様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第820回目となる今回は、株式会社雛菊代表取締役中村将也さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。
放送DX事業とAIによってバーチャル広告を生成するデジタルプレイスメント事業を展開している株式会社雛菊で代表を務める中村将也さん。今回は、幼少期の出来事から現在の事業に至るまでの経緯をお話しいただきました。
部活も勉強もうまくいかなかった高校生。早稲田大学に入り「何者かになりたかった」
ーまず始めに自己紹介をお願いします。
株式会社雛菊の中村将也です。雛菊は2社目の起業。1社目の起業から数えると起業して3年目になります。
株式会社雛菊では、TV局向けのDX事業(デジタルトランスフォーメーション:情報技術の浸透で人々の生活をより豊かにする技術)として動画配信サービスの開発や広告機能の追加開発、その他業務支援アプリや新技術の研究開発などを行っています。
直近では、AIによって動画内にバーチャル広告を生成する「デジタルプレイスメント」というプロダクトの研究開発に注力しています。
ー会社名である「雛菊」の由来はありますか?
「日本から世の中を変えられるような会社にしたい」という思いから、和風な会社名にしたいと思ってました。
また、これからの時代を考えた時、真面目一辺倒に課題を解決する事業よりも、世の中をより豊かにするような事業領域や、どこか明るく純粋無垢な会社の方が伸びるだろうと考えて。
その中で、「雛菊」は無邪気や希望といった花言葉があり、ドメインも取れたので、会社名に選びました。
ー幼少期はどのようなお子さんでしたか?
落ち着きのない子どもでした。小学1年生の頃は、先生によく叱られていて。たまに1人だけ校長室に預けられていた記憶もあります。(笑)
また兄が野球をしていた影響もあって、小学校1年生から野球を始めました。
中学生の頃は地元の岐阜県で4位になることができました。自分はキャッチャーで6番でしたね。毎日父親と一緒に練習するくらい野球に打ち込みましたね。
ー高校生はどのように過ごされましたか?
あまり言いたくありませんが、高校時代は心も体もボロボロでしたね。高校でも野球を続けて、いわゆる高校球児でしたが、思ったように結果を残せませんでした。
2年生の秋と3年生の春はレギュラーでしたが、3年生の夏はベンチで。家族に加え、高校時代ずっと付き合っていた彼女や友人が応援に来てくれたのに、何も出来ないまま夏が終わってしまいました。当時は「うわー、俺の人生終わった」と本気で思ってました。
そんな最悪の状況だったので、父と兄から喝を入れられたんです。「このまま終わるんじゃない!受験で早稲田とか慶應とかに合格して、見返してみろ!」と言われたんです。
当時はクラスで最下位レベルの学力だったので「いや、無理やわー」って笑っていました。それでも兄から「受かったら人生変わるんやない?1%でも受かる可能性があるんならやってみろよ」と声をかけてもらって。「たしかに1%の確率で人生が変わるなら頑張らないと」と思い、受験勉強を始めました。
当時は到底受験に受かる気がしませんでしたが、運良く成績が上がりました。結果、早稲田大学に合格。東京に来て今の環境が無かったら起業もしていなかったので、本当に人生変わったと思います。
ー大学生になって挑戦したことはありますか?
バックパッカーに挑戦しました。
大学に入ったばかりの頃に世界一周から帰ってきた先輩に出会って。先輩に「世界一周どうでしたか?」って聞いてみたんです。「将也気になんの?気になるなら行ってくればいいじゃん」って言われて。気づいたら「絶対自分もバックパッカーします」って言ってました。
結局世界一周はしませんでしたが、東南アジアやアメリカ、ヨーロッパなどを巡る経験ができ、その過程でさまざまな人に出会えたのが自由で面白かったですね。
ーバックパッカーの経験を通して気づいたことはありますか?
「世界には色んな人がいること」「意外と自分は世界中のどこでも生きていけること」に気づきました。
思い返すとトラブルばかりでした。毎日お腹を壊していたり、財布を何回もすられたりしました。それでも日本に帰ってみると美味しい日本食が食べれて、「大したこと無かったなー」って笑えているので、どれもいい経験だったと思います。
ー中村さんのお話を聞いていると、とても積極的に行動する大学生であったと想像できます。大学生の頃は何をモチベーションに行動されていましたか?
全然そんなことはなくて、普通の大学生だったと思います。(笑)
当時これといったモチベーションはありませんでしたが、今思うと「ただ何者かになりたかった」のではないかと感じます。たまたま自分の周りに変わった人が多かったこともありますが、何か目立つことをしたかったんだと思いますね。
僕らの子ども世代は、僕らより苦しい世界を生きるかもしれない。だから少しでも次の世代を豊かにする事業を作る
ー大学卒業後は、企業に就職されましたか?
はい。IT系の会社に行きたくて、 SIer(エスアイヤー:システム開発や運用を請け負う企業)に就職しました。
最初は、リクルート向けの担当営業として働いていました。しかし、自分が担当する業務が細々としたものばかりに思えてしまい、2年足らずで辞めてしまいました。当時は本当に生意気だったと思います。
当時の思いとしては何か1つの事業を伸ばす経験がしたくて。自分が携われる業務の規模やスピード感に限界を感じ、モヤモヤしていました。
ー自分の仕事について考える中で、何か気づいたことはありますか?
仕事は誰かの役に立つことなんだと気づきました。今振り返ると、些細なことでも与えられた仕事には何らかの意味や目的があって、完遂する必要があったんだと思います。
当時の上長は会社の中でも歴代最年少で部長になるくらい仕事ができる方で。打ち合わせ中に笑顔で話してたら、「一生懸命やってたら笑って話せることはない」や「他人と比べるな、自分軸で仕事しろ」など、ある種の哲学を持っていた方でした。
自分なりの理解としては、自分がやる仕事の先にはお金を払ってまで仕事を依頼してくれる人がいるということを理解したので、人がやりたくないことや、人ができないことを率先して行うべきだと現在の教訓になっています。
また、自分で会社を持った今では「仕事を通して世の中が変わるか」という視点を持つことも大切だと考えています。一時期、「お金を稼ぎたい」思いだけで仕事をしていました。「誰のためにもなっていない仕事を一生懸命やってお金を稼ぐだけでいいのか?」と疲れてしまった経験があります。
今は「僕たちの子ども世代が豊かになるか」という視点でも仕事を考えるようになりました。
ーなぜ子ども世代が豊かになる世の中を作る必要があるとお考えですか?
シンプルに子どもが好きな面もありますが、さまざまな事業にかかわる中で「稼ぎたい」気持ちだけで動いていても「自分も周りの人も幸せにならないのでは?」と思ったからです。
これから、今よりさらに高齢者が増え経済的にも日本が苦しい時代がやってきます。
だから、「世の中が変わるか」「子ども世代が豊かに生きられる世界につながるか」視点で生きなくてはいけないと思って動いています。
ー世の中にインパクトを残せる仕事は、起業以外にもいくつか方法があると思いますが、起業した理由はありますか?
自分にとっては、起業が世の中に影響力を与えるための「最短ルート」だと思ったからです。
そのため、まずはさまざまな事業が立ち上がる現場に触れたいと思い、SIerから新規事業立ち上げ専門のブティックコンサルに転職しました。
大企業の新規事業開発やオープンイノベーション案件に携わる中で、日本は起業家としてやりきる人材、世の中を変えようと思っているプレイヤーが圧倒的に少ないと気づきました。さらに企業の中から変えるよりも、外に出て、自分で0からお金と人を集める方が早く大きく事業を作れるのではないかと思い、起業への決意が固まった背景があります。
ただ、このような考え方では通用しないと気づき、起業してから大後悔しましたね。(笑)
ー起業への抵抗感はありませんでしたか?
当時、起業への抵抗感はほとんどありませんでした。
新規事業は勢いや熱量が大切で、直感や選択を後から正解にする仕事だと思っていたからです。起業への準備を完璧にしようと思うと、スタート時期もどんどん延びてしまうと考えていました。もちろん働きながらやる方が効率的だったと思いますが、自分は勢いで始めてしまいました。