サッカーと仕事を通じて自己成長を求め続ける 籾木 結花の「自分だからできる」を大切にする生き方とは。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第227回目となる今回のゲストは、プロサッカー選手としてアメリカでプレーしながら、日本で会社員をされている籾木 結花さんです。なでしこジャパンにも選ばれるなどサッカー選手としてのキャリアを歩む一方で、株式会社クリアソンに所属しながら自分にしかできない仕事を行っている籾木さんにこれまでの人生や今後の展望についてお聞きしました。

サッカーに夢中になっていた幼少期

ー現在のお仕事について教えてください。

アメリカのサッカーチームに所属をしながら、日本では株式会社クリアソンに就職をしています。仕事では、先週オンラインサロンを開始することを発表し、今はそれに向けて準備をしています。

 ーサッカーはいつ頃から始めたのでしょうか。

きっかけはあまり覚えていませんが、幼稚園生の頃から始めていました。父がサッカーをやっていたこともありますが、幼稚園の頃はずっと男子と一緒にサッカーなど外遊びをしていて、自分が目立ちたいと思っていました。

 ー小学生時代に印象に残っている出来事はありますか。

小学校のサッカーチームで男子に混ざりながらサッカーをしていました。しかし、小学校2年生くらいの時に小学校のチームでは物足りないと感じ、お父さんの会社のフットサルチームについていった時にクラブチームの募集を見つけ、電話したところが次に所属した「バディフットボールクラブ」でした。そのチームの男子チームに入ろうとしたものの、選手数の関係で女子チームで体験することになりました。実は、そのチームはその年の日本一だったのですが、その事実を知らずに電話をかけていました。

そこでサッカーに打ち込みながら、学校ではバスケットボールや野球などいろいろなスポーツをしていた小学生時代でした。

自分の意思で入団を決める

ー小学校から中学校にあがるタイミングで印象に残っている出来事はありますか。

小学校6年生の時が中学校でどのチームに入るのかを考えていた時期で、当時、福島県にあった「JFAアカデミー福島」や私が入団した「日テレ・メニーナ」のセレクションを受けていました。

この2チームは最終試験まで残っていましたが、JFAアカデミー福島の最終試験前に日テレ・メニーナから合格をいただきました。その後、両親と監督との面談があり、自分の意思でこのチームに入りたいと即答したのを今でも覚えています。狭き門をくぐり、名門に入れるワクワク感や自分が目指す選手の近くでプレーができるワクワク感に浸っていました。

 ー中学生のときに印象に残っている出来事はありますか。

中学校に入ってからは、一歩引いて見るようなタイプに変わりました。自分の性格が変わった出来事の1つに東日本大震災、そしてなでしこジャパンが世界一を獲得したことがあります。私は下部組織の一員としてトップチームの運営の手伝いをしていたのですが、ワールドカップ(以下、W杯)優勝前は入場料無料で試合を行う中で、観客の呼び込みをしていましたが、優勝後は有料チケットでも会場が満員になっているというのが衝撃的でした。

ー中学から高校になるタイミングで印象に残っている出来事を教えて下さい。

私は中学3年生の時にトップチームにデビューし、高校1年生から下部組織とトップチームの二種登録という形でした。トップチームである「日テレ・ベレーザ」は、日本女子サッカー会では圧倒的な女王で優勝をし続けるのが最低限という強豪でした。トップチームに昇格した時は、澤選手をはじめとするなでしこジャパンの主力メンバーが他チームに移籍し、人数やチーム編成が変わるなど世代交代の一歩目のタイミングでした。

そこで、トップチームのレベルに達していないながらも試合に出なければいけなかった状況は、今振り返るとサッカー人生の中で苦しい時間だったと思います。なかなか優勝できなかったり、チームも歯車がうまく噛み合わない経験をしてきたので、当時は大変だなと思いながら無我夢中にサッカーをしていました。

レベルの高い環境でもっと成長したい

ー高校卒業後の進路はどう考えていましたか。

男子サッカーは、高卒と大卒の2つのタイミングでプロサッカー選手になれるのが明確になっている一方で、女子サッカーは下部組織から上がってきた選手がそのままトップチームでプレーすることが主でありながらも、仕事や大学に通いながらプレーしている選手がほとんどなので、プロサッカー選手になるタイミングは色々ありました。

わたしは関東圏のチームだったので、大学に行ける可能性があり、漠然と大学に行っておいた方がいいのかな、スポーツのことを学んでおけばいいかなと思っていました。しかし、スポーツを軸に大学を探す中で、推薦入試を選ぶとその大学の体育会部活に所属することを前提とする受験要項があり、どうしようか考えていました。そんなときに、周囲から慶應義塾大学の総合政策学科(以下、SFC)を受けてみないかと薦められました。慶應に行ける学力が自分にはないと思っていたのですが、色々な学問を組み合わせて自分のやりたいことにつなげていこうとする人たちが集まっているというSFCの魅力を聞いた時に、自分よりもレベルの高い人たちが集まる場所に身を置くことでより成長できるという思いがありました。そのため、SFCを自己推薦入試で受けようと決め、合格へと繋がりました。

 ー大学生になってからは、どのような時間を過ごしましたか。

サッカーの練習時間に合わせながら履修科目数を稼ぐために、週3~4日でほぼ1限から3限まで授業を入れ、そこからサッカーの練習に向かう生活を大学4年生まで続けていました。

その生活を続けられた理由は、自分が決めたことを疎かにしたくないという思いに加え、SFCの体育会に属している人たちに負けたくないという反骨心でした。やることをきっちりやることで、応援してもらえると感じていたので、地道に大学に行って勉強をしてという生活を過ごしていました。

 ーSFCで学んでいく中で、どういったことに興味を持ちましたか。

入学前に書いた論文では、自分にしかできない経験と自分にしかできない世界の実現をテーマに学ぼうと考えていました。アジアの親交を女子サッカーを通して深めることを考え、入学前はアジアの文化とスポーツビジネスを掛け合わせて勉強したいと思っていました。

しかし、実際には入学前のプランとは異なる過ごし方になりました。楽に単位を取れる授業を履修しつつも、語学の授業は必要最低限以上に単位を取得しました。海外でプレーしたいという思いがあり、将来自分が行きたい国の言語であるドイツ語やスペイン語、英語を継続的に勉強していました。

自分にしかできないことをやりたい

ー職業選択の際は、どういったことを考えていましたか。

大学3年生の頃から周囲が就職活動をし始める中、私は違う道を進むと感じていました。
仕事をしながらサッカーをする際、日本の女子サッカーの多くはスポンサー企業で働いていること大半でした。その理由は、試合や代表合宿といったイレギュラーな出来事が起きた時に理解してくれるのはスポンサー企業の場合が多いからです。スポンサー企業が雇用を用意してくれることは光栄だと思いつつも、その仕事は私にとっては誰にでもできる仕事だという感覚があり、果たして仕事と言えるのかと違和感を持つようになりました。

昨年の就職前に、自分がどういった仕事がしたいのか考えたときに自分にしかできないことと自分がやりたいことがかけ合わさっているものが仕事になると、仕事が楽しくなると思いました。そのため、私はスポンサー企業で働きながらプロに進むという道やプロ選手としてサッカーでお金をいただく道でもなく、自分がこれまで足を置いていなかった領域に足をいれ、自分を雇用してくれる会社で働きながらプレーする道を選びました。 

ー周りの人が選んでいないことを選ぶのは難しいと思うのですが、自分で考えて動くことができた要因は何だったのでしょうか。

幼稚園や小学校のときに男子とサッカーをしたり、中学校では一人だけ学校が終わってすぐに駅に行き、サッカーの練習を夜まで行う生活をしていたので、自分は他人と違うなという認識をしながら人生を歩んできたと思っています。その環境があったからこそ、いつの間にか人と違うという認識から人と同じになりたくないという価値観に変わり、その価値観が今でも自分お根底にあると感じています。

 ー大学卒業後はどういった進路を選んだのでしょうか。

今の企業に就職をする時に、社長さんとお話をする中で、選手としてトップを極めながらもしっかりとビジネスに足を置いて結果を残していきたいという思いに理解をしてださり、それを成し遂げるために会社としてどうすればよいのかを前向きに考えてくれました。

トレーニングやトレーニングに合わせてのケアの時間、チーム練習に加えて個人でのトレーニング時間、さらには平日にオフの時間を設けることを考えたときに、自分のコンディションを第一としながら空いた時間で仕事をする仕組みを柔軟に対応してくれました。入社してすぐにW杯に出場して、2ヶ月日本にいないこともありましたが、その時からオンラインを使って柔軟に対応してくれたことは、自分にとってかなりありがたく、社会人1年目からそういった環境でやらせてもらえるのはなかなかない環境だと思いました。

ー周りの選手と時間の使い方や働き方が異なる中で、ギャップはありませんでしたか。

自分で時間をコントロールすることができましたが、オフの時間に仕事をしていたのもあり、周りの選手とは違うと感じていました。しかし、仕事を始めて1年間経ち、いただいた名刺の数を振り返ると、スポンサー企業に就職をするだけでは出会えなかった方々に出会えたと思います。社会人として社会に出るという道は大きなところでは一緒ですが、スポンサー企業かスポンサー企業ではないかで違いが出ると思うと、自分はこの道を選んで良かったと思いますし、出会った人たちから学ぶことが多くあると同時に自分の思いや存在を自分で伝えて応援してもらえるところまで持っていけたと思うと、新たに応援してくれる人に出会えたと実感するところはあります。

©︎TOKYO VERDY

成長できる環境を求め、海外クラブへの移籍を決断

ー仕事とサッカーを両立させていく中で、新たなクラブへの移籍を決断した背景を教えてください。

海外のチームにはチャンスがあれば行きたいと思っていました。
昨年にW杯があり、ベスト16の試合で最後の15分出場して負けてしまったのですが、その15分が自分のサッカー人生の中で一番濃密だったと思えるくらい、楽しくて悔しい15分でした。試合に負けた瞬間、日本に残っていたら勝てないなと感じ、そこから海外に行きたいという思いを実現させるために代理人と契約をし、海外のクラブとコンタクトを取れる環境を整えていきました。最初はヨーロッパに行きたいという思いが強くありましたが、今年に入ってから新型コロナウイルス(以下、コロナ)の影響をヨーロッパが先に受け、いろいろなものがストップしてしまいました。

そのタイミングで、日本代表の選手としてアメリカ遠征でアメリカ・スペイン・イングランドの3ヵ国と試合をする大会が2月下旬から3月上旬にかけてありました。その大会ではオフでの取り組みなどが合わさり、かなりコンディションが良く試合に臨むことができました。結果は3敗だったものの、結果以上に楽しい3試合だったので、もっとレベルの高い相手と日常的にやっていきたいと感じていました。

 ただ、日本も普通ではない状況が6月まで続いた時に、アメリカ遠征を見ていたアメリカのクラブの方からオファーをいただきました。私の中では、自分のプレースタイルと正反対のサッカーだったこともあり、アメリカという選択肢は下の方でした。しかし、オファーをいただいたチームにミーガン・ラピノー選手というアメリカ女子サッカーでキャプテンを務める選手がいました。ラピノー選手は昨年のW杯優勝時に人種差別に対するメッセージとして、「私たちは1つなんだ」と発信しました。そんなラピノー選手に私は憧れを抱いていたこともあり、オファーがあったことを聞いた時にそのチームへ行きたいと考えていました。

 しかし、私が所属していた日本のチームは世界一うまいチームだと思いますし、このチームで世界一を目指せる環境があるのであれば、自分を育ててくれたクラブであり、一緒に頑張ってきた仲間がいるので、ここで世界一を目指せればいいなと思っていました。

 それと同時に、自分が長年知っている仲間とサッカーをやり続けるということは、居心地がだんだんよくなっているだけで、自分に刺激が与えられていないと感じていました。成長することを考えた時に、日本にいては自分はもう一段階上に成長できないと思っていたので、日本ではサッカーができていない状況でしたが、思い切って決断をして、アメリカに行くことを決めました。

ー実際に移籍してみて、どうでしたか。

家族と離れることを一度も経験していなかったですし、クラブを変えることも初めての経験でした。この2つの大きな変化をアメリカでやるということは、自分にとって大きな挑戦で、渡米する日が近づくにつれて怖さが出てきました。しかし、実際にアメリカに行くと、周りのメンバーが温かく迎えてくれたこともあり、かなり楽しく過ごせていました。

©︎OL Reign

ーアメリカのクラブへの移籍後に、スウェーデンでも新しい挑戦をしたそうですね。

アメリカがコロナの影響を受けていたため、シーズンを通常通りにできないことを渡米前から分かっていて、5試合で終わってしまうかもしれないと言われていたため、残りのシーズンをレンタル移籍という形でどこでプレーするか考えていました。

日本に戻ってプレーする選択肢もありましたが、レンタル移籍をする目的として試合をしたいというのがあり、その目的はどこの国でも達成できると考えました。日本という選択肢はただ自分が日本に帰りたいという思いがあるだけで、そこに意味づけをして日本に帰ろうとしているのではないかと気づいた時に、また新たな挑戦をするときかもしれないと思い、代理人の方が探してくださったのがスウェーデンのチームでした。そのチームはその時点でリーグ4位だったのですが、3位以内に入るとチャンピオンズリーグというヨーロッパで一番大きい大会への出場権を獲得できる状況だったので、レベルが高い環境で戦えるのは面白いなと思い、スウェーデンのクラブへ挑戦しました。

しかし、怪我をしてしまい、日本に帰ってきてしまったのですが、2つ大きな挑戦ができたのは今までの自分にとって一番人間的に成長できたと思うので、後悔はないですし、怪我をしたからといって落ち込むこともなく、今はこの時間を有効に使って楽しもうと日々過ごしています。

ー最後に、今後籾木さんが挑戦したいことを教えてください。

抱えている悩みに対して立ち向かっているときは、自分がちっぽけな存在に思えて、悩みが大きすぎて立ち向かっていけないことがあるので、153cmという身長ながらも世界で戦う自分のプレーを通じて何か届けたいという思いがあります。

それが伝わりやすい方法が日本代表でW杯やオリンピックでプレーして優勝することだと思うので、そこを目指してやっていきたいです。そして、アメリカとスウェーデンで今年経験したことは自分の固定概念や当たり前を覆す良い経験だったので、それを日本の人たちに伝えていく手段としてオンラインサロンを使っていこうと思います。日本の中でも性別や肩書きで判断するような世界ではなく、一人一人が自分らしさを見つけ、それが受け入れられる社会を実現していきたいと思っているので、選手として一人の女性としてそういう社会に繋げられるように頑張ります。

取材者:高尾 有沙(Facebook/Twitter/note)
執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter
デザイナー:五十嵐 有沙(Twitter