自分の豊かさと幸せを求め続けてほしい!教育系フリーランス木村有希が大事にする軸

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第837回目となる今回のゲストは、教育系フリーランスとして活動している木村 有希(きむら・ゆき)さんです。

ハワイやアメリカ、フィンランド、大阪、新潟と、活動の場を移しつつも様々な挑戦を続けてきた木村さん。そんな木村さんが「教育」にこだわり続け、豊かさと幸せを求めることは悪いことではないと気づいたきっかけについて伺いました。

ハワイやアメリカの学校での経験を経て、明確化された夢

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

初めまして、木村 有希(きむら・ゆき)と申します。新潟県新潟市で生まれて、大学時代は大阪に7年ほど住んでいたのですが、現在Uターンで新潟市へ戻ってきています。学校教育に外から携わる、教育系のフリーランスとして活動中です。

ー本日は木村さんの幼少期から振り返りながら、現在の価値観が形成されるまでを伺えればと思います。幼少期はどんなお子さんでしたか?

小さい頃からシャイで引っ込み思案でした。だけどこうやって、人と話しながら気づきを得ることは昔から好きです。

ー幼少期、印象的だったエピソードがあればお聞かせください。

12歳のときに、すごい仲良くしていたカメラマンのお兄ちゃんがいて。彼の家族とも仲が良くて、彼のお姉ちゃんがハワイで結婚式をするというタイミングで、親から「国際感覚を身につけてこい」と言われ、ハワイへ2週間行くことになったのです。

ーハワイではどう過ごしていたのでしょうか。

お兄ちゃんの家族と一緒に過ごすことが多かったですが、お兄ちゃんのお姉ちゃんが海外の方と結婚をしたので、私も話す機会がありました。当時英語は全然話せなかったけど、そこで初めて海外の人とコミュニケーションを取りましたね。

ハワイへ行ったのをきっかけに、海外に興味をもち始めましたし、異文化って素敵だなと思うようになりました。

ーハワイから戻ってきてからはどのように過ごしましたか?

海外に興味をもち始めて、英語を勉強したいと思ったので、英語コースがある高校へ進学しました。高校時代にホームステイを受け入れた経験や、逆にホームステイをしに来てくれた家族のところへひとりで行った経験は、とても印象に残っています。

ー高校でさらに海外への興味がわいたと思うのですが、大学の進路選択でも海外を軸にしたのでしょうか。

そうですね。とにかく海外へ行きたい。行くためにはどうしたらいいだろうという感じで大学も決めました。あと、当時から教育にも興味がありました。

ー教育に興味をもったのは何かきっかけですか?

高校時代にホームステイを受け入れた子の出身がアメリカで、2回ほどアメリカの高校へ行ったときに出会った日本語の先生を見て、興味をもち始めました。「日本文化を海外へ伝えられるのっていいな」と思って、日本語教師を目指すことにしたのです。

フィンランドの教育スタイルに衝撃を受ける

ー大学時代に印象に残っているエピソードはありますか?

交換留学でフィンランドへ1年間行ったのが印象に残っています。そのときに、公教育に関心をもちました。

ーフィンランドの教育はどんな形だったのか、教えてください。

当時はOECD(経済協力開発機構)が出しているテストを受けて、学力値や知能レベルを国ごとに測る学力指標があったのですが、フィンランドは1位を取っていました。

だけどフィンランドは子どもたちが学校にいる時間が短かったり、先生たちが子どもたちと同じくらい休みを取れたり、宿題はあまり出なかったりしていて……日本の子どもたちはフィンランドの子どもたちよりも勉強しているはずなのに、なんでだろう?と気になっていました。

ーその疑問は晴れましたか?

明確に答えが出たわけではないですが、フィンランドの先生たちはとてものびのびしているし、子どもたちもまったく窮屈そうじゃないんですよね。あと、大学まで教育が無償だったり、中学校を卒業してからの進路選択がものすごく多様にあって。

フィンランドでは、中学校を卒業したら専門学校へ行くか就職するか高校へ行くか選べるのです。それに、専門学校へ行っている途中で高校へ編入しても、大学へ行っている途中で専門学校へ入りなおしても、だれも何も言いません。

学歴プランは一筋ではなく、紆余曲折あるのが当たり前なのに衝撃を受けました。

大阪で教師になり、自分の世界の狭さを実感する

ーフィンランドでの交換留学を経て、将来をどう描いていましたか?

留学から帰ってきたのは大学4年の6月で、当時は一般的に大学3年の12月から就活が始まっていたので、すでに大手の就活は終わっていました。そんなときにちょうど教員採用試験が目の前にあり、当時は教育系の仕事といえば教師しかないと思い込んでいたので、試験を受けることにしたのです。

そんなに焦らなくても、就職を1年遅らせても問題はなかったと思うのですが、「何か問題になるのではないか」と思っちゃっていましたね。試験を受けた結果、無事合格し、大阪で教師になりました。

ー教師になったときの心境、覚えていますか?

実は、2年ほど経ったら教師をやめようと思っていたのです。フィンランドでの交換留学を通して、「日本の教育はそんなに良くない」と勝手に思い込んでいました。

でも実際に教師になってみると、とても楽しくて。学校には所得が低い人が住むエリアから来る人もいれば、所得が高いエリアから来る人もいる。進路選択も、専門学校・就職・大学といろんなバリエーションがある。また、発達障害や不登校、経済的困窮世帯、虐待を受けている、ご両親・自分が鬱など、子どもたち自身や家庭環境はさまざまでした。

そんな多様性にあふれた教室で生徒と触れ合うことや、学校の先生としていることがすごく楽しかったのです。

ー楽しさを感じていた中で、どうして教師をやめることになったのでしょうか。

楽しさと同時に、学校教育に対してもともと自分が抱いていた疑問が大きくなっていったからです。自分だけでは、何十年かけても変えられない学校制度に対して疑問をもちました。

あと、自分の進路指導のできなさに絶望したというのもあります。保育園から大学までずっと学校の中にいて、新卒で教師になり、自分が学校という社会しか知らないことに初めて気づいたのです。だから就職する子の面接指導で、幅広い選択肢を示してあげることができませんでした。

そういったことがきっかけで、一度教育の世界を離れようと決意しました。