死ぬ時に後悔しない人生を選ぶ|プロサッカー選手・稲葉修土

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第860回目となる今回は、プロサッカー選手の稲葉修土さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

去年までブラウブリッツ秋田でプレーし、今年からFC町田ゼルビアに所属する稲葉さん。大学卒業までサッカー中心の学生生活を過ごし、シンガポールでプロキャリアをスタートさせました。今回は、サッカー選手になるまでの道のりやメンタルを強くするために取り組んでいることなどを伺いました。

父の影響でサッカー一色の幼少期を過ごし、中学で挫折を経験

ー最初に簡単な自己紹介をお願いします。

稲葉修土と申します。大阪府出身の29歳で、去年までJリーグのブラウブリッツ秋田に所属していました。今年からFC町田ゼルビアでプレーします。

今回は僕のキャリアやサッカー選手になるまでの道のりをお話しできればと思います。

ー稲葉さんの幼少期について伺いたいと思います。どんなお子さんでしたか。

父がサッカーの審判をしていた影響でいろいろなサッカースタジアムに連れて行ってもらいました。5歳から地元のスクールに入ってサッカーを始めたり、スタジアムの芝生でボールを蹴ったり。サッカー一色の幼少期を過ごしました。

ー5歳からサッカーを始めたそうですが、練習頻度はどのくらいだったのですか。

週5〜6日、スクールに通っていました。スクールがない日はリフティングが50回出来るまで家に入れないと決めて取り組んでいました。

ーターニングポイントが15歳とあります。どのようなことがあったのですか。

中学生のときに大阪市の選抜チームのメンバーを選ぶ試験がありました。4次試験まである選考にー次試験で落ちてしまって。市の選抜試験にー次で落ちた僕がプロになるのは厳しいかもしれないと落ち込みました。

試験を受けるまでは試合に勝ったり、チームのエースだったりして、順風満帆なサッカー人生を歩んできていた分、苦しかったです。

ー挫折したときの立ち直り方や落ち込んだときの対処法はありますか。

その日に忘れることです。また、落ち込む原因を分析してノートに書きこみ、対策を打つようにしています。

ー現在のポジションはミッドフィルダーですが、幼少期から同じポジションでしたか。

幼少期は違うポジションでした。点を取るポジションが好きで、高校生までフォワードをしていました。

全国高校サッカー選手権出場を目指し、島根県の高校に進学

ーどうして島根県の高校に進学したのですか。

中学生で挫折を経験して、どうすればプロになれるのか考えました。その結果、全国高校サッカー選手権に出場するのが近道だと思い、島根の立正大淞南高校に進学しました。

ー15歳で親元を離れて、孤独や寂しいといった気持ちはありましたか。

友達は地元の大阪で暮らしていたので、うらやましくなるときもありました。しかし、サッカーで成功したいと決意して島根に行ったので、孤独や寂しさはありませんでした。

ーそれからの高校3年間はどうでしたか。

本当にきつくて、しんどかったです。しかし、高校1年生と2年生のときに目標だった全国高校サッカー選手権に出場できました。立正大淞南の南監督のおかげでポジションを変更し、今の自分があると思っています。島根に行って僕のサッカー人生は変わりました。

ー目標だった全国高校サッカー選手権に出てどうでしたか。

2年生のとき、全国大会でベスト4になりました。そのときに努力の大切さを知ったと同時に、プロになれるのではないかと期待しました。

ー島根の高校に進学したとはいえ、強豪校だと全国から優秀な選手が集まると思います。部内での選手争いやスランプを抜け出せなかった経験はありますか。

スランプ状態に陥ったことは何回もあります。3年間を通して自分が成長できているのかどうかわからない状態でした。しかし、選手権に出てプロになると決めてからは誰よりも先に練習をしていました。

ー高校を卒業し、大学に進学する際の決め手はありましたか。

2年生の全国高校サッカー選手権の準決勝の試合を見た福岡大学の乾監督が、声をかけてくれたことが決め手です。福岡大学はプロサッカー選手を多数輩出している大学だったので、プロへの最短ルートだと思って決めました。