人生の正解は自分で決める。本田あやが挑戦しつづける理由とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第867回目となる今回は、日本での就業を経てインドで働く本田あやさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

紆余曲折がありながらも、海を渡り仕事に打ち込んでいる本田さん。自分と本気で向き合い、理想の自分に近づくためには何が必要なのか、話していただきました。

異文化に触れるきっかけとなったカナダ留学

ー自己紹介をお願いします。

本田あやと申します。岐阜県の飛騨市出身で高校まで生まれ育ちました。大学進学から東京に引っ越し、日系企業に就職。その後転職をして27歳のときに海外で働くことを決意し、現在はインドで仕事をしています。

ー岐阜県の山奥で育ったと伺いましたが、どんな幼少期を過ごしていたのでしょうか。

街の中心部から一山越えたところで生まれ育ち、自販機は滅多になく、コンビニやスーパーもありませんでした。自然豊かな地域で車もあまり通らないので、道端で遊んだり、虫取りをしたりと活発的に過ごした幼少期でした。

ーここからは海外に触れるきっかけについて伺います。高校2年生の時に初めて海外に行ったのですね。

飛騨市がカナダのウィスラーという街と姉妹協定を結んでおり、文化交流事業を開催していました。書類審査を通りカナダに行けることになったのです。

姉がアメリカにマーチングバンドを演奏しに行ったこともあり、海外に親近感を抱いていました。

ーどのくらい滞在されたのでしょうか。

3週間です。バンクーバーから車で2、3時間の距離に位置するウィスラーは山に囲まれた自然あふれる街でした。午前中は英語の授業、午後からはアクティビティで川下りや乗馬をして過ごしました。

ーカナダで印象に残った出来事があれば教えてください。

英語が話せずコミュニケーションに困っていた私に、ホームステイ先の家族が温かく接してくれたことです。その家族のお子さんが、子供だからこそのわかりやすい英語で話しかけてくれ、初めてコミュニケーションがとれた時は感動しました。

ー帰国後、英語の成績が伸び、英語の恩師との出会いがあったと伺っています。

はい。高校2年生の時、副担任の先生との出会いは大きな出来事でした。帰国してから、英語の成績をもっと上げたいと思っていたこともあり、毎日質問をしに行くようになりました。

教科書通りの指導ではなく、人生についても語ってくださったことには今でも感謝しています。

自責思考で他人想いな先生で、一つひとつ熱心に教えていただき「どうすれば相手に伝わるかな」と考えながら話してくださったことも印象に残りました。

ーそこから進学されるわけですが、志望通りの大学に行けたのでしょうか。

東京の第2志望の国際系の大学に進学しました。悔しいという気持ちもありましたが、そのおかげで国際交流のチャンスがあればどんどん応募しようと積極的になれたので、結果的にはよかったと思っています。

研究では東アフリカに位置するマラウィ共和国をフィールドにし、1ヵ月単位の調査を3、4回行うこともありました。所属していたサークルでも研修で2週間マラウィに行きました。

ーアフリカを研究対象に選んだのはなぜでしょうか。

社会科の教科書に出てきた「はげタカ」に衝撃を受けたからです。はじめは開発国際協力に携わろうと思っていました。

勉強していくうちに文化や人の暮らしなど社会環境に興味を持つようになり、知的好奇心も強くなっていって。そのほかのアフリカの国々でいえば、エチオピア、ケニア、南アフリカに行きました。

負の側面だけでなく、ユニークな側面、もっといえばアフリカそのものに魅了されるようになっていました。

例えば、コミュニケーションをとるときに、気持ちをまっすぐに伝えてくる点です。日本人のように奥ゆかしさはなく、常に全力で向かってきます。

日本人はお互い気を遣いあって、平和ではありますが、マラウィでは人と人が真っ向からぶつかり合いをし、人と向き合っている印象を受けました。「人間らしいってこういうことなのかな」と彼らとの関わりを通じて感じました。

理想と現実の狭間に揺れる日々

ー「東南アジア青年の船」はどんなイベントだったのでしょうか。

ASEAN10ヵ国の学生が2ヵ月間同じ船に乗り、寄港地でさまざまな活動をするものでした。

寄港地の滞在期間はトータルで1週間ほどで、船の上にいるほうが長かったのですが、国際的な仕事をしたい気持ちが強くなったきっかけのひとつです。

ー印象的だったことはありましたか。

本当に楽しかったのですが、同時に辛い思いもしました。周りは優秀な人ばかりで、自分がいかに無知なのかを痛感したからです。

毎日行うディスカッションや異文化交流では、言語力やコミュニケーション能力、周りを巻き込む力など足りないことばかりでした。ただそれがあったからこそよい経験になったと前向きに捉えています。

ー辛い思いをしつつも、様々なプログラムに参加する原動力は何なのでしょうか。

自分ができないことに直面すると乗り越えたい気持ちが出てくるんです。情報が入ってこない山奥で生まれ育ったからこそ、自分から情報を取りにいく必要がありました。子どもの頃に培われたハングリー精神がひとつの要因になっていると思います。

自分から行動して、課題を克服しなければ成長できません。挑戦をして壁にぶつかり「悔しい」と思いつつも「どんどん挑戦していこう」という思いでプログラムに参加していきました。

はじめはできなかったことでも、挑戦を重ねる過程で少しずつできるようになります。「できるようになってる!」と感じたときの喜びが大きなモチベーションとなり、自信にもつながりました。

ー大学卒業後は、どんな仕事に就いたのでしょうか。

日系企業の営業職に就きました。当時は「とりあえず働いてみよう」という感覚で就職したので、中途半端な決断でした。常に周りに合わせて、すでにできあがっている居心地のよい環境で生活していたと感じています。

そして仕事にも慣れて「順調だな」と感じていた矢先、上司から嫌がらせを受けはじめます。営業先に根も葉もない噂を立てられ、精神的に辛い時期を過ごしました。「なんで私がこんな目に遭わなければならないのだろう」と悶々としていました。

しかし自分にも原因があり、他責思考になっていたことに気がつきます。「自分は仕事ができる人間だ」と慢心していたのかもしれません。

周りが築いてきたものがあったからこそ仕事ができるわけで、自分だけの力では仕事ができないことを痛感したのです。

自分のマイナス面に目を向けることは精神的に負担がかかりますが「私に必要なものだったんだな」と前向きに考えることができました。周りにも支えられて、できることを必死にがんばりやれるだけの努力をしました。