色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第52回目のゲストは株式会社MATCHA CPO 齋藤慎之介さんです。
宮城県仙台市で生まれ育ち、明治大学商学部に進学。大学在学中にフィリピン留学、ニューヨーク留学と、海外とのつながりをもちます。そんななか、MATCHAの立ち上げから参加し、卒業後は博報堂へ入社。デジタルマーケティング領域で経験を積み、再びMATCHAへと参画しました。
大学での経験から、将来の方向性を決めていった齋藤さんのユニークキャリアに迫ります。
コロナショックの今だからこそ提供できるMATCHAのサービス
ー本日はよろしくお願いします!株式会社MATCHA CPOという立場で、どのようなお仕事をされていらっしゃるのでしょうか?
株式会社MATCHAは、インバウンド業界のベンチャー企業になります。訪日外国人観光客向けWebマガジン「MATCHA」の運営が主な事業です。多いときで月340万人ほどの読者が世界中からサイトにアクセスしてくれているんです。
僕はCPOとして、メディア全体や新規開発の統括を担っているプロダクトの責任者を務めています。
ーインバウンド業界のコロナショックの影響は大きなものだと思うのですが、MATCHAにおいての変化はありますか?
そうですね…いまは観光客が日本にこれない状態なので、メディアのPV数も減っているのが現状です。ただ、そんななかでも増加している部分もあります。
MATCHAは訪日外国人向けに日本の魅力を文化や観光地など様々な角度で伝えています。より広い世界に発信するため、10の言語を使用しています。そのなかのひとつが「やさしい日本語」です。
やさしい日本語というのは、日本語能力認定試験のレベルN4~N5にあたる日本語(基本的な日本語をある程度理解することができる)になります。いま、日本でも「せっかく家にいるなら、英語学習をすすめよう」と思っている人がいるように、時間があるからこそ日本語を勉強しようと考えている外国の方が見てくれているのでしょう。
ー日本にやって来れなかったとしても、世界中の人の助けになっているんですね。素晴らしい取り組みです。
「もっと自由に生きていい」世界が開けた留学体験
ー明治大学に在学中の留学経験が、いまの齋藤さんのキャリアに大きく影響していることと思います。明治大学にはどうして進学されたんですか?
宮城県で生まれ育って、東京に行くなんて考えてもいませんでした。小学校からずっと熱心に野球をやっていて、生活は野球一色で。そんな中学生時代に、父親が「東京にはこんな学校があるんだよ」と慶應の付属高校の存在を教えてくれたんです。当時、名のある監督が慶應の野球部を指導していたこともあって、中学2年生の終りから「高校から慶應に行きたい」と受験に励むようになりました。
しかし、それまで野球ばかりだったため、受験は失敗し…結局、地元の進学校に進みます。大学進学時も慶應が第一志望だったものの、またも不合格に終わりました。その後、1年の浪人生活を経て、明治大学の商学部に進学をします。浪人生活の間、野球から離れていたため、大学では違うことに挑戦したいと思うようになっていました。
ー具体的に、大学ではどのようなことをされたんですか?
これも父親からのすすめだったのですが、「海外留学を経験してみたら?」と言われ、それまで海外渡航経験は全くなかったのですが、1年生の夏休みを利用して2ヵ月間のフィリピン語学留学をしました。いまでこそ語学留学先としてフィリピンは人気ですが、当時はまだブームが始まってすぐの頃でした。
僕の「英語」と「世界」に対しての興味が加速していった契機になりました。
ーフィリピン留学ではどんなことを感じ取ったのでしょうか?
大学1年生だったので、それまでの僕の人生を構成するのは、地元の仙台の人たちと、大学で出会った友人だけだったんですよね。振り返ると限られたコミュニティだったことが分かります。でも、留学先には、年齢も職業もばらばらの日本人が集まります。大手企業で働きながら2週間だけ休みを作って英語を学びにきたエンジニアや、自分のブログで発信をしながら留学をするブロガーもいました。
そこに、さらに韓国人やロシア人が加わっていて…たくさんの魅力的な大人に出会うことができました。そして、みんなとても自由に生きているように見えたんです。「ああ、もっと自由に、もっと挑戦的に生きてもいいんだな」とそこで感じ取れたのは、大きな収穫だったと思います。
英語学習は英語に触れる環境づくりから
ー人との出会いも留学の醍醐味ですよね。留学後に、ご自身のなかでの変化はありましたか?
フットワークが軽くなったと思います。発信することにも興味をもって、ブログを立ち上げました。あとは、英語に対しての意欲が更に増して、交換留学をすることを目指して益々英語の勉強に力をいれましたね。
ー英語はどのように学んでいたんですか?
座学はもちろんですが、話して使うことが大事なので、Facebookで朝活グループを立ち上げました。カフェに希望者で集まって、英語でコミュニケーションをとる会です。結果的にそのグループは300人くらいの規模に成長しました。
また、外国人と触れ合う機会も大切にしたいと思い、カウチサーフィンのホストを積極的に行いました。せまい部屋だったのですが、そこに招き入れて宿として提供し、都内の観光の案内をしていました。やはり、英語を学ぶうえで、一番楽しかったのは外国人とのコミュニケーションですね。
英語の勉強を本気でするなら、自分の身の回りを英語にする、環境づくりが重要だと考えています。カウチサーフィンはそのための手段として適していたんです。
ーその頃から、外国と日本の架け橋を体現していたんですね。MATCHAは立ち上げ当時から関わっていたそうですが、どのような経緯で始まったのでしょうか?
1年生の留学で世界が開けて、2年生の夏には東南アジアをバックパッカーとして旅しようと情報収集をしていました。そのとき、強烈に惹かれるブログがあって、それを書いていたのが現株式会社MATCHA代表の青木でした。彼は世界一周をしながらブログで情報発信をしていて、僕はその読者だったんです。
あるとき、青木が「朝活をしましょう」とTwitterでイベントの呼びかけをしていて、ただ会いたい一心で応募しました。そこで関係ができて、その後も数回顔を合わせるうちに「実は訪日外国人向けメディアの立ち上げを考えている」とMATCHAの構想を聞かせてもらえたんです。そして、「よかったら一緒にやらない?」と誘われて、立ち上げメンバーに加わりました。
当時は、渋谷のシェアオフィスを拠点にしていて、メンバーも学生が多く、学校終わりに集まって記事を書いたり、SNSの更新をしたり…。その後、僕は念願かなって交換留学へ行くのですが、その間もメンバーとしての活動は続けました。
ーまさにMATCHAが誕生しようとする瞬間から立ち会っていたんですね。交換留学はどうでしたか?
ニューヨーク州にある、ニューパルツという自然に囲まれた町の大学へ留学しました。「理想のキャンパスライフ!」という感じで、とても充実した1年間でしたね。
交換留学なので、明治大学での学部と同じ分野の授業をとることで単位を取得でます。しかし僕は「せっかくならアメリカでしか学べない授業を取りたい!」という気持ちで、グラフィックデザインやジャズの歴史など、自分の興味が惹かれるまま受講していました。おかげで単位はたったの3つしか取得できなかったものの、とてもいい経験でしたね。
また、アメリカという国でより多様性を意識することができるようになりました。インターナショナルコミュニティに所属し、自分が「日本人なんだ」ということを強く意識する一方で、あまりに多くの人種がいるため、「誰がアメリカ人なんだ」ということが分からなくなるような錯覚があったんです。そんな状況で「国籍って意味がないのかもしれない」「大事なのはいち個人として生きること」だと気付き始めました。
ー日本だと、普通に生活をしていると日本人がほとんどの環境なので国籍について想いを巡らせる機会はなかなか得られませんよね。
また、違った宗教や人種の人たちへの配慮を知りました。日本人として、いままで自覚なくおこなっていた行為が、相手にとっては不快なものや差別的なものに映るんだと知り、反省することも多々あったんです。
日本人の当たり前をそのまま世界に持ち出すと、恥をかく。それを知れたことはいまに活きています。
大手企業で学んだのは人間の基礎力
ーいろんなことを学び、帰国して、いよいよ就職活動となったとき、MATCHAではなく他の企業を選んだのはどうしてですか?
「大きな組織で働くって、どんなものだろう」という好奇心のようなものを抱いていました。一度は大企業で働きたいな、という気持ちがあったんです。それで博報堂から内定をいただいて入社しました。
きっかけは知人が働いていたことですが、もともと「誰かのきっかけになる働きかけって素敵だな」と思っていて、広告という仕事に惹かれていたんです。
ー博報堂ではどのようなお仕事をされていらっしゃったんでしょうか?
1年目から博報堂DYデジタルというグループ会社に出向して、デジタルマーケティングの部署に配属されました。戦略立案や運用のディレクション…デジタルマーケティングに関わることを全般的に経験しました。動きとしてはプロジェクトマネージャーに近かったかもしれませんね。
ー会社員として働きだし、どのようなことを学ばれましたか?
なにより人間力を鍛えられたなと思っています。
1年目のときに、チームリーダーから「君は他者への想像力が足りない」と指摘されました。それがいまでも印象に残っています。代理店なので、とにかく相手の視点に立つことが大事なんです。プレゼンにおいてはクライアント目線に、作り上げるメッセージはクライアントのお客様目線に…「どう見えるか」「どう伝えるか」を考えるクセが身に付きました。
また、コミット力も鍛えられましたね。クライアントの成功を実現するためには、なんでもやる。その精神が叩き込まれました。これらは基礎力となって、いまの仕事の土台にもなってくれていると思います。
人生はチャレンジ。変化があったほうが面白い
ーその後、博報堂を退職し、一転してベンチャー企業であるMATCHAに再び戻ったのはどうしてですか?
博報堂で働きながらも、ずっとMATCHAの存在は視界の中にあったような気がします。メディアとして成長を遂げていき、資金調達もし、認知度も段々とあがり…。そんな古巣のステップアップを見ながら、自分の中で、「大きな組織の中の、ひとつのチームの、一構成員としてこのまま続けていいのだろうか」という疑問とともに、「もっとダイナミックな仕事をしたい」という気持ちが膨らみました。
博報堂に入社してからも、代表の青木にはよく銭湯に誘われ、サウナで仕事の話をしたりしました。そのたびに、「いつ戻ってくるの?」と声をかけてくれていたんです。もともといつか戻って自分の力を試したいという思いがあったため、「よし、そろそろ」と気持ちが動いたのが2017年の冬でした。
ー大手企業からベンチャーへの転職は大きな決断だったのではないでしょうか?
そうですね。給与面でも正直不安はありました。ただ、そのときはお金のことはそこまで気にならなかったんです。それよりも、チャレンジできる環境と、そこで得られるかもしれない成功に対しての野心のほうが勝っていました。
人生はチャレンジの連続で、変化が多い方が断然面白いなと思っています!なので、迷いはなかったですね。
ーその後、CPOに任命され、今年の4月には「The Forbes 30 Under 30 Asia 2020(アジアを代表する30歳未満の30人)」のコンシューマーテクノロジー部門に選出されたということで、目覚ましいご活躍ですね。
媒体資料作成など、泥臭いところからスタートして、メンバーとの信頼関係を築き、本来やりたかったプロダクトのマネジメントを任されるようになったのは嬉しかったですね。
今、コロナショックでインバウンド業界が苦しいときですから、「30 Under 30」に選ばれて注目していただけたのも有難いです。日本を背負ってこの状況を乗り越え、日本の魅力をもっと世界に発信していきたいと気持ちを新たにしています。
ー最後に、今後の展望をお聞かせください。
僕は、MATCHAのことを「日本の未来を作る会社だ」と思っています。日本は少子高齢化が進み、それに伴って地域の過疎化も深刻な課題となっています。これが進行することによって、世界に誇れる日本の伝統文化の後継人がいなくなり、その文化そのものが消滅してしまうかもしれません。MATCHAは、日本の伝統文化を、後世の人に、そして世界の人に伝える活動を続けます。
旅行は人生において新しいきっかけを与えてくれるもので、そのきっかけは、その後の人生を形作る可能性をもっています。外国人が日本で、期待を超える素晴らしい体験をすることで、地域や経済は盛り上がりをみせるでしょう。「日本に来てよかった」と思う外国人を増やす。そんな強いプラットフォームを提供することで、日本の未来につなげます。