竹中俊が、世界の貧困・環境問題に向き合う社会活動家になるまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第520回目となる今回は、社会活動家の竹中俊さんをゲストにお迎えします。

2016年からネパールで孤児院の運営をする他、貧困・環境問題についての講演を200回以上実施している竹中さん。instagramのフォロワーは1.7万人にものぼり、大きな発信力を持っている若き社会活動家です。

竹中さんは、どのようにして大きな影響力を持つようになったのか? 竹中さんがどのように人生を切り拓いてきたのかをお聞きしました。

35人の子どもたちのパパとしてネパールの孤児院を運営

ー自己紹介をお願いします。

竹中俊(たけなかしゅん)です。2016年からネパールで孤児院の運営をしており、35人の子どもたちのパパとして活動しています。

また、世界や日本中を周りながら貧困や環境などの社会問題をInstagramで発信し続ける活動はメディアにも取り上げられ、講演は200回以上になりました。

その他、売上をネパールの子どもたちへ全額寄付するBar.Sunshineの経営や、社会活動家が集まるコミュニティとしてのオンラインサロンや、北海道・沖縄で拠点づくりなどをしています。

ー貧困・環境問題の解決をテーマに、幅広く活動されているのですね! まず、ネパールの孤児院の運営について教えてください。

ネパールは人口2,900万人ほどの国で、国民の60%が貧困層と言われています。国土の8割が農地であるた農業はできますが、経済が発展しづらいという構造にあります。頼りの産業は観光業なのですが、コロナ禍によって大きなダメージを受けて苦しい状況です。

農作物は得られるので飢えはしのげますが、それだけでは生活できませんから700万人が他の国へ出稼ぎにいきます。さらに、カーストの下層にいる人たちは、なおさら仕事を得ることは難しく、街にはストリートチルドレンが溢れています。

ー生活が苦しい方がたくさんいるのですね。その中で、竹中さんはどのような活動をされていますか?

施設のポリシーとして「どんな子どもでも受け入れる」としているので、孤児の子、家族はいるけど事情があり一緒に住むことができなくなってしまった子、障害を持つ子など、様々な背景を持った子が集まっています。

その子どもたちが十分に食べたり、教育を受けられるように、日本で得た収益で、金銭的な支援を行っています。また、現地のスタッフにスマホを渡して、子どもたちの情報を密に共有するようにしています。これにより日本にいる時も、子どもたちの健康面・精神面のサポートにも気を配れるようになりました。

ー現地にいない時も、細やかな支援をされているのですね。どのように支援のノウハウを手に入れていったのでしょうか?

最初は、大学の夏休みに現地に行きましたが、本当に手探りでした。何をすれば良いのか分からなかったので、文房具や服などの物資をもらってそれを届けたり。騙されてお金を取られてしまったことさえあります。

活動が全然うまくいかず、何もできていないことへの焦りや、学問との両立の難しさを感じることも多々ありました。

ーその辛い時期は、どのようにして乗り越えたのでしょうか?

他でもない、子どもたちに勇気をもらいました。ある時、帰国する前日、私は無力感で暗い顔をしていたようです。子どもたちに言われました。

「何でそんな顔をするの? 明日はどうなるか分からないから心配しなくていいんだよ。将来を作るのは今なんだから、僕らといる時は笑っていてね」

優しい笑顔でそう言われたことで、私は元気を取り戻すことができました。そして、困難があっても取組続けることができたのです。

ー子どもたちの温かい言葉に、励まされたのですね。

そうして、諦めず継続するうちに現地の方との繋がりが生まれ、何をすれば子どもたちのためになるのかが少しずつ分かってきました。それから支援の形の修正を重ね、今の食事支援・教育支援の形を作り上げました。

貧困と環境問題をテーマに、200回以上の講演を実施

ーネパールの孤児院の運営は、やり方は分からずとも、まずはやってみて継続することで道が開けたのですね。

その通りです。講演活動も同じです。最初は全く人が来てくれませんでしたが、それでも地道にSNSでの発信や、講演でメッセージをし続けた結果、共感してくれる人が現れたり、企業が連絡をくれてサポートしてくれるようになったりしました。

インスタ、twitter、ブログ、誰が見てくれる訳でもありませんでしたが、貧困・環境問題や、子どもたちに関する発信を毎日続けました。

ー竹中さんは貧困問題の他に、環境問題の発信もされていますが、これは何がきっかけだったのでしょうか?

ネパールの問題に取り組む中で、実は、貧困問題と環境問題は密接な関係にあることに気づきました。例えば、気候変動によって大雨が継続すると、麦などの農作物はカビてしまい、収穫できなくなってしまいます。

また、地球温暖化によってサンゴが死ぬと魚の住処がなくなり、漁業で生計を立てている国の人たちは生きていけなくなります。さらに温暖化のみならず、海には800万トンのゴミが溢れており、2050年には魚よりゴミの量の方が多くなるとも言われています。

こうなれば海の生態系は崩れ、漁業は壊滅的なダメージを受けることは避けられません。フィジーのような漁業で成り立っている国は、立ち行かなくなる可能性があるのです。

ー環境の悪化は、農業・漁業などにダメージを与え、それが貧困を引き起こしてしまうのですね。

このような問題の解決には、1人ひとりの日々の選択の変化が重要だと思っています。例えば、ゴミを減らすために無駄な消費を抑えること。私自身は、環境問題を知ったことでミニマリストになり、服もできる限り持ちませんし、家も持たないようになりました。

また、1人ひとりの意識を変化させていく仕組みづくりも大切です。例えば、スーパーに並んでいる食材には、農家の方の顔が見えるように写真が載ることも増えてきました。

この考えを転用して、服を販売する時に、生産者の顔を表示したり、その服が作られるまでの過程・ストーリーを知ってもらう取組も始まっています。「それが、誰に、どんな風に作られたのか」知ることで、人が物を自然と大切にする。そんな新しい動きも発信して、応援したいと思っています。

ー竹中さんは幅広い知識を持っていらっしゃいますね。どこで、そのような知識や課題感を育てられるのでしょうか?

環境問題を発信するなら現地のリアルを実際に見る必要があると考え、世界10数カ国を周りました。山火事問題が起きたオーストラリア、海面上昇によって消滅の危機があるバヌアツ共和国、その他、東南アジア、インドなどを訪問して問題について学びました。

その後も、継続的に勉強したり、クリーン活動を行ったり、社会活動家の方たちとの交流を通じて、情報を得ながら学び続けています。

 

サッカーを通じて開花した、責任感・正義感

ー竹中さんが、貧困と環境問題について大きな発信力を持つに至るまで、そのルーツに迫っていきたいと思います。幼少期はどのように過ごされましたか?

小中はクラブチームでサッカー漬けの日々を送っていました。自分よりうまいプレイヤーは他にもいたのでベンチも多かったのですが、キャプテンを任されていました。

言いたいことはハッキリ言うタイプでリーダー気質があったこと、チームメイトのことをいつも考えている世話焼きなところなどが周りに認められたのかもしれません。

目立ちたがりな自分の性にも合っていて、キャプテンを務めるのは楽しかったことを覚えています。

ーサッカーに力を注ぐ中で、どんなことを学びましたか?

誰かが起こした問題も、自分事として捉えて責任をとっていくスタンスを学びました。

例えば、自分はAチームに所属していましたが、自分とは異なる場所で試合するBチームのメンバーが忘れ物をしてチームに迷惑をかけた場合。キャプテンである以上、この時も1番悪いのは自分だと考えます。

そして問題が二度と起きないように、チームメイト全員の性格やコンディションにも気を配ることを意識し始めました。

ー社会課題を自分事として捉えて取り組むスタンスや、ネパールの孤児院の子どもたちに細やかな気配りをする竹中さんの原点を感じますね!

サッカーにのめり込んだ日々は、今に大きな影響を与えています。それに、貧困問題に興味を持つきっかけもサッカーにありました。

実は高校のサッカー部の顧問がJICAの青年海外協力隊を通じて、南米の貧しい子どもたちにスポーツを教える活動をしていたのです。その時に、子どもたちの写真を見せてもらいながら話を聞いて、興味を持ちました。

「世界を見てみたい」という気持ちが芽生えましたが「でも現実を考えると、自分が行くのは難しいだろう」という気持ちもありました。

ー葛藤されていたのですね。その後、どのように行動されたのですか?

大学サッカー部は、1年で辞めることを決めました。大学に入ってからずっと悩んでいましたが、自分の実力を冷静に見た時に、これ以上やっても目覚ましい成果は出ないと思いました。であれば、振り切って、自分の世界を広げようと考えたのです。

日本を巡る旅での出会いがネパールの活動へと繋がった

ーまずは何から始めたのでしょうか?

世界への憧れもありましたが、まずは日本中を見ようと考えて、ヒッチハイクの旅に出かけました。ただ、普通にやっても面白くないと考えて、この時に実施したのが「サッカーボールを蹴りながら日本を周る」という企画です。

その様子をSNSで発信しながら、リツイートの数で、翌日の旅の資金を決めるというルールでやりました。目立ちたがり屋の自分は、ただ日本一周をするのがもったいないと思ったのです。

ーサッカーボールを蹴りながら日本を周るなんて、面白い企画ですね! やってみて、どのような感想を持たれましたか?

周りからの視線が痛くて、始めて数十分で嫌になりました(笑) 最初は泊まるところを探すのも大変で、ヒッチハイクをした人の家に泊めてもらったり、行き着いた場所でまったく知らない人の家のインターホンを押して頼み込んだりしました。

中々、精神的にタフなチャレンジでしたが、泊めてくださる皆さんの温かさに触れて、続けてみようと思うことができました。

すると、驚いたことに数日でフォロワーが150人から3,000人に増えました。すると日本全国どこに行っても、企画を知る人から泊まる場所をご紹介していただけるようになったのです。

ー勇気を出して継続したら、大きな変化が起こったのですね。

人の繋がりの持つ力に驚かされた経験でした。そして、日本一周を通じて色々な人に会う中で、人の多様性に気付かされました。

生き方も、働き方も、本当に色々な人がいて。それを知って「自分の知らない世界を知りたい」と強く思った私は「月に最低10人、まったく知らない人とご飯に行く」ということを続けることを決めました。

twitterやfacebookを使って、まったく繋がりはないけれど話してみたいと思う人にDMを送り、どんどん色々な人に会いに行くことにしたのです。

ー自分の世界が一気に広がりますね。どんな出会いがありましたか?

例えば、神戸では航海士の方に出会ったり、普通だったら、一生かけても出会わないような人たちとたくさん出会えました。

そして、その中に、ネパールで災害ボランティアを行っている社会活動家の方がいたのです。高校時代に思った「世界の貧困について知りたい」という想いが甦り、私はその人に「ネパールに連れていってください」と頼み込んでいました。

これが、私のネパールの孤児院での活動の始まりです。

ー自ら出会いを広げていった結果、チャンスが訪れたのですね!

多くの人と出会い続けることは、とても大切なことだと思います。

人と話せば、新たな選択肢を知れますし、知識がついて、できることが増えていきます。そして自分の活動に共感してくれる人が仲間になってくれる機会にもなります。

沖縄で社会活動家のコミュニティを作る話も、出会った行政の方にお声がけをいただいて実現したものです。人との繋がりで、新しいチャレンジが広がっていくを感じています。

ー人と出会い続けて、自らを成長させ、新たなトライをし続けるのが、竹中さんのスタイルなのですね。最後に、竹中さんの今後の展望について教えてください。

貧困問題・環境問題を解消したいという想いは、活動を続ける中で大きくなり続けています。

これまでは「1人ひとりの日々の選択を変化させる」というテーマで、消費者側へのアプローチを中心に行ってきました。しかし、想いを実現していくためには、企業を始めとする生産者側へのメッセージが必要だと考えています。

今後は、企業との連携を増やし、貧困問題・環境問題の解決にとってよりインパクトのある取組にチャレンジしていきたいと思っています。

ー竹中さんの活動は、更に加速していくのですね! その活動をこれからも応援させてください。今日は素敵なお話をありがとうございました。

取材者・執筆者:武田健人(Facebook / Instagram / Twitter
デザイナー:安田遥(Twitter