたけど、いただいたモノを大事にできなかった」と。「でも、ここで働くようになり初めてお給料をいただいて買ったモノは、すごく大切にできるようになった」。そう言われたんです。

この言葉を聞いてハッとしました。私たち日本人は、彼らのように発展途上国で暮らす人々のために、とモノの提供などを通して支援していますよね。もちろんそれは必要な事もたくさんあると思うのですが、我々提供側には受け手の感情を理解できていない部分があるのかもしれないと思いました。。と同時に、「自分でお金を稼ぐ」ということがどれほど大事なのか、気付かされましたね。

 

ーすごく身に染みる言葉ですね。「働く」ことの奥深さを感じます。

現地の方と共同生活を送るにつれて、カンボジアは内戦が原因で国の全てが一度崩れてしまっているため、今は海外からの技術や知識的なサポートが必要なのではないか、と感じるようになりました。

「働く」こと自体が当たり前ではなく、非常に大事な経験であるにも関わらず、まだまだ教育面の課題が山積みなのがカンボジアという国。社会へ出ていった人達を変えていく、今後はそんな人材育成が必要なのでは、と当時20歳の私は感じました。そのときの思いが今に繋がっています。

 

圧倒的成果にこだわるワケは叶えたい夢にあった

ー新卒ではパソナへ入社。インターンを経験するほど思い入れのあったカンボジアでそのまま働くか、迷いはありませんでしたか?

悩みましたね。でも、このままの私が大学卒業とともにカンボジアで就職しても何の役にも立てないだろうな、と漠然と思っていました。

右も左もわからないままカンボジアへ行くよりも、まずは日本のビジネス環境に身を置き日本のやり方を学ばなければ、カンボジアにとってよいものを何も提供できないと思ったんです。日本で社会人としての基礎力や人材にまつわるビジネス感覚をしっかりと学び、母国で圧倒的な成果を出してからカンボジアへ行かなくては何も通用しないだろう、と。

 

ー入社の裏には並々ならぬ決意があったんですね。そして1年目にして「圧倒的な成果」を出し、新人賞を獲得された鹽井さんですが、結果を出すために意識されていたことはありますか?

圧倒的な1位を獲る」と決めていたこと。この1点ですね。

 

ー「やるなら頂点」の精神を貫き通したボーイスカウト時代の鹽井さんを彷彿とさせますね。

そうですね(笑)この頃もその言葉を常に意識していました。

大学まで体育会系の環境に身を置き深夜に及ぶ練習を繰り返していたこともあり、入社当初から体力だけは有り余っていました(笑)。朝6時に起床して大学へ行き深夜1時まで自主練する生活から一変、就職を機に上京した途端、仕事以外にやることがなくなってしまったんです。朝7時に出社して夜11時頃まで仕事をする。そんな生活を1年間送っていました。

 

ーすごいですね……!しんどいと感じる瞬間はなかったのでしょうか?

全く苦ではありませんでした。会社の誰かにこの働き方を指示されたわけではなく、私自身が「もっと働きたかった」から働いていたので、しんどさを感じることはありませんでしたね。

ー社会人1年目から成果を残すことができたポイントは、どのようなところにあったと振り返りますか?

目的や目標を持って行動していたことでしょうか。加えて私の場合は、お客様から学ぶ機会が多かったことも影響していると思います。

入社当時の私は、「営業とは何か」から理解するためにとにかくお客様の元へ出向き、お客様が望んでいることを伺い、声に耳を傾け続けていました。「共に歩いていきたい」想いを率直に伝え、お客様のためになる行動をとり続けましたね。当たり前のことをやるのは当然のこととして、他の人がやらないようなことを率先してやろう、と心がけていました。

そして最後に大切にしていたことは「仕事をとことん楽しむ」こと。楽しんでいる雰囲気はお客様にも伝わりますから。

 

ー「他の人がやらないこと」とは、具体的にどのようなことをされていたのでしょうか?

当時、私は人材派遣サービスの営業として勤務していました。一般的に、人材派遣サービスは登録スタッフ様を企業様へご紹介することが主な提供価値だと思われがちなのですが、ご紹介だけではなくご紹介先となる企業の組織を一緒に見直す提案をしていたんです。つまり、企業様の求める人材をご紹介するだけではなく、組織課題解決の視点からご紹介する配属ポジションを創り出すことに注力していました。

 

ーご紹介だけに留まらず、より本質的な課題にもアプローチされていたとは…!企業様にとっては、まさに「痒いところに手が届く」サポートですね。入社当時の想い「母国で圧倒的な成果を出す」が形になりつつあるように感じますが、カンボジアで働くためにその後はまず何をされましたか?

入社2年目の時、社内に「カンボジア部」を立ち上げました!

「任された仕事で成果を出さない限り誰にも認めてもらえないだろう」と思い、カンボジアに対する私の想いを認めてもらえるように、入社から1年間はひたすら成果を出すことにコミットしました。2年目になり一定の成果が目に映り出したことで、担当業務以外のことをやり始めたとしても、ある程度社内からの理解を得られるのでは、と思ったんです。

部活の立ち上げから約1年間は、部活の主要メンバー全員に「部署でMVPを獲る」ように伝え、結果的に全員がMVPを獲得しました。

 

ーえ!?

部活だけを頑張っていても、会社から任された業務で成果が出ていなければ本業外の業務を認めてもらうことは難しい…。だからこそ、カンボジア部の活動を認めてもらうためには「主要メンバー全員のMVP獲得」が必須でした。部活設立から1年間は、カンボジア部という名のもと、後輩へ営業研修を行っていました。

 

ーすごい……。鹽井さんが新人賞を獲得されただけでなく、主要部員全員がMVPを獲得されたとなると非常に再現性の高い研修だったのだろうと想像します。研修の内容は主にどのようなものだったのでしょうか?

部員、そして企業の数だけ様々なケースが出てくるため、ケースが発生する度に事例として取り上げ、どのような行動アプローチをすることがベストなのか、議論していました。毎朝7時から勉強会を開催していましたね。

 

ー1年、2年と本業の実績と信頼を積み重ねることで、鹽井さんが実現したいカンボジア事業へと軸足を移すようになったんですね。

そうなんです。2年目以降は、部署メンバーに「18時で帰ります」と伝え、定時以降はカンボジア部の活動をしていました。社内にはいるが自席にはいないことを伝え、その代わりに成果を出し続けると約束して応援してもらっていましたね。

代表や役員にも私がやりたいことを伝え続け、カンボジア部だけでなく社団法人も設立しました。カンボジアと日本を繋ぐイベントやキャリア支援を行っていたんです。「それだけ強い思いがあるなら現地に行くべきだ」と専務に言っていただき、少しずつ軸足を移すようになっていきました。

ーカンボジア部の活動と本業。2つの活動を両立させるために意識されていたことはありますか?

絶対に成果を出すこと。これに限りますね。

 

ー日本で務めていた頃とカンボジアで創業者という立場で務めている今を振り返ると、働くスタンスの上で変化を感じることはありますか?

基本的には変わらない気がします。

東京本社に務めていた頃も、まだ若手だからまずは上長から言われたことをやればいい、という発想ではなく、チーム長の仕事を積極的に巻き取ることを意識して業務に携わっていました。キャンペーンを企画し、実行して売上成績を上げる過程においても、個人だけではなくチーム売り上げを上げる方法を考え、提案し続けていたんです。そのため、2年目に入ると私の一つ上のポジションの視点で物事を考える姿勢が身につきました。

現在は、まさにその「一つ上のポジション」に私がいる状態なので、本社に務めていた頃に意識していたことが実践として役立っていると感じています。

 

ー最後に、鹽井さんが考える「これから」を教えてください。

Ayumに関わる人を幸せにできる会社・事業を創りたいと思っています。そして、社員一人ひとりの成長環境を創れる会社であり続けたい、とも思っています。

実は今月、オフィスを移転したんです!社員一人ひとりが、Ayumで働くことに誇りとやりがいをもっと感じられる環境・取り組みを続けていきたいと思いますね。お客様には、何か困った時にまずは我々に頼ってみようと思っていただける存在になりたいと思います。

ー本日はありがとうございました!鹽井さんのさらなる挑戦を応援しています!

取材・執筆:あおきくみこ(Twitter/note
デザイン:五十嵐有沙(Twitter