挑戦から逃げない。Andbag代表・日高勇希が語る、覚悟の決め方とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第708回目となる今回は、株式会社Andbag代表・日高勇希さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

学生時代の経験から、起業に至った日高さん。企業と学生を繋ぐ懸け橋になる。その原点に迫りました。

父の働く姿に憧れを抱く

ー簡単に自己紹介をお願いします。 

株式会社Andbagを経営している日高勇希と申します。父が電気工事士で幼稚園の頃から手伝ってきました。高校ではサッカーに打ち込み、手伝っていなかった時期もありましたが、父の姿がかっこよく、将来は力になりたいと思い理系の大学に入りました。

大学入学後、友人からイベントに誘われて、数を重ねるうちに人を集める力があることに気付きました。そこから40人ほどのチームで2ヵ月に一度、300人もの学生を集めました。

その経験から、誰かのためになるサービスを作りたいと思い、企業のマッチング事業を行っています。

ー事業を立ち上げて何年目になるのでしょうか。

会社を登記したのは2022年の5月です。立ち上げたばかりで、会社はこれからという段階です。

ー中小企業に目を向けられたのはお父様の影響が大きいのでしょうか。

そうですね。父だけでなく、周りの社長と話すこともあるのですが「インターンを知らない」や「求人をかけても良い若者が入らない」という概念が強くあります。そこを払拭しないと新しい風は入ってきません。そこで、僕がその懸け橋になれないかなと思いました。

中小企業向けにマッチングサービスをしたいのですが、実績が無いうちは取り入れてくれません。現在は、ベンチャー企業にターゲットを絞ってマッチングサービスを展開しています。

夢を追うも怪我に悩んだサッカー

ー幼少期は活発な少年だったのでしょうか。

外に出てひたすら遊ぶタイプで、ザリガニ釣りによく行っていました。カナヘビ捕りも好きでしたね。蝶々を捕るのも好きで、捕まえて自分の部屋に放し飼いをしていました。捕まえた生物が蝶々ではなく蛾だったときには、親をびっくりさせたこともあります。

家の前のグラウンドではサッカーをし、毎日泥まみれになって遊んでいました。

ーサッカーはいつからはじめ、どのくらいされていたのでしょうか。

サッカーは幼稚園の年長からはじめ、高校2年生の夏まで続けました。高校では初めての試合で骨折してしまい、怪我に悩まされた半年でした。

秋に上級生が引退し、新チームになるのですが、そこで腰が痛くなり、動けなくなってしまいました。半年動けなくなったため、サッカーができず、部にいる意味を見出せなくなり、辞めてしまいました。

ー苦しい思い出があったのですね。

苦しいというより悔しい気持ちでした。サッカーは小学校のときに強いチームでプレーしていて、都大会に出るほど強かったのです。

ー子供のときの将来の夢はありましたか。

サッカー選手です。その頃、父の仕事を手伝っていましたが、継ぐ気持ちはなく、サッカーで活躍したい気持ちが強かったです。

ー中高と振り返ってターニングポイントはありますか?

中学時代はクラブチームでプレーしました。怪我が多かったですが、そのなかでもできることをして、体作りをひたすらした時期があります。その甲斐もあって、復帰後すぐに試合に出場できました。

隠れた努力が結果に現れたことから、自分のやり方が間違っていなかったことに自信がつきました。

東京ヴェルディと公式戦で対戦し、勝てたことが永遠の武勇伝です。元日本代表選手の息子がいるチームに勝てたことも自信につながりました。

ー高校はどのように決めたのでしょうか?

専願受験です。はじめは「勉強で一般入学しろ」と言われ、塾の夏期講習などに参加していましたが、サッカーでの推薦入学が決まりました。正直勉強はしたくなかったですし、都立へ進学する覚悟もなく、サッカーに逃げました。

ー先ほど、高校生のときに腰を痛めたとおっしゃっていましたが、腰の怪我でプレーできない時期はショックはありましたか。

僕の中では腰を怪我した時点で諦めていて、気持ちが切れてしまいました。復活できればと思っていたものの、怪我人であることを理由にさぼっていました。

そこから整骨院に行きますと言って家へ帰ったり、練習に出ずに遊んだりする状況が続いて。あっという間に5ヵ月が経ち、高校生らしく遊びたいと思い、サッカー部を辞めました。

中学のときは怪我をしても、すぐに復帰してプレーしたいと思っていましたが、高校では逃げるようになりました。

基盤が形成された大学時代

ー夢が途絶え、お父様のお手伝いはされたのでしょうか。

休日に家にいる自分を見て「仕事を手伝ってくれよ」と言われ、 面倒くさがりながらも手伝っていました。4人兄弟の家族を養う父の姿は、なかなか真似できないことだなと思い、理系の大学に進学しました。

ーお父様の跡を継ぐことはポジティブな考えでしたか。

ポジティブに考えていましたが、大事な土日を奪われることが嫌でした。

ー大学では濃い生活を送れたのではないでしょうか。

非常に濃かったですね。大学1年の6月、友人からイベントに誘われ、自分たちで場所を借り、お客様を集めました。お金が回り、売り上げが立ち、1つの事業として成り立っていることに気付かされました。

集客を行い、ある程度人数が集められる状態になったときに、立ち上げメンバーが辞めてしまいます。組織の代表を決める話になり、嫌なことから今まで逃げてきた自覚があったので、代表を務めることになりました。

何も知識が無いなかではありましたが、売り上げを立て、みんなを稼がせなければならないという思考に変わり、段々と自分の中で成長の幅が広がりましたね。

誰かの責任を背負うことの重大さ、重みをそこで感じて、責任の大きさが器を広くすることを実感しました。チームを束ね規模が大きくなろうとも、失敗したらすべて代表のせいです。

その生活を2年半続け、誰かの下について動くという概念が無くなりました。もっと自分のやりたいことをやり、僕のビジョンについてきてくれる人と仕事をしたいと思うようになったことが、起業につながったと考えています。

ー当時のイベントはどんなものだったのですか。

小さな規模からでしたが、学生が楽しめるフェスを行いました。

ーもともと興味はあったのですか。

まったくなかったです。誘いを何度も断っていましたが、理想の形で学生生活を送れていなかったこともあり、フェスを行うようになりました。