様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第977回目となる今回は、篠永 信一朗(シノナガ シンイチロウ)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。
総合不動産デベロッパーで働きつつ、地方創生活動にも取り組む篠永さん。学生時代のエピソードやパラレルキャリア実現の秘訣、今後の目標などをお話していただきました。
地元愛媛が大好き!少年時代は野球に没頭
ー簡単に自己紹介をお願いいたします。
篠永信一朗です。都内の総合不動産デベロッパーにて大規模再開発事業に従事する傍ら、一般社団法人熱意ある地方創生ベンチャー連合にて地方創生に取り組むベンチャー企業と自治体との橋渡し活動をしたり、首長(市長や町長)をめざす全国各地のU30世代有志を集めたコミュニティの代表を務めたりと、多分野で活動しています。
ーまずは、幼少期のエピソードから教えてください。
愛媛県四国中央市で生まれ、大学に進学する18歳まで過ごしました。幼少期は、母と母方の祖父と3人で暮らしていました。祖父にとても甘やかされていて、おじいちゃん子で育ちましたね。祖父の友人にかわいがってもらったり、近所のお兄ちゃんやお姉ちゃんに遊んでもらったりと、地域の多くの人たちに育ててもらった思い出があります。
あたたかいこのまちに育ててもらったからこそ、将来はこのまちに恩返しをしたいと思っていて。おじいちゃん子だったことと、幼少期から身近に感じていた課題が医療だったことから、高校3年の夏までは医師になって自分の病院を持つことが夢でした。医療の分野から、育ててもらったこのまちの人々の暮らしを支えられたらと思っていたんです。また、地元では祭りが盛んで、毎年秋には老若男女が集まって太鼓台と呼ばれる山車をかついだり、一緒にごはんを食べたりする文化が大好きでした。
ー野球経験もあると伺いました。
小2の秋、仲の良い友達に誘われて野球チームに入りました。なんだかんだ大学卒業まで、長く続けていましたね。
高校でも野球がしたかったので、家から1番近い学校に進学しました。特進クラスにいて勉強もしないといけなかったので、21時まで野球の練習に打ち込み、そこから塾に通い、翌朝は0限目の朝補修に向けて早起きする生活を続けていました。だんだんと好きだった野球も練習量が追いつかなくなり、また勉強も授業後すぐ塾へ通っていたクラスメイト達には及ばなくなっていき……。苦しい日々が続きましたが、先生や親、野球部のOBさんなど、周りの方たちに支えられて最後までやりきることができました。
印象的だった言葉は、高校時代の担任の先生にいただいたアドバイスです。高校1年の冬、野球をやめようと思い、先生と親との3者面談をしていただきました。「大学受験もあるし、部活はやめようか」と言われることを内心期待していたのですが、実際は「時間の使い方を工夫してみたら?」と言われて(笑)。
他の人とは違うやり方でも良いから自分なりのやり方で努力しなさいというアドバイスをもらった結果、10分の休み時間でも6回あれば1時間分の勉強ができる!と前向きに考えられるようになったんです。それまでは、僕の手は2つしかないのに野球と勉強の2つでふさがっていると思っていましたが、野球という足と勉強という足、2つに支えられていると考えられるようになりました。この考え方の変化で気持ちの余裕も生まれ、生徒会長や運動会の団長にも挑戦するなど、より積極的に活動できるようになりました。
今も3足以上のわらじをはいた活動していますが、時間のやりくりに関しては、当時身に着けた考えを活かせていると思っています。
僕には「自分に関わってくれるすべての人々を幸せにしたい」という夢があって。そのためにはまず自分自身も幸せでいる必要があると思っています。自身がやりたくてやっていることと、将来のためにやっていること、どちらもバランスよく取り組むことを意識しています。
ー大学はどう選んだのでしょうか。
小学校低学年の頃からずっと医師をめざしてはいたものの、高3になって、あらためて進路を考えることに。まちをより良くするためにはまちが持つ課題を解決する必要があると考え、市役所に行ってまちが持つ課題について教えてもらった結果、環境、防災、交通の3つの課題を解決していくことが重要だと思いました。
また、自身の強みであるリーダーシップやマネジメント力を活かしながら、幅広くまちづくりについて学びたいと考え、都市計画や社会基盤整備、いわゆるハード面からのまちづくりを学ぶべく、愛媛大学工学部環境建設工学科社会デザインコースへの進学を決めました。
大学時代は硬式野球部や四国地区大学野球連盟、リーダーズスクールなど、様々な場面でリーダーを経験させていただきました。リーダーを務める上では、チームに明確なビジョンを示すことと、個人の感情にもとにかく真摯に向き合うことを心がけていました。
リーダーを務める中で1番やりがいを感じたのは硬式野球部での活動です。創部史上2回目の最下位を経験したり、チームの分裂危機があったりと、いくつもの困難を乗り越えた先での最後のリーグ戦では優勝まであと一歩のところまで進むことができました。目標であった神宮出場は叶いませんでしたが、チームメイトに胴上げしてもらったときの景色は今でも忘れられません。
上京しての大学院生活は、コロナ禍でスタート
ーその後、大学院に進んだのですよね。
大学院は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に進学しました。大学時代、東京と愛媛の国会議員事務所でインターンをさせていただきました。まちづくりを最前線で行う政治家の仕事を間近で見させていただき、全国のまちづくりの事例ももっと知りたい、社会政策分野(ソフト面)からのまちづくりも学びたいと思い、関東の大学院への進学を決めました。SFCはどんな研究でもできることと、社会人入学や海外からの留学生も多いことから、多様性に満ちた学生が集まっていて、とても楽しかったです。
入学後はちょうどコロナ禍に直面してしまい、全く知らないまちで誰にも会わずに2か月を過ごしました。人と話すことがエネルギーの源になる性格なので、心身のバランスも若干壊してしまって。
その後、2か月ほど遅れてオンラインでの授業が始まったり、就職活動が始まって対面でのインターンシップに参加できるようになったりするにつれて、ようやく元の自分を取り戻せたような感覚がありました。
ー大学院ではどんな研究をしていたのでしょうか?
愛媛大学在学時、先生に「地元の祭りが好きなら、祭りの研究をしたらどうか」と言われて、地域と祭りのネットワークに関する研究をしていました。
祭りを主体となって運営する「コア層」、祭り当日に一般参加する「周辺層」、その他の「外部層」で、地域に対する愛着や信頼、ネットワーク、キャリア観にどう相関関係があるのかをアンケートやインタビュー、参与観察を通じて調査分析をしたんです。調査対象は、地元・愛媛県四国中央市の祭りにしました。
結果は、他の層と比べて「コア層」の将来に対するキャリア観が突出して高かったんですよね。お祭りを運営する立場にいると、幼少期から周りの大人と話したり、何歳くらいになればこの役割を担うのだと感覚的に考えたりできることが寄与しているかもしれません。
こうした研究はこれまでになかったので、なかなかユニークな研究活動ができたのではと思っています(笑)。
ー本業はデベロッパーにお勤めとのことですが、それ以外の2つの活動について教えてください。
大学院修士2年の後期あたりから、一般社団法人熱意ある地方創生ベンチャー連合に所属しました。この一般社団法人では、熱意をもって地方創生に取り組むベンチャー企業と、新しいサービスを求める自治体の架け橋となるような活動をしているんです。
もう1つの活動として設立した「U30未来の若手首長をめざす会」には、現在約10人のメンバーが所属しています。メンバーは皆、将来の選択肢の1つとして首長(市長、町長など)を考えていて、月1回程度集まって情報交換をしたり、現役首長/首長経験者との座談会を企画したりしています。