日本と世界はもっと繋がるはず!華僑起業家 周如意のポジティブマインドの秘訣とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第829回目となる今回は、株式会社WeGlobal Founder & CEO・周 如意(しゅう・るい)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

日本と世界をつなぐトリリンガル華僑起業家として、バイリンガル即戦力人材の転職/採用支援サービス、グローバルキャリアコミュニティの運営、クロスボーダービジネスの支援事業をしている如意さん。これまでのご経験や、持ち前のポジティブマインドで困難をどう乗り越えてきたのか、語っていただきました。

のびのびと過ごした中国での幼少時代

ーーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

周 如意(しゅう・るい)と申します。中国の福建省というところで生まれ育ち、12歳のときに家族の仕事の関係で日本に来ました。中高大を日本の学校で過ごし、新卒では医療機器メーカーに就職しました。

スタートアップ、シンガポールの人材紹介企業、フリーランスを経て、去年の11月に株式会社WeGlobalという会社を設立しました。メイン事業として、グローバル人材・バイリンガル人材の転職支援やキャリア支援、転職支援や、外資系企業の日本での採用支援、日本企業の海外進出の支援などをおこなっています。

ーそんな如意さんはどんな幼少時代を過ごされましたか?

私の生まれ育った中国の福建省は、日本の地方都市みたいなイメージです。三人兄弟の末っ子で、親戚の中でも年齢が一番下だったので、多少わがままを言っても許されるような子供時代でした。

小学校に入ってからは、勉強は得意なほうだったので、学校の勉強は学校の時間内に終わらせて、放課後は同級生と外で遊び回っていました。

12歳で何も日本語がわからない状態で日本へ

ー12歳で日本に来てからはどうでしたか?

日本語がまったくわからない状態で普通の日本の公立中学校に通い始めたので、言葉の壁には苦労しました。

日本語を徹底的に真似る、できるだけ日本語を使う環境に身を置くという工夫をして、努力していましたね。 「今から3時間机に向かって勉強」というような方法はあまりとらなかったのですが、例えば電車に乗っているなら広告の文字を読んでみるとか、授業中に先生の言っていることは聞き取れなくても自分で教科書をどんどん読んでいくとか、できることからやっていきました。

日本語を読めるし、耳では理解できるけど話せないという状況も半年ぐらいありましたが、恥をかいてもいいから、いっぱい間違えていっぱい学ぼう、という姿勢でいました。

箸と橋、牡蠣と柿とか、わからなくて笑われたこともありましたね……。「そもそも」を「もそもそ」と言ってしまったりとか(笑)。今では笑い話ですね。同じように言語の壁で悩まれている方がいたら、笑い話にできるぐらいのメンタリティーは持ってもいいのかもしれません

ー高校に進学されてからはどのような学校生活でしたか?

中学で努力したこともあり、中学3年生で周りと同じように受験し、普通科の高校に進学しました。

言葉の壁や文化の壁も乗り越えて、日本人の同級生と同じような生活をして成績も上位でしたが、自分のアイデンティティに悩んだ時期がありました。「普通の日本人とはちょっと違うし、かといって中国の小学校の同級生ともちょっと違うし……」というように。

ーアイデンティティの悩みはどのように乗り越えられたのでしょうか?

大学に入ってさまざまなバックグラウンドの人と出会ったことで乗り越えました。留学生もいたし、帰国子女もいて、「人と違っていいんだ」っていうことに気づきました。「自分が何人(なにじん)なのか」と国籍を気にするのではなく、「地球の一部」でいいんじゃないかと言う価値観を持つようになりました。

通っていた筑波大学はすごく開かれた大学で、外部から研究者もくるし、自分の専攻・医学系以外のプログラムにも参加できたので、興味のあることをどんどん追究できました。台湾、ロシア、 アメリカ、インドネシアでの海外プログラムにも参加しました。

「今しかできないことをしたい」という思いから医療メーカーに就職

ー大学卒業後はどうして就職という道を選ばれたのでしょうか。

「今しかできないことをしたい」と思ったからです。理系だったので大学院にいくとか、博士号をとるとかも選択肢としてあったと思います。ですが、「20代をどう過ごすか」と考えたときに、大学院や博士号の取得は歳をとってからでもできるなと思ったので、「早く社会に出ていろんなことを経験したい」という思いから就職することにしました。

ー新卒時代のお仕事はどうでしたか。

新卒の就職は、理想と現実がかけ離れていましたね。大学で勉強していたこともあって医療系のメーカーに就職したのですが、入社前はまったく想像していなかった大阪配属で、職種も希望していなかった営業職でした。

「自分はこの環境にフィットしていないな」「ここで成長することはできないな」と思いましたね。語学力を活かして働きたい、海外で働きたいという思いもあったのですが、それがかなわなかったのも悔しかったです。

既存のビジネスモデルで同じようなことを繰り返すような業務内容だったので、「自分は新しいことにチャレンジしたいんだ」、「率先して何か提案してみたいんだ」、「速いスピードでPDCAを回していきたいんだ」と自分の仕事の価値観に気づくことができました。

自分は何が好きで何が得意なのかを知ることも大事ですが、何が不得意かを知ることも大事なので、ここで経験できて良かったと、今では思いますね。