ウルトラマンのような「希望の光」になりたい|トライアスロン日本代表・松井一矢

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第959回目となる今回は、トライアスロン日本代表選手の松井一矢さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

アスリートとして陸上競技やマラソン、トライアスロンに挑戦しながら献血や骨髄バンクでドナーを提供している松井さん。陸上との出会いや、骨髄バンクでドナー提供をした経緯、今後の展望についてお聞きしました。

苦しくても未来を見て生きていた

ー自己紹介をお願いします。

松井一矢と申します。25歳の時に献血100回を突破し、累計160回を超えました。また、骨髄バンクにドナー提供もしています。

アスリートとして陸上競技やマラソン、トライアスロンにチャレンジしています。

ートライアスロンにチャレンジされているとのことですが、トライアスロンの魅力を教えてください。

トライアスロンには陸上競技のように短距離、中距離、長距離があります。

有名な大会に、水泳3.8キロ、バイク180キロ、ラン42.195のアイアンマンがあります。

僕が挑戦しようとしているウルトラマントライアスロンは3日間の大会で、1日目が水泳10キロとバイク145キロ、2日目がバイク275キロ、3日目でラン85キロの大会です。

トライアスロンはタイムを気にせずゴールを目指せるため、自分との戦いになります。それが、とてもキツくて最高なのです。

ーここからは松井さんの幼少期についてお聞きしたいと思います。どのようなお子さんでしたか。

明るくて、元気で引っ込み思案な子供でした。

自分のやりたいことや、好きなことには熱心に取り組みますが、大勢の人の前に立つのが苦手で。また、1人で取り組むことは得意でしたが、みんなと一緒に取り組むのが大変だった記憶があります。

ーそうだったのですね。今でも1人でいることが多いのですか

現在は仲間ができ、仲間の思いを聞きながら一緒に歩むことができるようになりました。みんなと一緒にいる時間はとても楽しくて幸せだと感じています。

ー仲間と共に歩むことができるようになったのですね。1人でいることの多かった幼少期を経て、小学校でいじめに遭うとあります。どのようなことがあったのですか。

小学校のときに軽いいじめに遭いました。手を挙げても無視されたり、リコーダーを盗まれたり。

当時は学校の先生や親にも受け入れてもらえず、自分の存在意義や生きる意味を見失いました。

そんなとき、未来の自分からのメッセージが聞こえてきたのです。

ー未来の自分からのメッセージですか

「今は苦しいかもしれないけれど、未来に行けば君を絶対に必要としてくれる人がいる。君が生きているからこそ君を必要としている人がいる」

このメッセージを信念に今まで生き抜いてきました。苦しいときがあっても常に未来に目を向けようと

ー生きるモチベーションになったのですね。その後、13歳で陸上部に入部したそうですが、陸上部を選んだ理由を伺ってもいいですか。

僕は体を動かすことが大好きだったので、野球や卓球、バドミントンなどすべての競技をやりたかったのです。しかし、すべての部活動を兼務することはできませんでした。

そのため、走ることができればすべてできると考え、陸上部に入部しました。

夢ややりたいことが見つからないなか進路選択をする

ー中学を卒業し、工業高校に進学して陸上を続けたそうですね。高校生活はどうでしたか。

当時の僕には夢がなく、やりたいことがわからなかったので、親の勧めもあり、姉と同じ高校の電気情報工学科に進学。自分を変えたいと願い、学級委員に立候補しました。

入学して間もなく、新型インフルエンザの流行で学校が2週間休校になったため、集中して学校の授業の振り返り勉強を行った結果、高校1年の最初の中間テストで学科2位になることができました。

中学時代は勉強が苦手だった僕は初めて「やればできる」を体験し、勉強できる自分で在り続けたいと思い、必死に勉強しました。

部活動は陸上部に入り、走ることを続けました。

ー文武両道を実践した高校生活だったそうですが、高校3年生で究極の進路変更とあります。なにがあったのですか。

僕が在籍していた電気学科には大阪大学レーザー科学研究所で働きながら京都工芸繊維大学の夜間部に通って勉強して大手企業に就職するルートがありました。

僕は高校1年生から言われ続けていたので、そのルートを辿るのが当たり前だと考えていました。

しかし、高校3年生になって京都繊維大学の受験時期が10月であることが判明します。陸上部の一大イベントである駅伝大会出場か、京都工芸繊維大学かを選択することになります。

人生はいくらでも取り戻せるものだと思い、駅伝の県大会出場を選びました。また、卒業後には就職を予定していたので、大会前の9月に面接をした会社に入社しました。